平賀朝雅

曽祖父である源義光(左)と父の平賀義信/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源氏の貴種・平賀朝雅~北条時政と牧の方に担がれた婿殿は将軍の座を狙っていた?

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北条政範、平賀朝雅邸で没する

悲劇とは……?

時政とりくの長男であり、北条家の嫡男でもある北条政範(ほうじょうまさのり)が亡くなったのです。

鎌倉では、源実朝の妻として坊門信清の娘・信子を迎えることになっていたのですが、その使者として京都へ出向いたのが政範。

晴れの舞台であり、京都でお披露目をする意味もあったのでしょう。

しかし元久元年(1204年)11月5日、北条政範は突如亡くなってしまいます。

享年16。

没した場所は平賀朝雅邸でした。

もしかして誰かに討たれたのか――?

当然ながらそこが気になりますが『吾妻鏡』では「病気に苦しみながら旅をしていた」とされ、病死という見解になっています。

しかし、病気がちな息子を京都に送り出すでしょうか。

仮に政範が健康体であったなら、16才で急死するような病気など、ほとんど考えられないはず。

となれば、何が怪しいか?

って、亡くなった当日、平賀邸で酒宴が行われ、平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が諍いを起こしていたことでしょう。

坂東武士、しかも武蔵の者同士、酒が入ってお互いに気に入らない、誹り、罵り合う――怒り心頭となって刀を抜き……というのは、誰でも想像してしまう気がします。

なんせ政範の遺骸は、仏事もろくに行われぬまま処理されてしまったばかりか、このとき亡くなった武士は政範と他にもう一人いたという記録もあるほどです。

もはや、これで病死と考える方が不自然かもしれません(ドラマでは平賀朝雅が毒を盛った設定)。

実際、政範の死に納得がいかなかったのでしょう。

時政とりく(牧の方)の怒りの矛先は、死の直前に朝雅が口論した相手である畠山重保とその父・畠山重忠に向けられます。

ただでさえ不穏な状況であった武蔵の御家人たち。

元久2年(1205年)、政範の死後、不満が鬱積していた時政とりく(牧の方)は畠山重忠・重保父子を討つよう北条義時北条時房に命じます。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)

激しく躊躇しながらも、断りきれない二人。

かくして畠山父子は命を散らします(【二俣川の合戦】)。

重忠の首を見た義時は、涙がこらえきれませんでした。

そして義時と時房、さらに姉の北条政子は、時政とりく(牧の方)と決定的に対立。

姉弟で父・時政を追い落とし、権勢を握ったのでした【牧氏事件】。

 


囲碁の石を数えて退出し、首となって戻る

畠山親子が亡くなり、北条時政が鎌倉を追い出され、平賀朝雅はどうなったのか?

それまでの朝雅は、京都で破格の待遇を受けていました。

元久元年(1204年)には平氏残党の【三日平氏の乱】を鎮圧、伊勢・伊賀守護職に任じられています。

殿上人にもなり、後鳥羽院の覚えもめでたく、順調な出世街道を走っていました。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

もしも政範や重忠に何もなければ、京都志向の強い時政とりく(牧の方)にとって自慢の娘婿であり、さらなる出世を続けていたことでしょう。

しかし、この二人が失脚した今、もはや事態は激変。

北条義時、大江広元、三浦康信、安達景盛らが集い、こう決めました。

京にいる平賀朝雅を討つべし――。

時政失脚の5日後、鎌倉からの使者が京都に入りました。

何も知らぬ朝雅は仙洞御所で囲碁の会に参加。

そこで使者と応対した朝雅は、囲碁を中断して立ち上がり、戻ってくると自分の目を数えます。

「関東から、私を討つ使者が参上しました。もはや逃げられますまい。お暇(いとま)をいただきたく存じます……」

後鳥羽院にそう奏上する朝雅。

そして自邸に戻り、逃亡の末、射殺されたのです。

前述の通り元久2年(1205年)7月26日のことで、享年24と伝わります。

討たれた平賀朝雅の首は、後鳥羽院が実検したと伝わります。

 


実父追放の言い訳か

なぜ平賀朝雅は討たれたのか?

『吾妻鏡』では

「時政とりく(牧の方)が源実朝を廃し、朝雅を将軍に据えようとした」

という陰謀があったから、政子や義時たちが止めたとされます。

確かに朝雅は頼朝の猶子であり、京都でも順調に出世しており、ありえたようには思えます。

ただし、これはあくまで『吾妻鏡』の言い分です。

政子と義時は、実の父を追い落とすという、親孝行も何もあったものではない政変を起こしました。これを正当化するための曲筆がなかったとは思えません。

北条政子イメージ(絵・小久ヒロ)

時政とりく(牧の方)を悪どく思わせるために、被害者である畠山重忠を徹底的に美徳の持ち主として描く。

当時の逸話からして彼が「坂東武士の鑑」であったことは確かでしょうが、その美化ゆえに武蔵をめぐるパワーゲームの色が薄れていると思えなくもありません。

どう誘導しようが、平賀朝雅が哀れな犠牲者に見える。

彼を将軍として擁立するという”陰謀“には、どうしても無理を感じてしまいます。

仮にそんな陰謀があったにせよ、勝手に義理の父母にそうされて本人も知らなかったのであれば、哀れな犠牲者であることには変わりはないでしょう。

そんな朝雅にどう陰影をつけるのでしょうか?

 

色悪――セクシーなワルとして描かれるのか

皮肉なことに、平賀朝雅が最も輝いた時というのは“死の直前“に思えます。

自らを破滅に追いやる知らせが届いても、一旦は囲碁を打っていた場所に戻り、石を数え、落ち着いた様子で後鳥羽院に奏上する――その姿には、曰く言い難いものを感じさせます。

並の坂東武者にはない、洗練されたものを感じます。

ドラマで演じた山中崇さんのコメントには、こんな言葉がありました。

「品はいいんだけど、うさん臭い」、「おフランス帰り」。そのように三谷さんから役のイメージを言われました。「色悪(いろあく)を意識してやってください」とも。

色悪とは歌舞伎の役柄で、外見は二枚目、性根は悪人のことをいいます。

「え、僕、決して二枚目では…」と申したところ、「それを山中さんがやることがおもしろい」とおっしゃっていました。

いただいた役のイメージを表現できるよう、そして作品にとっての良いスパイスとなるよう努めます。

「おフランス帰り」というのは、かつてあったステレオタイプで、『おそ松くん』のイヤミが典型ですね。

おかっぱ頭、ちょび髭、派手なスーツ、「ざんす」という語尾。

気取ってフランスにいたことを自慢しているタイプのことをこう呼びました。

『鎌倉殿の13人』の世界観で「おフランス帰り」は、京都らしさを前面に押し出す人物でしょう。

このドラマには京都から来た人がいます。

しかし、全員が京都ことばを話すかというと、そんなことはありません。

その例外がりく(牧の方)の兄・牧宗親でした。

気取った調子で京都ことばを話し、ニヤけている姿は「おフランス帰り」のような風情があったものです。

京都人だから気取っているのではなく、そうやってあえて出してきてマウンティングをする。そんなスノッブな人を指す意味で使われたのではないでしょうか。

そして「色悪(いろあく)」。

歌舞伎のみならず日本のフィクションではおなじみ、近年の少年漫画ですと『鬼滅の刃』鬼舞辻無惨が典型です。

美形でセクシーな悪党ということですね。

少ない平賀朝雅の逸話ではありますが、囲碁の手を止めて優雅に去る場面からは、確かにセクシーな魅力があるといえばそう。

結局、ドラマでは、誇り高き甲斐源氏の出とは思えないような情けない死に方でしたね。

北条政範の暗殺犯だったことが劇中でも明確に描かれたので、相応しい最期だったのでは?

ただ、義時に対する後鳥羽院の怒りを引き出し、十分にその役どころを果たしたと言えるでしょう。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』(→amazon
野口実『ミネルヴァ日本評伝選 北条時政』(→amazon
細川重男『鎌倉幕府抗争史~御家人間抗争の二十七年~』(→amazon

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