織田家 麒麟がくる特集 週刊武春

織田信長は意外と優しい!? 49年の生涯をスッキリ解説【年表付き】

更新日:

皆さんが知っている織田信長はもう古い――。

なんて言ったら横暴に聞こえるだろうか?

一般的にドラマや漫画で見かける信長は、家臣を怒鳴りつけ、敵を殲滅し、楽市楽座などのアイデアを次々に出す、天才型の武将だろう。
しかし、そうした単純な見方が、最近崩れつつあるのだ。

長篠の戦いにおける「三段撃ち」は【なかった】という見解で落ち着いているし、楽市楽座も彼が最初ではない。

あるいは皇室を手厚く保護したり、自らの裏切り者を許しては、また裏切られてピンチに陥ったり。

織田信長は、むしろ優しい!

と、そこまで言い切るのは極論かもしれないが、とにかく単純な紋切り型の武将でないことだけは確かだ。

では一体信長とはどんな人物だったのか?
本稿では49年の生涯をスッキリまとめてみたい。

 

幼名は吉法師

織田信長は1534年(天文3年)5月、現在の愛知県西部(尾張国)で生を受けた。

父は尾張守護代家に仕える織田信秀。
清須三奉行(の一人)と呼ばれていた。

母は土田御前(どたごぜん・土田政久の娘)で、信長の幼名は吉法師という。

生まれた場所は、かつて那古野城(なごやじょう・現存する名古屋城内)とされてきたが、当時は今川家に押さえられていたことが近年の書状解析で明らかになり、勝幡城(しょばたじょう・愛西市)での出生が確実視されている。

誕生日も5月28日が正しい可能性が高い。
※かつては5月11 or 12日とされていた(記事末に読売新聞を引用)

実は、信長は次男だった。

 

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父・信秀の葬儀で一騒動

信長は三男とされることもある。
が、正妻から生まれた最初の息子であり、生誕から嫡男として育てられた。

実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)で元服し、那古野城主となり、1551年に父・信秀が流行病で亡くなると同家の家督をスンナリ継いでおり、相続自体には障壁がなかったことをうかがわせる。

その後、守護代家である織田家が、守護の斯波氏をクーデターで追いやったのに乗じ、織田信長は「守護を守る」との大義名分で尾張の中心だった清須城(清須市)を事実上、乗っ取る。

それからしばらくの間は身内との権力争いに忙殺され、国内の統一事業に追われることになる。
※おおまかに戦国時代は「清須」、江戸時代以降に「清州」と表記されるようである。

若き信長と言えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話。
信長を礼賛する『信長公記』(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われ、現代においても「尾張の大うつけ」として知られる一因ともなっているほどだ。

そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもって信長の行為をたしなめる)したというのもよく知られている。

イラスト・富永商太

では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?

というと、実際はそれほどでもなく、当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。

また、現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い信長であるが、後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。

平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげん そうおん)にその霊を弔わせている。
※沢彦もまた信長の教育係であった。

1557年には弟の織田信行(信勝)を病気と称して呼び出し、謀殺している。
これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではなく、信行が複数回の裏切りを画策していたからだった。

信行はその前にも兄・信長を排斥しようとして失敗。
そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。

実際、かつて信行派であった柴田勝家は信長のもとで出世している。

なお、その前年(1556年)には、妻・濃姫(帰蝶)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、信長が救援に向かっていたことは有名な話だ。

実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。

ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。

 

桶狭間

最近の研究では、父の信秀は尾張だけでなく東の三河国西部(愛知県西部)までを支配していたことがうかがえるようになっている。
ただ、信秀の急死で織田家内が内乱状態となったことで、信長は三河どころから尾張の維持すら危うくなっていた。

かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。

1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。

従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が、上洛(京都へ上ろうとすること)中の今川義元軍に気づかれることなく、大きく迂回して、桶狭間という窪地で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な奇襲で義元の首をうち取った勝利とされてきた。

3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがないと考えられたからだ。

しかし、これは戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えた迂回奇襲説であり、最近は疑問符が投げかけられている。

そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではなく、尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されるために救援にやってきた、国境線上の「後詰め説」が有力視されている。

もし上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに連絡を取らねば不可能であるが、実のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は残っていない。
この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もないからだ。

そこで桶狭間の戦いに対する一つの有力な見方として掲げられているのが、正面突破からの偶発的勝利説である。藤本正行氏が1993年の『信長の戦国軍事学』(JICC出版局)で提示したことで知られ、迂回奇襲説に対して「正面攻撃説」と呼ばれている。

「信長公記」の記述がもとになっているから、かなり定説に近い地位を占める説となっているが、この説は現地の地理からするとかなり無理がある。
信長が出陣した善照寺砦から大高丘陵の尾根にいるとされる今川本陣まで遮蔽物がなく丸見えだからだ。

疑問を投げかけたのは、桐野作人氏や黒田日出男氏。
黒田氏は、初戦で今川軍が織田軍を徹底的に叩いた際に乱取状態(一言で言えば、勝利者が近隣を襲いまくる「ヒャッハー」な状態で今川軍が無秩序だった)になったとする「乱取状態奇襲説」を提示した。(黒田「桶狭間合戦の『甲陽軍鑑』」『立正史学』、2006年)

さらに、城攻めの観点から別の有力説が浮上して注目されている。

城郭考古学者の千田嘉博氏が2013年に『信長の城』(岩波新書)で提示した正面奇襲説だ。

3行でいうと、
①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。
②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。
③現地に詳しい信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた
というものである。

これまでの諸説は、信長公記という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきたが、千田説は登場する城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせた3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。

【現地の地形を含めてより詳しく知りたい方は以下の記事へ】
桶狭間の戦い「正面奇襲説」がよくわかる現地リポート!【マンガ解説付き】

ともかく、信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプだった。

だからこそ桶狭間の戦いでも少ない部下を率いて攻めこむことができたことが最大の勝因であることはゆるぎない(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。

重臣たちにギリギリまで自分の意思を伝えないなど非常に高度な情報戦を展開した胆力。
そこから辺境の争いをいつの間にか大将首を取ったというミラクルにまで発展させた実力と運。
いかなる説が正確なのか不明ながら、信長の凄まじさだけは変わりはないだろう。

この戦いで信長の性格が垣間見えるのは、戦略性や実行力だけでない。

信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことから、その後、奇襲作戦は使っていない。

成功体験をあっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。

かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全にまとめきれていない状況だった。

 

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小牧山城と岐阜城

家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。

実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことで、たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。

関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。

戦略に応じて本拠地を変える――。
過去の成功を一考だにしない――。

いずれも超合理主義者・信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。

その取っ掛かりとして信長に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。

発掘調査によって注目度の高まっている小牧山城。天守風の建物は戦後に建てられた模擬天守で当時は存在していない

普通、信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。
あまり知られていない小牧山城がなぜ? と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと、

①30歳の織田信長が築いた最初の城郭
②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性
③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない

平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。

本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。
小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。

実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。

極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。

かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。

このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から2代あとで孫の斎藤龍興が当主となっていた。
道三時代は友好だった関係も、道三の息子の義龍が軍事クーデターによって反織田に切り替わってからは、むしろ反信長の織田家の居城犬山城など尾張北方を侵食されており、清須より北の小牧山移転はこれに対応する攻守の政策決断であった。

が、義龍は急死。幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。この城と城下町を「岐阜」と改名して本拠地を移転したのであった。

なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。

峻険な金華山に建つ岐阜城

 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在していた。
岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味。
例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。

 

第一次信長包囲網

岐阜へ本拠を移動させた信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。

自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。
その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。

むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。

いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。
越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。

なぜ浅井氏は信長を裏切ったのか?

理由として挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向と言われており、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。
ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、信長を裏切ってしまったようだ。

しかし、いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉や明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。
この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは直線距離で約20キロ。
山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも一日で行軍できない距離ではない。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。
「姉川の戦い」である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。

発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った信長。すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、野田城・福島城の戦いへ発展する。

さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成(よしなり)であり、近江での「宇佐山城の戦い」と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

しかし、まだ終わりではない。
尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出した信長のウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。
現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。

その第一の標的が延暦寺であった。

 

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第二次信長包囲網と信玄

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。
その一つの要因となっているのが「比叡山延暦寺焼き討ち事件」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていたが、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強い。
ただ、武と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が「消えた」ことは間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。

岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。
戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

©富永商太武田信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先、今川のように大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと言われている)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

では何が狙いだったのか。
やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

今川義元の息子・氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田家にとって次に目標とすべき土地は、西側で領地を接する徳川の遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)。
そこへタイミング良く、信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。
積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条は再び手を組んでいた。

北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。
つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

そして、信玄、動く――。

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。
武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。
畿内で包囲網を敷かれていた信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。
特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。
まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。
そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城。三方ヶ原の戦いの後、徳川方の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城されていたことが逆に山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったと伝説がある。当時は如何にして松明が焚かれたのであろう……

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。

連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。武田勝頼は決して無能ではないと信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 

足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。
詳細は、こちらの記事(足利幕府の滅亡と十七の意見書)に譲らせていただくが、義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、あんたが悪いでっせ」という内容のもの。
逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

では高々と振り上げた拳を義昭はどう収めたのか?

これまでの経緯から、何処かへ逃げ延びるかと思われた義昭は、驚くことに信長への対抗姿勢を崩さなかった。ときに「魔王」のように称される織田信長は、実はこのときですら義昭に対して和睦の提案を示していた。それを将軍自身が拒否したのである。

義昭が何を根拠に抵抗していたのかは不明だ。

共に信長包囲網に加わっていた浅井朝倉に期待していたのだろうか。それとも古き熱き源氏の血脈がそうさせたのか。あるいは将軍職に対し一定の配慮を続ける信長を、相変わらず甘く見ていたのだろうか。
今となってはその真意は不明ながら、義昭方は、今堅田・石山の戦い、二条城の戦いで織田方に連敗を喫し、ついに槇島城へと追い込まれる。

そして元亀4年(1573年)7月、おそらく寡兵(兵数は不明)で同城に立て籠もった足利義昭は、やっぱり足利義昭であった。

城を包囲→放火されると、アッサリ降伏してしまうのである。しかも嫡男を人質に差し出して。

このとき信長が下した判断は、当代一の権力を持つ戦国大名には考えられない、甘いものであった。

「将軍を殺さずに京からの追放だけで終わらせたワシをどう思うか? その判断は後世の者たちに委ねよう。(将軍への)怨みには恩で報いるのだ」(意訳)

なんとカッコイイ台詞なのだろう。
映像作品やマンガで同シーンをあまり見かけないが、まるで信長公記の太田牛一によって後世に伝えられることを見越していたかのような言葉ではないか。
口元に微笑を浮かべながら、現代人の我々に質問を投げかける、そんな余興だったのかもしれない。

織田信長には、やはり血が通っている――。

いずれにせよ槇島城の戦いをもって、約240年続いた室町幕府は滅びた。
と、教科書等にはそう書かかれているが、足利将軍が地方へ逃亡するのはこれまでも頻繁にあったこと。
京都を去ったことで室町幕府が滅びたというのは結果論であり、この時点で生きていた戦国人たちはみな「元亀4年に室町幕府は滅亡した」と思った人が皆無だったことは、我々も知っておきたい。(なお、この室町幕府は滅亡していない、説を唱えたのは藤田達生・三重大教授である)

実際、義昭は亡命先の鞆(とも・広島県)で、毛利氏の庇護のもと、各地の大名に反信長の工作をしかけ続けるのであった。

 

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天下第一の名香と長島

信玄の死により孤立した足利義昭。これを容易に蹴散らした織田信長は、次に岐阜から京都にかけての近江、さらに越前地域を一気呵成に制する。

1573年8月、小谷城の後詰め(救援)に来ていた越前の朝倉義景が引き返すタイミングで背後から襲い、義景を自刃に追い込み、返す刀で軍を小谷城へ向け、浅井久政と長政の討伐にも成功させた。

このとき秀吉が救ったとされるのが信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた3姉妹であったことはよく知られた話であろう。
※3姉妹のうち、長女の「茶々」は秀吉の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで関ヶ原~大坂の陣でも交渉役等で活躍、三女の「江」は徳川秀忠の妻となって三代将軍・家光を送り出す

浅井朝倉の脅威から完全に解放された織田軍は休むことを知らず、続いて三好氏を下し、自爆大名のエピソードでお馴染みの松永久秀も降伏させた。

しかし戦いに明け暮れるばかりではない。

ちょうどこのころ信長は、正親町天皇から「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りを許可されている。
「蘭奢待」とは、「天下第一の名香」と称される香木のことで、東大寺の正倉院に保管されていた。

いわば古来から国宝級のお宝であり、過去にその匂いを嗅げたのは権力の頂点に立った実力者ばかり。信長が認められたということは、すなわち天皇からのお墨付きを得た……とは言わないまでも、対外的に権威のアピールに繋がったことは確かであろう。

もう、畿内ならびに周辺に邪魔な者はいない。
このまま一気に制圧して、その後は更に西へ軍を向けるのか――。

と考えるのは、やはり早計であった。
真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく、宗教勢力。
このとき信長を長く苦しめていた長島一向一揆によって、兄の織田信広(母は別)や弟・織田秀成(母は別)が討ち取られてしまった。

近しき者たちを殺害されて怒りを抑えることができなくなったのだろうか。
信長は10万の大兵力でもって長島へ出陣し、実に門徒たち2万人を焼き討ちで全滅させた。

一揆勢は3ヶ月以上の籠城で耐えきれなくなり、降参して長島から退去するところであったが、舟で脱出しているところを鉄砲で狙い撃ち。そして城(中江・奥長島)にいた2万人は焼き殺されたのだった。

この大虐殺が、仮に兄弟を喪ったことに対する復讐であるとすれば、血の通った人間らしい一面もありながら、同時にこの上ない残虐性も併せ持った人物像が浮かんでくる。
一揆勢を軍事勢力と見るべきならば、仕方ないと判断すべきなのか。

ちなみに同合戦は天正2年(1574年)に行われ、この年が明けた翌年3月、信長は義元の息子で既に大名としては滅んだ今川氏真に「蹴鞠」を披露させている。

場所は京都の相国寺。三条西実枝父子や飛鳥井雅教父子、高倉永相父子など公家も参加して、信長は見物を行い、翌月には公家たちに対して徳政令を発令している。

徳政令とはご存知、借金をチャラにすることである。信長は、戦乱で荒廃していた京の復興を行い、貴族層たちが奪われていた旧領の復活も認めていたのであった。
あくまで推察だが、もしかしたら蘭奢待の切り取りと無関係ではなかったかもしれない。

 

長篠と鉄砲三段撃ち

信玄亡きあとの武田家は、果たして脆弱だったのか?
あるいは、跡を継いだ勝頼が愚将であったが故に同家は滅亡してしまったのか。

答えは「否」。
前述の通り、織田信長自身が「武田勝頼は強い」と評しており、武田家内でも同様に勝頼を評していたところがある。
実際、武田家が最大の版図となったのは信玄のときではなく勝頼のときであった。

しかし同時に、その「勝頼の強さ」こそが同家にとってアダになった可能性は否定できない。

長篠の戦い(1575年)である。

一般によく知られた長篠の戦いは、
「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた
このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である――という説明だろう。

日本人なら誰もが歴史の授業で習う三段撃ちは、いかにも新戦法を発想した天才・織田信長!という人物像に適って収まりがよい。

しかし、これまで伝わっているような「3人がグループになって順番に撃つ」という三段撃ちは、現在の研究では、ほぼ「なかった」とされている。

端的に言えば、横一列に広がった鉄砲隊が合図と共にタイミングよく弾を発射することなど、当時の鉄砲のスペックや、戦場の規模からして不可能と考えられるのだ。

ただし、信長が大量に鉄砲を持ち込んだのは間違いないであろう(数についても1000丁から3000丁まで諸説あり)。

織田・徳川連合軍は、武田軍がやってくる進路に向けて馬防柵を設置し、陣を固め、さながら簡易山城のように準備を施した陣地で敵を待ち構えていた。

戦場となった設楽原(信長公記では「志多羅」と表記)は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないように軍勢を配することが可能だったのである。

長篠の戦い(設楽原)古戦場に設置された馬防柵。向かって左側には織田・徳川軍、右側の丘陵に武田軍が布陣した

ここで勘違いされやすいのが、武田勝頼を愚将とした見方である。

ともすれば「勝ち目もないのに無謀にも突撃した」なんて語られることもあるが、いくら勝頼が、信玄の代からの重臣たちとの折り合いが悪かったとしても、わざわざ死なせるために突撃するのは不条理すぎる。
実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは1日がかりの戦いだった。

問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということだ。

実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されていた。

突撃の間にいくらかの騎馬は討ち取られてしまうかもしれないが、鉄砲の命中率自体は決して高くなく、逆に騎馬で一角を崩すことができれば十分に勝ち目だって考えられたであろう。
勝頼は、それを実行しただけのことである。

ただし、同合戦は、普通の野戦と違った。
織田徳川の防御が、武田の騎馬を蹴散らすために十分な準備が整っていたのである。

馬防柵のある陣地、その背後の茶臼山に織田信長の本陣が設置された。現在は茶臼山稲荷神社が建っている

ならば勝頼もさっさと退却すればよかったではないか?

とも思うところであるが、前述の通り、一見して織田徳川軍はさほどの大軍には見えず、さらに信長は事前に別働隊(酒井忠次をはじめ信長の馬廻り衆や金森長近など)を進軍させて、長篠城の救援に成功。
それはつまり武田軍の背後が取られたことを意味しており、勝頼としても前へ出るしかなくなっていた。

弱将ならば最初から負け戦を受け入れ、早々に撤退できたかもしれない。

しかし、強いがゆえに自らの戦況打破を考えた勝頼。その結果の敗戦だったにすぎない。

武田軍は、赤備えの山県昌景をはじめ、馬場信春や真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが突撃をかけ、そしてこれに失敗して退却すると、次々に討ち取られていった。

「信長公記」では「関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなした」と武田の騎馬隊を警戒するような記述もあり、やはり、その破壊力は内外に認められたものだったのだろう。
状況と結果だけを考えれば、信長の計算がすべて当たり、まるで神がかったかのような展開。

むしろ注目すべき点は、鉄砲の数よりも、十分な兵数の確保とその隠蔽、別働隊で背後をとるなどの信長の巧みな戦術眼ではなかろうか。

ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が置き去りにされ、織田信長に取られている。馬も城も勝者の手に渡るのであった。

 

第三次信長包囲網

長篠の戦いで勝利した織田信長は同1575年11月、清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた。

全国には他の有力大名が数多いたが、朝廷によって信長が「天下人」に公認されたようなもので、決してその仲が険悪ではなかったことが明らかであろう。

いかにも魔王の如き織田信長像を語るとき、よく取り沙汰されるのが「自身が天皇になろうとした」という説である。

が、それは実際の行動を見る限りありえないと言うしかなさそうだ。信長は皇室をないがしろにするどころかむしろ保護する立場であり、1581年には予算不足で途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮のために資金を全額出したりしている(現在の貨幣価値で数億円規模と目される)。
その辺の政治バランスにも長けていたのであろう。

そして翌1576年、琵琶湖のほとりに安土城の建設を進める。

奉行に任ぜられたのは丹羽長秀。米五郎左というアダ名で「織田家にはなくてはならない人物」と称された名将である。

彼の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめ、畿内の大工や職人も招集された。その建築過程で「蛇石」という巨石がどうしても引き上げられず、秀吉や滝川一益なども手伝い、1万人がかりで山頂へ引っ張りあげたという記録が残っている。

ここまで来ると、もはや天下統一も目前なのか――と思われるかもしないが現実は甘くない。
いわゆる「第三次信長包囲網」が敷かれるのであった。

浅井朝倉に挟撃されて始まった第一次信長包囲網。

武田信玄の進軍で窮地に陥った第二次信長包囲網。

信長の包囲網と言えば、いずれも一歩間違えれば織田家が瓦解するかのごとく周囲から圧力をかけられ、信長も生きた心地がしなかったような状況である。

それに比べて第三次というのはいささか切迫感がないように感じられるかもしれない。
まず当面の目標は、西でまたも蜂起した石山本願寺。ここ数年に渡って戦ってきた相手であり、鉄砲集団・雑賀衆の助力も含めた最大の強敵だ。

実際、このときは敵兵1.5万人のところへ信長は3千ばかりの兵力で立ち向かい、足に銃弾が当たってケガを負っている。それでも怯まない信長の気迫が最終的に勝利を呼び込んだのであろう。

この戦闘を「天王寺砦の戦い」というが、これに勝った織田軍は石山本願寺を取り囲み、交通の要衝に10箇所以上の砦を設置した。

後に、織田軍の行軍スピードは神がかっている、と評価されることが多々ある。

なぜ、そんなに素早い移動ができるのか。

兵農分離に答えを求めることもあるが、なにより琵琶湖畔に安土城を建てられる――その事実が、安土・岐阜から京にかけての機動性を担保していた。

どういうことか。
現代の交通事情からあまり想像しにくいが、琵琶湖は“水上ネットワーク”としての機能が大きく、ここを治めていた織田家にとってはかなり盤石な体制でもあったのだ。

かような状況からして、第三次包囲網はこれまでと若干毛色が変わって、織田家崩壊という切迫した危機には感じられない。
むしろ信長に滅ぼされる(もしくは配下に置かれる)可能性が高まった足利将軍、本願寺、全国の有力大名たちが危機感から大同団結してものであった。

ただし、いかに個別の力では信長が圧倒的でも、他大名たちにガッチリと手を握られたリスクとなると、織田家にとって決して小さなものではない。

石山合戦図/wikipediaより引用

石山本願寺の背後には西の大国・毛利がおり、東には弱っていたとはいえまだ武田も健在。さらに北では、信玄のライバルでお馴染み・上杉謙信が立ちはだかるようになったのだ。
信長配下の柴田勝家が、越前&加賀へと軍を進めており、越後の龍を刺激してしまうのも、ある意味必然だったのだろう。

しかも、である。
能島氏や来島氏が率いる毛利水軍とぶつかった第一次木津川口の戦いで織田軍は、700~800艘の敵軍に完膚なきまでの敗戦を喫していた。

このとき織田軍は石山本願寺を包囲して兵糧攻めに追い込んでいたのだが、海上では一歩も二歩も上をいく毛利水軍の焙烙火矢(火薬の入った陶器を投げ込み、爆発によって飛び散った破片で敵兵を殺傷させる武器)にやられたのだ。

石山本願寺へは武器と兵糧が搬入され、籠城戦の更なる長期化を予感させた。
なお、このとき石山包囲軍の主力を担っていたのは、後に織田家を追い出される佐久間信盛である。

 

方面軍の結成

1577年9月、加賀(石川県)の手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫した。

秀吉が、独断で戦場から離れるというハプニングはあったものの(信長は激怒)、信玄と互角に渡り合った軍神の凄まじさをまじまじと見せつけられた織田方。

この直後、自爆大名でお馴染みの松永久秀を信貴山城(しぎさんじょう・奈良県)の戦いで滅ぼしたり、播磨に渡った秀吉が毛利方の宇喜多直家などを相手にしつつ上月城の攻略にも成功しており、織田軍の戦力・戦術に不安があるのではなく、軍神の力が大いに上回っていただけであろう(秀吉の上月城攻略で信長の怒りは解ける。非常に<現金>である)。

ともかく信長にとって立ちはだかる越後の壁はあまりに高いように思われた。




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しかし、事態は劇的に好転する。
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