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織田信長49年の生涯をスッキリ解説! 生まれから本能寺の変まで【年表付】

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【人物概略・織田信長】

織田信長は意外と優しい――。
なんて突然申し上げれば、いささか引かれるかもしれないが、信長の史実研究は今も精力的に進められ、その人物像も変わりつつある。

例えば那古屋城なごやじょう生まれとされていたのが現在では勝幡城しょばたじょうだと分析されたり、「鉄砲の三段撃ちも無いよね」と目されていたり、家臣や朝廷に対しても「意外と優しいじゃん……」という一面がクローズアップされたり。

要は、ドラマや漫画で描かれてきた信長像の方が古くなっているのだ。

では、信長の生涯とはいかなるものか?

概略でまとめてみると、まず第一期と呼べるのが
◆尾張時代(1551-1560年)
であろう。

1551年に家督を継いでから信長は、尾張国内の統一に奔走し、基本的に他国へ侵攻する余裕などなかった。
むしろ攻められる側で、今川家からの攻撃を受け、結果的にそれが【桶狭間の戦い】へと繋がった。

次なる飛躍のキッカケ(第二期)は
◆美濃への進出(1561年-1567年)
となる。

斎藤道三亡き美濃は、信長にとっては敵であり、斎藤義龍斎藤龍興と交戦。
調略を駆使して齊藤家の家臣たちを味方に引き入れ、難攻不落と呼ばれた稲葉山城(後の岐阜城)をやっとのことで手に入れた。

美濃を入手すると事態は急速に動き始め、飛躍と同時に、四方八方を敵に囲まれるピンチの連続がやってくる。
それが第三期の
◆上洛と包囲網(1568年-1580年)
であろう。

足利義昭を奉じて京都への道筋を確保した信長だが、浅井朝倉との関係のこじれから延暦寺本願寺信玄など、四方八方に敵を作って信長包囲網をやられて何度もピンチに陥る。

しかし、絶体絶命というタイミングで強敵が亡くなったりして、強烈な悪運の強さを発揮。
第四期はまさしく
◆天下統一(1573年-1582年)
という期間であった。

織田軍を包囲していた敵を一つずつ潰しながら家臣たちを全国へ派遣させたのだ。

第五期は、
◆天国と地獄(1582年)
と呼ぶのに相応しい。

1582年に最強の敵・武田家を滅亡させながら、その直後に、自身が本能寺の変で焼かれてしまう。

いかがであろう?

信長というと、どうしても『信長の野望』のようなゲーム的展開を想像してしまうが、1551年に家督を継いでから隣国美濃を攻略する1567年まで、約16年もかかっている。
如何に天才であっても、そう容易くはないのが現実だ。

そして、足利義昭を奉じて上洛してからがさらなる苦労の連続で、武田信玄や上杉謙信、毛利家に各宗教勢力など、本当の戦いの日々へと突入するのであった――。

◆尾張時代(1551-1560年)
◆美濃へ進出(1561年-1567年)
◆上洛と包囲網(1568年-1580年)
◆天下統一(1573年-1582年)
◆天国と地獄(1582年)

では、あらためて生誕から信長の足跡を追っていこう。

 

織田信長 1534年に勝幡城で生誕

織田信長は1534年(天文3年)5月、尾張(現在の愛知県西部)で生を受けた。

父は尾張守護代家に仕える織田信秀
清須三奉行の一人で、元々の身分はそう高い方ではない。

母は土田御前どたごぜん(土田政久の娘)。

生まれた場所は、かつて那古野城なごやじょう(現・名古屋城内)とされてきたが、当時は今川家に押さえられていたことが近年の書状解析で明らかになり、勝幡城しょばたじょう(愛西市)での出生が確実視されている。

【城】
紫色=勝幡城
黄色=那古屋城
赤色=岐阜城(後の本拠地)

織田信長は次男で、幼名は吉法師。
正妻から生まれた最初の息子であり、生誕から嫡男として育てられている。

側室より正室の子が優先されるのは当時としては珍しいことではなく、実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)元服し、那古野城主となると、1551年、父・信秀の死(流行病)によって同家の家督をスンナリ継いでいる。

相続自体には何も障壁がなかったのだ。

その後、信長は、「守護の斯波氏を守る」との大義名分で、尾張の中心だった清須城を事実上占拠。
しばらくの間は、身内との権力争いに忙殺される。

実はこのころの織田家は、尾張一国をまとめることもできないでいたのだ。

それは当時の織田信長が“うつけ者”として、周囲から軽んじられていたことも無関係ではないだろう。

例えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話。
信長本人を礼賛する『信長公記(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われる。

そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもってたしなめる)したというのもよく知られた話だ。

イラスト・富永商太

では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?

というと、実際はそれほどでもない。

当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。

また、現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い織田信長であるが、後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。

平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげん そうおん)にその霊を弔わせた。

ちなみに沢彦もまた織田信長の教育係であった。

1557年には弟の織田信行(信勝)を病気と称して呼び出し、謀殺している。
これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではない。

信行はその前にも兄・織田信長を排斥しようとして失敗。
そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。

実際、かつて信行派であった柴田勝家は織田信長のもとで出世している。

なお、その前年(1556年)には、妻・濃姫帰蝶)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、織田信長が救援に向かっていたことは有名な話だ。

実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。

ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。

 

桶狭間

最近の研究では、父の信秀は三河国西部(愛知県東部)までを支配していたことがうかがえる。
しかし、信秀の急死で織田家内が内乱状態となり、織田信長は三河どころから尾張の維持すら危うくなっていた。

かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。

1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。

従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が奇襲で成功させた――と考えられてきた。

上洛(京都へ上ろうとすること)中だった今川の大軍に気づかれることなく、大きく迂回し、桶狭間で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な攻撃で首をうち取った勝利とされてきたのだ。

3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがない。
ならば奇襲と考えた方が自然だと思われた。

が、この奇襲説は戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えたものであり、最近は疑問符が投げかけられている。

そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではない。
尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されたため、その救援(後詰め)にやってきたのだ。

要は、国境エリアにおける、単なる城の奪い合いだ。

もしも今川が上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに許可を得ねば不可能である。
しかし、今のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は確認できていない。

この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もない。

その他、桶狭間の戦いについては、複数の説が唱えられているが、いずれも決定的とは言い切れず、未だ定まっていない。

そんな最中、城攻めの観点から注目されているのが城郭考古学者・千田嘉博氏の説だ。

千田氏が『信長の城』(岩波新書)で提示したのは正面奇襲説。
3行で説明すると。

①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。

②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。

③現地に詳しい織田信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた

これまでの諸説は『信長公記』という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきた。

が、千田説は城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせて3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。

いずれにせよこの戦いによって見える【信長像】が大きく二つある。

一つ。
織田信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプだったことだ。

だからこそ少ない部下を率いて今川軍へ攻めこむことができたのであり、最大の勝因にもなった(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。

もう一つ。
自分の能力を過信しない謙虚さを持ち合わせていることだ。

織田信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことを認め、その後、奇襲作戦は使っていない。

自分が前には出る。
しかし無謀な勝負はしない。

今川軍を打ち破った成功体験を、あっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。
まさに情熱と冷徹さを持ち合わせているのである。

かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全にまとめきれていない状況だった。

なお、信長公記に基づいた通説の桶狭間の戦いは以下の記事にまとまっているので、よろしければご確認を。

桶狭間の戦い 信長は奇襲していない!戦国初心者も超わかる信長公記36話

今 ...

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小牧山城と岐阜城

家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。

実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことだ。

たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。

関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。

戦略に応じて本拠地を変える――。

過去の成功を一考だにしない――。

いずれも織田信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。

その取っ掛かりとして本人に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。

発掘調査によって注目度の高まっている小牧山城。天守風の建物は戦後に建てられた模擬天守で当時は存在していない

普通、織田信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。

あまり知られていない小牧山城がなぜ?
と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと、

①30歳の織田信長が築いた最初の城郭

②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性

③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない

平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。

本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、織田信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。
小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。

実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。

極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。

かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。

このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から息子の斎藤義龍を経て、孫の斎藤龍興が当主となっていた。

道三時代は友好だった関係も、義龍が軍事クーデターを起こして当主になってからは反織田に切り替わっていて、織田方の犬山城など尾張北方を侵食されていた。

清須から小牧山城への移転は、これに対応する攻守の政策決断でもあった。

しかし、義龍は急死。
幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、織田信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに織田信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。

この城と城下町を「岐阜」と改名して本拠地を移転したのであった。

なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。

峻険な金華山に建つ岐阜城

 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在していた。
岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味。
例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。

 

第一次信長包囲網

岐阜へ本拠を移動させた織田信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。

自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。
その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。

むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には織田信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。

いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた織田信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。
越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。

なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?

理由として挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向と言われており、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。
ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、織田信長を裏切ってしまったようだ。

しかし、いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。
この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

織田信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、織田信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは直線距離で約20キロ。
山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも一日で行軍できない距離ではない。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を織田信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。
姉川の戦い」である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。

発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った織田信長。すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、野田城・福島城の戦いへ発展する。

さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、織田信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成(よしなり)であり、近江での「宇佐山城の戦い」と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

しかし、まだ終わりではない。
尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、織田信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出したウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、織田信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。

現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。
一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。

その第一の標的が延暦寺であった。

第二次信長包囲網と信玄

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。
その一つの要因となっているのが「比叡山延暦寺焼き討ち事件」であろう。

えっ、信長は比叡山を焼いてない!? 比叡山延暦寺焼き討ち事件の真相とは?

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1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した織田信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

織田信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。
宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。
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