新田義興

新田義興/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

新田義興(義貞の次男)が矢口の渡しで謀殺されて~新田家嫡流の血脈も終わる

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義興には生存説も存在……阿波に落ち延びた!?

長男は新田義顕という人で、実は義貞の存命中に亡くなっています。

義貞とともに北陸で北朝への抵抗を続けていましたが、足利軍から兵糧攻めを受け、進退窮まって自害しました。

まだ20歳だったといわれています。

長男の義顕が早くに亡くなり、次男の義興は側室の出……ということで、新田家は正室生まれの三男・新田義宗が家を継ぎました。

義興と義宗は比較的仲が良かったらしく、上記の鎌倉攻めの際には協力しあっています。異母兄弟でうまくいくのって、なかなか珍しいですよね。

ただし、前述の経緯で義興が謀殺されたため、新田軍はさらに弱まってしまいました。

義宗は越後・上野(現在の新潟県・群馬県)あたりで戦い続けたものの、沼田で敗北し、戦死したといわれています。

例によって義宗には生存説も存在していて、

「再起をうかがっていたものの果たせず、出家して一族の菩提を弔っていた」

「阿波(現・徳島県)に落ち延びた」

などがあります。

源義経がチンギス・ハーンになった」とか「真田幸村(信繁)が秀頼を連れて薩摩へ逃げた」など、他の有名な生存説に比べると、いかにもリアルな話ですね。

いったん阿波へ逃げた後、仏門に入ったというのもありそうです。

沼田には義宗像と伝わる木像がある他、家臣の建てたとされる義宗のお墓も存在しているそうで。

五輪塔(伝新田義宗・船田長門守経政の墓)/wikipediaより引用

義興も「お寺で乱暴すんな」(超訳)という触れ書きを出したことがありますので、義貞の息子たちは寺社や家臣との関係も良かったと思われます。

義貞も倒幕前に地元のお寺を保護したことがありますし、そういうものを重視する家風だったんでしょうかね。

こうなると義宗の代で新田家滅亡か……とも思えますが、もうちょっとだけ続きます。

 


新田家嫡流の血は絶えてしまった

その後、義宗の子(義貞の孫)・貞方が信濃で隠れ育ち、さらにその子(義貞のひ孫)・貞邦と共に兵を挙げました。

この頃の世情としては、

・南北朝が統一しかけてポシャった

・ときの鎌倉公方・足利満兼が病気になった

といった感じで、新田一族にとってまたとない機会と思われたのです。

しかし、関東の旧南朝方に連絡を取っていたところ、逆に鎌倉公方へ通報され、捕まってしまいました。

そして貞方・貞邦ともに、鎌倉の七里ヶ浜で斬られたといわれています。

七里ヶ浜はかつて義貞が鎌倉への奇襲をかけたところでしたので、二人の無念はいかばかりかと思うと、なんとも言えない気持ちになりますね。

足利方の当てつけだったんでしょうか。

しかも貞邦には子供がいなかったため、新田家嫡流の血はここで絶えてしまいました。

一応、他の系統では残っているようなのですが、史料に乏しくはっきりしていません。

栄枯盛衰は世のならい――とはいえ「新田氏の流れを汲んでいる」と自称した徳川家康とその子孫が栄えたことを考えると、何だかなぁという気もしますね。

家康が戦も政治もチートすぎるんですけれども。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon
新田神社(→link

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