こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【新田義興】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
義興には生存説も存在……阿波に落ち延びた!?
長男は新田義顕という人で、実は義貞の存命中に亡くなっています。
義貞とともに北陸で北朝への抵抗を続けていましたが、足利軍から兵糧攻めを受け、進退窮まって自害しました。
まだ20歳だったといわれています。
長男の義顕が早くに亡くなり、次男の義興は側室の出……ということで、新田家は正室生まれの三男・新田義宗が家を継ぎました。
義興と義宗は比較的仲が良かったらしく、上記の鎌倉攻めの際には協力しあっています。異母兄弟でうまくいくのって、なかなか珍しいですよね。
ただし、前述の経緯で義興が謀殺されたため、新田軍はさらに弱まってしまいました。
義宗は越後・上野(現在の新潟県・群馬県)あたりで戦い続けたものの、沼田で敗北し、戦死したといわれています。
例によって義宗には生存説も存在していて、
「再起をうかがっていたものの果たせず、出家して一族の菩提を弔っていた」
「阿波(現・徳島県)に落ち延びた」
などがあります。
「源義経がチンギス・ハーンになった」とか「真田幸村(信繁)が秀頼を連れて薩摩へ逃げた」など、他の有名な生存説に比べると、いかにもリアルな話ですね。
いったん阿波へ逃げた後、仏門に入ったというのもありそうです。
沼田には義宗像と伝わる木像がある他、家臣の建てたとされる義宗のお墓も存在しているそうで。
義興も「お寺で乱暴すんな」(超訳)という触れ書きを出したことがありますので、義貞の息子たちは寺社や家臣との関係も良かったと思われます。
義貞も倒幕前に地元のお寺を保護したことがありますし、そういうものを重視する家風だったんでしょうかね。
こうなると義宗の代で新田家滅亡か……とも思えますが、もうちょっとだけ続きます。
新田家嫡流の血は絶えてしまった
その後、義宗の子(義貞の孫)・貞方が信濃で隠れ育ち、さらにその子(義貞のひ孫)・貞邦と共に兵を挙げました。
この頃の世情としては、
・南北朝が統一しかけてポシャった
・ときの鎌倉公方・足利満兼が病気になった
といった感じで、新田一族にとってまたとない機会と思われたのです。
しかし、関東の旧南朝方に連絡を取っていたところ、逆に鎌倉公方へ通報され、捕まってしまいました。
そして貞方・貞邦ともに、鎌倉の七里ヶ浜で斬られたといわれています。
七里ヶ浜はかつて義貞が鎌倉への奇襲をかけたところでしたので、二人の無念はいかばかりかと思うと、なんとも言えない気持ちになりますね。
足利方の当てつけだったんでしょうか。
しかも貞邦には子供がいなかったため、新田家嫡流の血はここで絶えてしまいました。
一応、他の系統では残っているようなのですが、史料に乏しくはっきりしていません。
栄枯盛衰は世のならい――とはいえ「新田氏の流れを汲んでいる」と自称した徳川家康とその子孫が栄えたことを考えると、何だかなぁという気もしますね。
家康が戦も政治もチートすぎるんですけれども。
あわせて読みたい関連記事
家康は藤原氏なのか源氏なのか? 武士の姓って結構デタラメなのね
続きを見る
史実の北条時行はどんな人物だった?漫画『逃げ上手の若君』のように戦い続けた?
続きを見る
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで
続きを見る
中世合戦の天才が千早城でキレッキレ【まんが日本史ブギウギ】
続きを見る
尊氏vs直義 史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」の結末は毒殺か
続きを見る
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon)
新田神社(→link)