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相撲の歴史1500年をスッキリまとめ 明治維新で一度滅びかけていた!?

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日本の国技といえば、やはり相撲でしょう。

法整備のもとで「これは国技です!」と正式に認定されてるワケではありませんが、相撲が他のスポーツと一線を画していることは、昨今の報道からも皆様お感じのはず。

皇室ともゆかりが深く、存在感や歴史の長さにおいて、まさに別格です。

ただ、タイトルにある「1500年の歴史」というのは、さすがに盛っているんだろうなぁ、と思われたかもしれません。
なぜなら、その頃日本は古墳時代。相撲、あるワケないやん。
そんなツッコミが聞こえてきますが、後述します通り、それぐらいの歴史である可能性が濃厚です。

奈良時代には豊作を祝うための宮中行事とされ、中世では源頼朝織田信長にも愛されました。信長を書いた史料『信長公記』では、しょっちゅう相撲大会が開かれていることがわかります。

江戸時代となると庶民の間でも大人気。
続けて明治時代に入った途端、滅びそうになる……という、なかなか波乱万丈な歴史を刻んでおりまして。

もしかしたら今回の日馬富士・暴行事件による一連の騒動は、そのとき以来の存続危機かもしれません。

というわけで相撲の歴史を振り返ってみましょう。

大相撲で土俵の女人禁制は歴史的におかしい 相撲協会に求められる改革とは

 

まずは世界史規模で見てみますと

力自慢の者が取っ組みあい、競う――。

このシンプルなスポーツ、実は世界各地に存在します。

・古代ギリシャのパンクラチオン
・モンゴルのブフ(モンゴル相撲)
・トルコのヤールギュレシ(オイルレスリング、トルコ相撲とも)
・中国のシュアイジャオ(摔跤、摔角)

紀元前3世紀、パンクラチオン競技の像/Wikipediaより引用

人と歴史あるところに、相撲と同じレスリング型の競技もありました。
人々はこうした競技を観戦したり、参加したりして、剛の者が競う様を楽しんできたのです。

では、日本では?

 

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古墳時代……当初は“蹴り”の応酬があった

日本における史上最古の取り組みは、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)とされています。

当麻蹴速は、鉤のような武器をまっすぐに伸ばしてしまうほどの怪力で、誰も彼には勝てませんでした。

「俺に力でかなうような相手と、死力を尽くして戦ってみたい」
当麻蹴速がそう豪語しているのを聞きつけたのが、第11代垂仁天皇です。

ここで垂仁天皇の側近が、こう告げました。
「何でも出雲国に、たいそう力自慢の勇者がいるそうです」

興味を抱いた垂仁天皇は、
「天下無双の怪力自慢が戦ったら、どうなるだろうか。是非とも見てみたい」
最強対決をご所望されます。こうして二人が召し出され、対決することになったのです。

戦いが始まると、両者は激しく蹴り合い出しました。

『相撲で蹴り合うってどういうこと?』
と、思うかもしれませんが、現在とはまったく違う競技であったようです。
当麻蹴速は、素早いキックを得意技としたことからついた名前と推察されます。

そしてこの対決は、凄惨な決着を迎えます。
野見宿禰のキックが相手の肋骨を砕き、さらに腰の骨を踏み砕いて、即死させたのです。
どんだけ威力があるキックなんだ!

野見宿禰vs当麻蹴速/Wikipediaより引用

垂仁天皇はこの対決を大層喜び、野見宿禰を朝廷に召し出し、褒美に土地を与えました。

両者対決の地は、腰をヘシ折って勝敗が決まったことから「腰折田」と呼ばれるように。
相撲発祥の地として、現在、奈良県香芝市の観光名所となっています(参照:奈良県香芝市サイト)。

少し補足説明しておきますと……。
この記録はあくまで『日本書紀』に掲載されたものであり、史実的な裏付けとしては心もとないものであります。

では、相撲そのものもなかったの? というと、そんなことはなく。

実は日本では、有史以前から相撲が行われていた可能性もあります。

日本各地で出土する土器や埴輪に、相撲の様子をかたどったと思われるものがあるのです。
裸で取っ組み合う――というシンプルなスタイルなだけに、古くから娯楽やスポーツとして存在していたんですね。

 

奈良時代……毎年7月に「相撲節会」

では、キッチリした記録はいつからなのか?

定期的に相撲が行われていたとわかるのは「奈良時代」以降。
養老3年(719年)に朝廷内で「抜出司(ぬきでし)」という官職が任命されています。

「抜出司」は後に「相撲司(すもうのつかさ)」と呼ばれるようになり、式部省内に置かれました(後に兵部省管轄)。
毎年7月に行われる「相撲節会」が彼らの最も大切なシゴトで、その準備のため全国から力士の選抜等を行っていたのです。

そして正式な記録に残された最古の相撲行事は、聖武天皇の時代である天平6年7月7日(734年8月10日)。
「野見宿禰vs当麻蹴速」の故事を知った聖武天皇は、大規模な相撲を開催したいと考えるようになっていました。

当時の人々にとって相撲とは、ただのスポーツイベントではなく、神事でもありました。
聖武天皇も豊作を感謝して神社に相撲を奉納したことがあり、その時以来相撲に関心を寄せていたのです。

現代の相撲で八百長騒ぎが表沙汰になったとき、「もう神事の時代に戻しちまえ!」という非難もありましたが、神事とは聖武天皇あたりに遡るのですね。

聖武天皇は、全国各地から力自慢の者を選抜させ、七夕の行事にあわせて大々的に大会を行いました。
同時にルールも変更しておきました。

・キック
・パンチ
・正拳付き
この三つを禁止技としたのです。

相撲は死者も出る危険なものでしたが、このルール制定によって、安全性が向上したのでした。
こんなにも早い段階で、キックは禁じ手になったわけですね。

豊作を祈り、神に感謝を捧げる農耕儀礼と結びついた「相撲節会」は、およそ四百年間にわたり継続しました。

最後の相撲節会の開催は、承安4年(1174年)。
相撲節会の終わりが相撲の終わりということではありません。
むしろ神事とは切り離され、娯楽やスポーツとして盛り上がるようになってゆきます。

 

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鎌倉・室町時代……頼朝の好物! 武士のトレーニングでもあった

武士の世となると、相撲は神事や娯楽としてよりも、身体鍛錬のために欠かせないものとみなされるようになります。

「相撲を取らないような奴は、武士じゃねえ!」
そんな意見もあったほどで、武士はトレーニングのためにも相撲を取りました。

文治5年(1189年)、源頼朝が開催した鶴岡八幡宮での上覧相撲は、さながら武士による総合スポーツイベントでした。

相撲だけでなく、流鏑馬、古式競馬も併催されたこのイベント。
まさに武家オリンピックですね。

頼朝の相撲好きは有名でしたが、室町時代の将軍は、それほど相撲を好まなかったようで。
しかし、地方大名となると別。
中でも織田信長はこだわりの相撲マニアであり、各地から力士を集めて、相撲を楽しみました。

この時代から、四股名が登場します。
力士がプロとして各地を巡業し、食べて行けるようになったのです。
とはいえ、武家出身の牢人が力士になったというのは、どうにも外聞がよろしくない。そこで四股名が必要になったわけです。

 

江戸時代……武家相撲から勧進相撲へ

中世から近世へ。
時代が太平に近づいていくのに比例して、武士の鍛錬としての「武家相撲」は廃れてゆきます。
※各大名が自慢のお抱え力士を持つことはありました

「武家相撲」に取って代わり、主役となっていくのが「勧進相撲」。
スポーツであり、庶民の娯楽でした。

「勧進」というのは寺社仏閣のメンテナンス費用のためにお金を集めるよ、というものでして。
現代的に言うならば「チャリティ相撲興行」みたいものですね。
勧進相撲は、京都で盛んに行われました。

そして江戸時代に入ると、全国の都市部でも相撲が行われます。
幕府としては、ガタイと威勢のいい力自慢が集まることは、何かとトラブルになりかねないと危険視しまして。禁止にしたこともありました。
しかし、娯楽を求める人々のパワーというのは制御できるものではありません。

江戸の場合、相撲は勧進相撲と同様に寺社境内で行われるようになりました。
京都と異なり、江戸は禁令によって街中での相撲が禁止されたため、人が集まり広い場所を確保できる寺社境内で行うようになったのです。

初期は、
勧進相撲が特に盛んであった京都。
豪商がスポンサーとなって人気実力ともにスター力士が揃っていた大坂。

この二都のほうが江戸よりも優勢で、「江戸相撲は二流」とまで言われてしまいます。

が、江戸が都市としての力を増し、かつ参勤交代の影響で人が集まるようになった宝暦・明和年間から状況が変わります。
関東や東北出身の力士も実力をつけてきて、京阪の名力士にも負けない強さと人気を持つようになったのです。

このころから江戸・大坂の年二回、二場所制度となりました。

一場所は晴天の十日間とされました。

江戸時代の相撲絵/Wikipediaより引用

 

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江戸時代……6名のスター力士たち

相撲人気の高まりとともに、スター力士も誕生しました。
以下に代表的な6名の力士を表記いたします。

◆明石志賀之助:下野国宇都宮出身で寛永年間頃に活躍。日本相撲協会が初代横綱に認定している。四十八手を整備したとされ、朝廷からも「日下開山」(無敵の芸能者)の称号を受けるほど。身長251センチ、体重184キロ ※数字は当時の誇張あるいは誤記があるかもしれません

◆第2代谷風梶之助:陸奥国宮城郡出身。安永から寛政年間に活躍し、第4代横綱となった。19才で江戸に出てきて、その巨大な体格と力強さで、連戦連勝を誇るも、流感に罹り、44才で死亡。身長189センチ、体重169キロ

◆小野川喜三郎:近江国京町出身。谷風梶之助と同時代に活躍した。第5代横綱。徳川家斉のリクエストで、谷風と対戦したこともある。176センチ、116キロと小兵ながら、流れるような技で観客を魅了した

◆雷電爲右エ門:信濃国小県郡出身。寛政から文政年間に活躍した伝説的な力士。長い相撲の歴史の中でも驚異的とされる勝率九割二分五厘を誇る。ただし、横綱にはなっていない。身長197センチ、体重169キロ

◆阿武松緑之助:能登国鳳至郡出身。文政から天保年間に活躍し、第6代横綱となる。173センチ、135キロ。慎重な性格でよく「待った」をかけるため、当時は「ちょっと待った」と言った相手に対して「阿部松かよ」と返すのが流行したとか

◆稲妻雷五郎:常陸国河内郡出身。阿武松と同時期に活躍した、第7代横綱。188センチ145キロ。阿武松とは対称的で「待った」が嫌いな性格。阿武松と稲妻の二人はライバルとして有名になる

こうした力士は現在においてもその名が知られており、まさにレジェンド級。
例えば宮城県では谷風の像が造られており、今も町の人々に親しまれています。

谷風梶之助銅像/photo by SEKIUCHI Wikipediaより引用

全国各地から2メートル級の大男、怪力の力士たちが集う相撲。
まさに超人対決、人気最高頂のスポーツでした。

 

幕末……不知火か雲竜か

横綱の土俵入りというと、「不知火型」と「雲竜型」があります。

※不知火型土俵入り(白鵬)

※雲竜型土俵入り(鶴竜)

この土俵入りの型は、いずれも幕末の人気力士が由来です。

雲龍久吉(1823-1890年)は、 筑後国山門郡出身の第10代横綱でした。8才で両親を失った苦労人で、弟妹の成長を見届けてから、力士の道へ。デビュー直後から圧倒的な強さを誇り、人気抜群となります。

一方、不知火光右衛門(1825-1879年)は、肥後国菊池郡出身。第11代横綱です。更にはスタイル抜群、色白のイケメンで、土俵入りの美しい姿が大人気となりました。

この二人の土俵入りが素晴らしく、人気を二分したために「不知火型」、「雲竜型」として定着したのですが……、
「不知火型」は雲竜の型。
「雲竜型」は不知火の型。
なんと、途中で入れ替わったそうです。うーん、ややこしい。

現在の雲竜型土俵入りをする不知火(左の力士)の写真/Wikipediaより引用

さて、雲竜と不知火が現役だった頃の幕末は、動乱の時期です。
力士も巻き込まれなかったわけでもなく、大坂の力士が新選組と喧嘩して殺傷される事件も起きています。

そして迎えた明治時代。
社会システムも文化風習もまったく新しい時代を迎えた日本で、相撲の歴史も終わってしまうんじゃないか?
という史上最大の危機を迎えます。

 

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明治時代……「裸体禁止令」で存続危機

明治維新のあと、文明開化によって日本の伝統芸能も変革を迎えます。
相撲もまた、例外ではありません。

キッカケは「裸体禁止令」でした。

ここでいったん江戸時代を振り返ってください。
当時の浮世絵や幕末の写真を見ると、飛脚や大工等が【褌一丁に鉢巻だけ】といった、ほぼ半裸の状態で街中を平然と歩いていた様子が確認できます。

東海道五十三次・平塚宿/Wikipediaより引用

江戸のお洒落に敏感な若者は、アンダーヘアーを毛抜きで抜いていました。
なぜかというと、褌姿になったとき、ハミ毛が女子から「サイテー!」と思われてしまうからです。ビキニラインならぬ褌ラインの処理ですね。

と、このように露出度が激しくとも、江戸時代の人々はなんとも思いませんでした。
日本の気候は夏場は蒸し風呂状態ですし、現在のようなスーツよりも、褌一丁で過ごすくらいが快適であったのでしょう。

足軽中間と呼ばれた武家奉公人を描いた「大和耕作絵抄」・下半身は褌一丁です/Wikipediaより引用

ところが、幕末になって西欧諸国を訪れた日本人たちはショックを受けます。
欧米には半裸の通行人なんていなかったのです。

「日本の街並みからだらしない半裸の連中を追放しなければ、いつまでたっても欧米列強に仲間入りできない!」

そう焦った明治新政府は「裸体禁止令」を発布。
かくして相撲が槍玉にあげられるのです。

「だいたい、太った男が褌一丁でぶつかるなんて、野蛮にもほどがある。西欧列強から見たら何と思うことか!」
と、それまで日本人が楽しんできた相撲を、突如として「恥ずかしい後進的な娯楽」としてしまったのです。

さらに、大名制度が消滅したことも影響をおよぼしました。
大名家と共にお抱えの力士が職を失ってしまったのです。
相撲から離れた力士は大勢いました。

明治維新――それは相撲にとって歴史上最大のピンチだったのです。

 

明治政府に協力し、天覧相撲でさらに後押し

相撲界は、非文明的という批判をかわすため、積極的に明治政府に協力することにします。

明治3年(1870年)、明治天皇の閲兵式では上位力士が「御旗(錦旗)」を捧げ持つ役割を果たしました。
さらに明治9年(1876年)から11年(1878年)にかけて消防に協力し、消火活動に励みます。

いわば社会奉仕ですね。
この甲斐あって、明示11年には無事警視庁から相撲興行の営業鑑札を得たのでした。

さらに相撲は大きな味方、お墨付きを得ます。
「天覧相撲」です。

相撲の歴史には、天皇家は欠かせないものでした。
その伝統は現在まで続いております。
なにせ相撲の起源は、天皇家の祭祀にも関わりがあるものですし、明治天皇の治世には実に9度も開催されたのでした。

天皇がファンとあっては、もはや相撲に「非文明的だ!」という悪口が浴びせられることもありません。
ますます人気が高まります。

そんな明治時代。
このときの相撲界は「梅常陸時代」と呼ばれる、梅ヶ谷と常陸山のライバル時代でした。

小兵で、なんと168センチ、158キロしかなかった梅ヶ谷は、穏やかな笑顔がチャームポイント。
技能重視の巧みな取り口でした。

一方の常陸山は174センチ、147キロ。バランスのとれた体格に、猪突猛進型、激しい相撲を得意としていました。

両者は、正反対のキャラクターでライバルとして大人気になります。
驚異的な強さを誇った常陸山ですが、なぜか梅ヶ谷だけには勝てないという状況でして。
これが好カードとして観客を熱狂させたのです。

相撲の醍醐味といえば、何といっても鎬を削るライバル同士の攻防でしょう。
江戸時代も、明治時代も、そしてそのあとも、観客はその対決に熱狂していたのです。

 

初代の「国技館」建設 そして雨天中止がなくなった

明治時代までの相撲と、現在の相撲。

その大きな違いのひとつに、かつては
「晴天日のみ興業されていた」
ということがあります。

野球のように雨天中止がありえたわけで、天候次第で場所が長くなってしまうことも。
雨が降ったから今場所は32日……なんて今からすればギョーテンの状況が当時は普通でした。

こうした状況に対し、興行側も対策を求められ始めました。

そして明治42年(1909年)。
初代「国技館」が完成するのです。

両国国技館/Wikipediaより引用

どうでしょう。ほれぼれとするような荘厳さですよね。

和洋折衷の建物は、なんと1万6千人も収容。
それまでの露天興業では3千人ほどしかいなかった観客が、5倍以上まで増加したのでした。
現在の国技館は1万1千人ほどの収容人数ですから、それよりも多かった計算で、まさしく近代的なスポーツ施設です。

明治初期に風前のともしびであったことが嘘のような話。
相撲は、実質的国技としての座を確かなものとしたのです(日本には国技の法的整備がありません)。

それと同時に、国技館の完成は神事という色彩を弱めて、より近代的なスポーツとした一面もあったと言えるでしょう。
大正14年(1925年)の優勝制度の誕生も、国技館以来のことです。

銀色の賜杯は、やや遅れて昭和2年(1927年)から登場します。

日本相撲協会の賜杯/photo by FourTildes Wikipediaより引用

この完成して間もない国技館をわかせたのは、突っ張りの名手である横綱・太刀山でした。

怪力の一突き半で相手を吹っ飛ばすことから、ついた名前が「45日の鉄砲」。一ヶ月半=45日という洒落ですね。
あまりに対戦相手が吹っ飛ぶことから、観客は恐怖すら覚えたとか。

 

ルールや労働環境も改善

国技館の建設と時を同じくして、様々な改革も実施されています。

まず新弟子検査については、明治末期から体格基準が制定されました。

ルールについて大きな変化が「取り直し」でしょう。

今から考えると信じられない話ですが、大正14年以前は取り組みの勝敗が決まらないこともありました。
勝負を「預かり」としてしまうのです。これが現在と同じく「取り直し」を採用するようになったのです。

現在の審判は土俵下にいますが、昭和5年までは土俵の上、柱前にいました。
昭和27年(1952年)にはこの柱も撤去され、現在のつり天井式になります。時代がくだるごとに、力士の接触事故を防ぐようになっていったわけです。

現在、相撲を見ていると、取り組み前「さあ、制限時間いっぱいです」とアナウンサーが言うことがあります。

この取り組み前の制限時間も、実は昭和3年(1928年)以降のこと。
それまでは力士の呼吸が整うまで自由であったため、なんと30分かかることもあったとか。
観客からの要望と、ラジオ中継開始の影響を受けて、制限時間が制定されたのです。

大正時代は、労働環境改善の時代でもありました。
力士たちも待遇改善を求めて、時にはできたばかりの「大日本相撲協会」から脱することもありました。

「もうついていけん、相撲協会なんか、やめてやる!!」
という展開は、実は大正時代からあるんですね。

相撲は伝統を守るべきだと言われておりますが、古代から変革が行われてきました。
その変革のスピードは明治以降より激しくなっています。
実はこの変革こそ、相撲の伝統かもしれません。

 

大正~昭和時代……戦争中も興行は続く

明治時代から大正、そして昭和に移る頃。
相撲ファンは大スター双葉山の活躍に喝采を送っていましたが、そんな中、日本という国は戦争へと突き進んでゆきました。

他の文化風習に目をやりますと、落語や吉本興業(創業者が吉本せい)のお笑いは、世間から消え去りました。
小林一三が設立した宝塚の歌劇は、戦意高揚に利用され、その後やはり消えました。
大河ドラマいだてんモデルとなった金栗四三が尽力した箱根駅伝はじめと、他の各種スポーツ大会も、中止に。

イベントは、戦意高揚と結びつけることでのみ、開催にこぎつけることができました。

しかし。
そんな中でも、相撲だけは例外。
天皇家と関わりが深く、また武力を鍛錬するという意味もあって脈々と受け継がれていきます。

明治時代の危機以来、相撲は政府に協力することで命脈を保ってきました。

戦時中も国民の体力増強促進の広告塔として興行が続けられ、また関係者たちは勤労奉仕にも積極的に参加。
力士や行司たちも出征し、空襲の犠牲となる中、相撲は命脈を保ち続けることができたのです。

 

戦後……69連勝の双葉山時代が終わり

昭和20年(1945年)の敗戦後も、相撲は続きました。

GHQの方針ですと、軍国主義につながると判断されかねない立場でしたが、なぜだか相撲は残されました。
進駐軍の米兵にとっても、“スモウレスラー”のぶつかり合いは、魅力ある娯楽だったのです。

そんな中、進駐軍は土俵を16尺(4.84メートル)にまで拡大しました。
当時の人気力士で、戦時中も相撲をとり続けた双葉山は、これを機に引退を決意しました。
狭い土俵の攻防こそ相撲の伝統というわけですが、実は土俵の変更は、これが初めてではありません。

1931年(昭和6年)以来、それまでの二重土俵の内円をなくして、15尺土俵(径4.55メートル)としていたのです。

69連勝の偉業を残した、誇り高き双葉山のこと。
日本人が決めるのではなく、進駐軍が伝統の国技に口を挟んだことに、どうにも腹が立ったのではないでしょうか。

ちなみにこの16尺土俵は不評であり、現在の15尺にすぐ戻されました。

双葉山が去ったあとの昭和21年(1946年)の場所は、悲壮感が漂うものでした。
国技館は進駐軍によって白く塗り替えられ、「メモリアル・ホール」という、なんだか葬儀会館のような名前にされてしまいました。

復員してきた力士たちは、食糧難と稽古不足がたたり、さしもの巨体も肉が落ちています。
161キロから113キロまで減ってしまった力士も。
兵役中の髪型が丸刈だったため、髷が結えるまで髪が伸びないザンバラ頭の力士も大勢いました。

場所開始後も、マラリアがぶりかえしたり、栄養不良の肉体が音を上げてしまったり。
途中休場する力士が相次ぎます。

それでも双葉山の弟弟子・羽黒山が全勝優勝を果たし、相撲の復活を印象づけます。

大相撲――。
堂々の復活でした。

 

栃若時代

さて、今も昔も立派な国技館ですが、かつて火災で何度か焼け落ちております。
戦時中も東京大空襲で焼失してしまい、戦後は仮設の国技館で興行されておりました。

そんな不便な最中でも、相撲は不動の人気スポーツとしての地位を確立していました。

戦後間もないころ、人気をさらったのが栃錦と初代若乃花の「栃若時代」です。

177センチ132キロ、技能派の栃錦。
179センチ107キロ、オオカミと呼ばれ、鋭い変化技を持ち味とする若乃花。

小兵の二人がバッタバッタと力士たちをなぎ倒す様に、観客は熱狂。
テレビ中継が始まると、彼らの取り組みを見るべく、人々は画面に身を乗り出しました。

※栃若時代幕開けとされる取り組み

世相はちょうど高度経済成長期にさしかかるころです。
日本が上り調子の時代にぴったりと合致した、名力士の活躍でした。

 

柏鵬時代

栃若時代のあと、衝撃的なスター力士が誕生します。
ウクライナ人コサック騎兵の息子である大鵬でした。

183センチ、157キロという恵まれた肉体と、堅実で冷静な取り組みが持ち味。

そのライバルが柏戸です。

188センチ143キロ。
速攻を好む豪快な取り口が、相撲通を自認する男性から指示を得ました。


※柏戸VS大鵬

子供や女性、広い層に好まれた大鵬をさして「巨人・大鵬・卵焼き」。
通を自認する男性に好まれる柏戸をさして「大洋・柏戸・水割り」。

そんな言葉も生まれたほどです。
こちらも高度成長期を象徴する黄金の名カードとして、伝説となったのでした。

 

輪湖時代、初の外国人力士優勝

昭和47年頃からは、輪島と北の湖が争う「輪湖時代」と呼ばれます。

輪島は185センチ、132キロ。
恵まれた体格をもち、ふてぶてしいほど強靱な精神力の持ち主でもありました。

北の湖は179センチ170キロ。
巨体ながら器用さも持ち、独特の躍動感ある相撲が魅力でした。
大鵬の記録を破り、最年少横綱昇進を果たしています。


※輪島VS北の湖

相撲のスカウトといえば、かつては有望な少年を「うまい飯が食えるぞ」とともかく連れてくるようなものでした。
が、高度経済成長後はそういうものでもなくなってきまして。

昭和47年には、アメリカ出身の高見山が初優勝し、"ジェシー台風"と呼ばれました。
このときは当時のニクソン大統領から祝電が届いたそうです。

 

ウルフフィーバーとハワイ勢躍進

多くのスターが登場した昭和時代。最後の大横綱は、千代の富士でした。

183センチ126キロの体格は、体脂肪率がきわめて低い、まさに鋼の肉体。
鍛え上げられた筋力で投げ飛ばす相撲は、絶大な人気を誇りました。

その鋭い風貌はウルフと呼ばれ、まさに国民的大スターです。

※肩まわりの筋肉が尋常じゃないほど発達していた千代の富士

一方、昭和から平成へと元号が変わると、ハワイ勢力士が台頭しました。

小錦は187センチ275キロという圧倒的な体躯を持ち、突きと押しはすさまじい威力を持ちました。
外国人初の大関となり、横綱挑戦を目指したものの、あと一歩というところで及びません。

 

若貴ブームとハワイ勢の快進撃続く

平成の前半は若花田(のちの二代目若乃花)・貴花田(のちの貴乃花)兄弟が相撲ブームを牽引しました。

兄の若花田は180センチ134キロ。巧みな足捌きの技巧派。
弟の貴花田は、185センチ161キロ。隙の無い取り口で圧倒的な強さを誇り、数多くの最年少記録を打ち立てました。


※平成7年十一月場所・史上初の兄弟による優勝決定戦

彼らと覇を競ったのがが曙、武蔵丸らハワイ出身力士です。
曙は外国人力士初の横綱に昇進しました。

 

モンゴル勢の台頭……岐路を迎える大相撲

平成10年代になると、相撲の勢力図が変わります。

若貴もハワイ出身力士も姿を消す一方、朝青龍を皮切りにはじめとするモンゴル人力士が台頭してきたのです。

やんちゃな性格が賛否両論とはいえ、圧倒的に強く、愛嬌もあった朝青龍。
彼には独特の魅力がありました。

白鵬とのモンゴル勢同士の対決は、好カードでした。


※モンゴル勢対決 朝青龍VS白鵬

朝青龍引退後も、白鵬、鶴竜、日馬富士ら、そうそうたるモンゴル勢力士が土俵を席巻しました。
ブルガリア出身の琴欧洲、エストニア出身の把瑠都ら外国人力士も活躍しました。

しかし、平成も後半となると、不祥事が多く報告されるようになりました。

八百長、賭博、大麻……そして暴行事件。

平成19年(2007年)には、時津風部屋において死者が出る事件が発覚しています。
暴行を意味する“かわいがり”という単語に衝撃を覚えた方も少なくないでしょう。

そして平成29年(2017年)、日馬富士による貴ノ岩暴行事件は、現在進行形で続いています。

一体これから相撲はどうなってしまうのか?
問題は依然として収束を見せませんし、明治初期以来の正念場を迎えているのかもしれません。

こうしてみてくると、相撲というのは近代以降、柔軟な変革を伴いながら進化してきたことがわかります。
伝統も大事ですが、変革し大胆に進歩を遂げたからこそ、今日の相撲があるのです。

また、変革以上に大事な要素があります。
それは世相や人々の思いとともに歩んできたこと。
その時代を生きる人々に愛され、楽しみと勇気を与えてきたからこそ、相撲は続いているのです。

もうすぐ平成が終わります。
次の時代以降、相撲がどう変化してゆくか私には予想もつきません。
ただ、人々に愛されるその本質だけは、守り抜いて欲しいと願ってやみません。

大相撲で土俵の女人禁制は歴史的におかしい 相撲協会に求められる改革とは

文:小檜山青




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【参考文献】

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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