弘法大師空海

弘法大師空海/wikipediaより引用

寺社・宗教

弘法大師空海の生涯と功績~日本密教の祖にして至高の文化人だった

承和2年(835年)3月21日は、弘法大師空海が享年62で亡くなった日です。

高野山では「亡くなったのではなく今も入定(永遠の瞑想)をしている」としていますが、そのあたりの理由は後述しますね。

おそらく日本人であれば誰もが知っている方ですので、今回はサックリとその生涯を辿ってみましょう。

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讃岐の郡司の家に生まれ若くして京へ

空海は宝亀5年(774年)、讃岐(現・香川県)の郡司の家に生まれました。

郡司とは地方の役人のことで、元々それなりの身分があったことになります。

そのおかげか、早いうちに京へ出ることができ、母方の親戚から論語他儒学を教わるなど、比較的恵まれた環境にいました。

しかし、世俗の学問に限界を感じた若き日の空海は、同時に信仰心も高め、山に入って修行をしながら勉学に励んでいたといわれています。

このあたりから遣唐使の一員に選ばれるまでの時期については、あまり記録がなくハッキリしていません。

実は「空海」と名乗ったきっかけについても明確な理由がわかっていなかったりします。

一説には、御厨人窟(みくろど)という海蝕洞(波が崖をえぐって作られた洞窟)の中で修行をしていたところ悟りを開くことができ、そのとき見えたのが海と空だけだったことから、とされていますが、はてさて。

仏教用語の「空(くう)」だと「我のないこと」や「実体のないこと」という意味にもなりますし、複数の意味があるかもしれませんね。

 


渡航前からその名は知れていたのかも

経緯はともかく、30歳のとき空海は遣唐使に随行する留学層の一員として選ばれました。

他には既に一定の地位を築いていた最澄や、入唐後日本人唯一の「三蔵法師」になった霊仙(りょうせん)といった高僧がいたため、なぜこのときまで無名だった空海が選ばれたのか、これまた謎が謎を呼んでいます。

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しかし、無事に海を渡って大陸に行った空海が、各所の僧に認められていろいろな文物や学問を持ち帰ったことは事実ですから、渡航前から何がしかのツテで「空海という優れた僧がいる」ということは知られていたのかもしれません。

空海が持ち帰ったものは、経典や仏具などはもちろん、土木技術や薬学、文学など極めて多岐に渡ります。

これは当人も満足していたようで、帰国時の「虚しく往きて実ちて帰る」という発言からも伺えます。

しかし、本来は20年唐にいなければならないところを、自己判断によってたった2年で切り上げてきてしまったため、帰国しても「すぐには京に来ないように」と言われてしまいました。

高僧らしくないうっかりぶりですが、それだけ唐での2年間が実り多いものだったと思ったのでしょうね。

 


祈祷に執筆、お寺の創立 さらには治水工事など

そんなわけで九州・大宰府周辺でしばらく過ごすことになった空海。

もちろんただ帰京の許可を待っていたわけではなく、ここでも仏の道に励みました。個人の法要を引き受けたりしていたそうで、お経を上げてもらった方はさぞかし感謝したでしょうねえ。

当時の航海技術からして、大陸に渡って生きて帰ってきたというだけでも尊崇の目で見られたでしょうし。

さて、数年して京の都に入れた空海は、持ち帰ってきたものを日本の衆生に役立てるべく、八面六臂の活躍をします。

朝廷の政争に際しては祈祷をし、唐で学んだ文化については書き表し、高野山を賜っては金剛峰寺の元を作り、故郷・讃岐では治水工事を行うなど、腰を落ち着けた日などあったのだろうかと思うほどの仕事ぶりでした。

また、京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という舌を噛みそうな名前の学校を作っています。

これは庶民も入れる学校として極めて画期的なところだったのですが、空海の死後10年ほどで運営が難しくなり、売却されてしまったとか……。

空海の「庶民にも学問を」という理念だけは、現在の種智院大学や高野山大学に引き継がれていますけどね。

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