絵・富永商太

週刊武春 武田・上杉家

敵に塩を送る【謙信→信玄】はマジだった!しかし単なる商売だった

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敵に塩を送る
という言葉がある。

武田信玄が、駿河の今川家と敵対したため塩の流通を止められ、国全体で苦しんだーーそのときに、ライバルだった植杉謙信が塩を送ってきた。

ザックリ言うとそんな内容であり、好敵手同士の友情やら何やらを示す逸話として広く知られている。

これ、意外にも史実的に正しい。
しかし、実情はそんな美談などではなく、一言で表すならば単なる「商売」であった。

どういうことか?
少し詳しく振り返ってみよう。

 

謙信が立ちはだかって北の海は目指せない

桶狭間の戦い今川義元織田信長に討ち取られると、武田信玄は同盟を破棄して駿河へ攻め込んだ。

同盟とは甲相駿三国同盟である。
今川だけでなく北条とも和を絡んだ、この重要な結びつきを、自らぶっ壊してまで駿河攻めを望んだ理由は、ライバル上杉謙信の存在があったからだろう。

弟の武田信繁や築城名人の山本勘助、古くは板垣信方など。
信玄は、多大な犠牲を払って北信濃を制したが、そこから海を目指して北上となると、上杉謙信のいる越後攻めが必要になり、今まで以上の兵力消耗が容易に想像できる。

さすがにそれは無理……というタイミングで起きたのが、1560年桶狭間の戦いだった。

※上記のように、長野から新潟の海を目指す先には、謙信の本拠地・春日山城がドドーン!

桶狭間の戦い 信長は奇襲していない!戦国初心者も超わかる信長公記36話

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海のある駿河を絶対に落としたい

海道一の弓取りと言われた今川義元が首を取られて死亡。
跡を継いだ今川氏真は和歌や蹴鞠を愛する公家志向なタイプで、その祖母・寿桂尼がいなければすぐにでも空中分解しそうな状態だった。

そこで信玄は、嫡男・武田義信の猛反発を振り切り、駿河攻めを決心する。

義信が反対したのは、彼の嫁さんが今川義元の娘だったから。
ヘタをすれば謀反を起こされ、実父の武田信虎に続き、信玄自らも追放される憂き目に遭ったかもしれない。

そこで義信を成敗するという苦渋の決断を選んでまで、駿河への南進方針を取ったのだ。

領土拡大や海路確保のため、どうしても攻め込むしかなかった。

ちょっとややこしいので時系列を年表で整理しておくと……。

1560年 桶狭間の戦い
1564年 最後の川中島の戦い
1567年 武田義信が自害
1568年 駿河攻め開始

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塩がなければ信玄の“馬”も動けまい

もちろん心中穏やかではないのが今川であり北条である。
甲斐や信濃へ続く物資や塩の輸出をすべて禁じた。

『塩がなければ、クソ信玄も、ヤツの“馬”も動けまい』

実は、塩を必要とするのは実は人間だけではない。
馬も大量消費する。

というのも馬は他の動物よりも汗っかきなため、少し運動すれば汗に含まれた塩分が外に出てしまい、その補給のための塩が必要となる。
これでは武田家名物の騎馬軍団もボロボロ。

同家の騎馬軍団は、一時期「物資を運ぶだけ」という見方も提示されていたが、最近ではやはり馬に乗って戦ったことが有力視されており、他ならぬ織田信長も『信長公記』の中で武田家の騎馬隊を警戒する様子が描かれている。

塩の運搬がなければ、いかに信玄であるとも終わりーー。

と、そこで颯爽と現れたのが、ライバルである上杉謙信だった!

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マジで塩を送っていた?

『敵に塩を送る』とは、実際に越後から信濃・甲斐へ塩が運ばれたことからきた言葉なのである。

マジだったとは驚かれるかもしれないが、実はコレには但し書きがついており、我々が妄想しがちな美談ではなかった。

今川や北条では国として塩流通を禁じたが、越後ではその措置を取らなかった。
要は商人たちが商売を続けた、単にそれだけのことだったのだ。

そもそも、信玄もバカではないので、大切な塩分確保のアテもなく駿河へ侵攻するワケがなく、このときは当時まだ同盟を結んでいた織田信長から塩流通の担保をとっていた。
さすが腹黒いというか、計算高いというか。

そういう黒い信玄ってやっぱりいいよね!
かくして風林火山の旗は今も人心にたなびいている。

文・川和二十六

 



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