大江広元

大江広元/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

大江広元がいなければ鎌倉幕府は運営できなかった?朝廷から下向した貴族の才覚

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一幡と千幡を使っての政争

景時が討たれた後、鎌倉幕府には一時的な平和が訪れました。

広元は頼家の鶴岡八幡宮参詣に付き添ったり、蹴鞠の達人を招いて頼家に披露させたりしています。

頼家は大の蹴鞠好きでしたので「政務でのストレスを発散させよう」という広元の親心めいた配慮だったのかもしれません。

また、この時期から広元の長子・親広が記録に登場するようになります。

親広の生年は不明ですので、この頃何歳くらいだったのかはわかりません。

この後、建仁三年(1203年)に源実朝の元服の際、儀式で使う道具の準備を北条義時とともに務めていること、広元が1140年代生まれであることから考えると、親広は1170~1180年代生まれが妥当でしょうか。

頼家は寿永元年(1182年)、実朝は建久三年(1192年)生まれですので、整合性も取れるかと。

おそらく年齢の近い、そして信用していたであろう広元の息子が出てきたことに良い刺激を受けたのか、頼家は政治への意欲を見せ始めます。

五百町(約5平方キロメートル、埼玉県蕨市くらい)以上の広い領地を持つ御家人から領地を一部分削り、困窮している他の御家人たちに分け与えることを命じました。

慈悲ある決定にも見えますが、土地を削られる側からすれば面白くないのもまた事実。

引き換えに何か果実を与えれば良かったのですが、頼家はそこまで気を回せなかったようです。

この命令は問注所の執事(長官)・三善康信が強く諫言したことによって取りやめとなり、一応、無事に済みました。

しかし、頼家には

「何かをやろうとすれば止められる!」

という不満が重なり、だんだん政治への意欲も失ってしまいました。

御家人たちも頼家への忠心を失っていきます。

そんな状況で迎えた建仁三年(1203年)、3月に頼家が病を患い、広元の邸で療養することになりました。

この時点で頼家の息子・一幡はまだ数え6歳。

もしも頼家が急死すれば、政治的混乱が起こるのは火を見るよりも明らかです。

当時12歳の弟・千幡(後の実朝)のほうが適任だったでしょう。この時代であれば元服してもおかしくない頃合いです。

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そこで北条政子を含めた鎌倉幕府の重鎮たちは、

「関東の地頭と将軍職を一幡に、関西の地頭を千幡に」

という、分割統治策を取ろうと考えました。権力を分割することで、円満に解決しようとしたのです。

しかし、ここで頼家の妻であり一幡の母・若狭局とその実家である比企氏が、

「全て一幡が相続するべきです!」

と主張します。

 


比企能員の変

頼朝の嫡男である頼家から、嫡孫である一幡へ。

これはこれで問題のない相続ですが、先述の通り一幡はまだほんの幼児です。

比企氏が実権を握りたいためだけの主張であることは、誰の目から見ても明らかでした。

しかし現将軍の母である政子と、その実家である北条氏が、そんな意向を呑むわけもなく対立が激化。

こうした中で、広元はどうしたか?

非常に重要な局面で広元がチョイスしたのは、北条氏寄りの立場ながら、ハッキリと背中を押すようなものではない……要は曖昧な回答でした。

後に【比企能員の変】と呼ばれるこの事件。

吾妻鏡では、

「比企氏方が北条氏を討つ計画を立てた。これが政子にバレたので、北条氏が先手を打って比企氏一族を討った。その中には一幡も含まれていた」

とされていますが、その直前に

北条時政が広元に意見を求めた」

と書かれているのです。

それに対し、広元が出したという曖昧回答がこちらです。

「私は頼朝様の時代から政治をお助けしてまいりましたが、兵法については門外漢です。比企氏を討つとおっしゃるのなら、よくよくお考えください、としか申せません」

もっともな言い分なんですが、後述する【承久の乱】とはだいぶ異なる印象なのです。

この直後、広元は政子の邸に呼び出されており、そのとき護衛役の飯富宗長という武士にこう言ったとか。

「さっき意見を申し上げたばかりなのに、また呼び出されるとは不審だ。もし何かあれば、お前が私を殺すように」

※吾妻鏡の版によっては「北条氏を殺せ」となっている

先述の通り、頼家は広元の邸で療養していたため、政子としては

「頼家が比企氏方であり、陰謀に関与しているのならば、広元が何か知っているはず。直接話を聞かなければならない」

という考えがあったのでしょう。

ただし、この呼び出しの際、どのようなやり取りがなされたのか?というのは不明です。

結果として比企氏と一幡は滅ぼされ、広元は生き残りました。

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おそらくは広元に対する疑いは晴れ、頼家の処分はひとまず先送りになったものと思われます。

 


和田合戦と実朝暗殺

一幡と千幡の後継争いから、比企一族と北条氏の政争へ。

これに勝利した北条方により、将軍の座は千幡改め睹実朝のものとなり、三代将軍に就任となりました。

大江広元は、この元服を済ませたばかりの少年将軍を、引き続き補佐していきます。

この時期からは、北条時政との関係も重要になっていきました。

時政が政所別当に就任したからです。

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頼家時代と異なるのは、実朝自身に政治への意欲があったこと、そして父の行いや先例を重んじる姿勢があったことです。

広元は実朝を守り立てつつ、北条氏と協調し、他の御家人たちとも円滑に政務をこなしていく――そんな胃の痛くなりそうな立場に再びなりました。

元久元年(1204年) には修善寺で頼家が暗殺され、翌元久二年(1205年) 畠山重忠の乱 ・牧氏事件、そして建暦三年(1213年) 和田合戦と……鎌倉幕府の中で目まぐるしく事件が続くのです。

多くの有力御家人が滅亡していく中、なぜ広元は生き残ることができたか。

和田合戦の際には、実朝からの信頼も勝ち得ていたことがわかる逸話が残っています。

この事件は有力御家人の一人・和田義盛と北条氏の対立が極まり、義盛が北条義時を討とうとして逆に討たれた……というものですが、実朝は全くと言っていいほど事の流れを知りませんでした。

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そのため騒動が起きてから驚き、広元と共に頼朝の墓がある法華堂へ避難しています。

さらに実朝は、広元に事の沈静化を願う願文を書かせ、自分でも和歌を二首添えて、鶴岡八幡宮に奉納しました。

広元が緊急時でも頼りにされていたこと、実朝が文化人であると同時に信心深い人であったことなどが伝わってくる逸話ですね。

一方で、実朝に関しての懸念もありました。

実朝は何を思ったか、次第に焦るような言動を見せ始めるのです。

具体的には、宋から来たという僧侶・陳和卿の発言を信じて海を渡ろうとし、大船を作らせたり、若さや実績に見合わないほどの官位昇進を願ったり。

特に、昇進熱は異常とも呼べるほどで、将軍職に就いてから、ほぼ毎年・1年おきに位階が上がったり、上の官職を受けたりしていました。

最終的には父である頼朝までもを上回るようになっていたのです。

まだ若く実績のない実朝にはどう見ても不釣り合いであり、当時の価値観では不吉なこととされていました。

これに対し、広元も義時も実朝の身を案じて、建保四年(1216年)9月に諫言していたのですが……。

当の実朝はこんな悲壮なことを言っていたとされます。

「私はきっと長生きできないだろう。源氏の血も絶えてしまうに違いない。だからせめて官位を上げて、家名を高めておきたいのだ」

広元は絶句してしまい、何も言えなかったとか。

先述の通り、この諫言後も実朝の昇進は続いていますので、彼の願いは叶ったのですが……。

なぜ実朝が逸っていたのか、その理由は定かではありません。

近年では「実朝には子供がいなかったため、将来的に皇族から養子を迎える計画があった。皇族の義父にふさわしい官位を得ておくというねらいだった」という見方も存在します。

また「実朝は『北条氏が源氏を絶やして名実ともに政権の主になりたがっている』と考えていたのではないか」とも。

建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮参詣の際に実朝が暗殺されたため、後者の説を支持する方も多いようです。

当日実朝に随行する予定だった北条義時が、直前になって体調不良を理由に欠席しているので、根拠のない話ではありません。

事件のあらましとは関係ないものの、広元は実朝が八幡宮へ向かう直前、何か不穏なものを感じていたようです。

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吾妻鏡によれば、

「長じてから涙を流したことがないこの私が、なぜか涙が止まらない。不吉なことが起こるに違いない」

と言っていたとか。

そして念のために鎧をつけて行くよう進言したのですが、それは政所別当の源仲章に止められてしまい、悲劇を防げませんでした。

仲章は義時の代わりに急遽付き添い役を務めることになり、実朝と共に斬られてしまったので、なんとも皮肉な話です。

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