彼はいわゆる北町奉行で活躍しており、本連載『日本史ワル査定』の主役は、金さんと同時代に南町奉行にいた
鳥居耀蔵(ようぞう)です。
ドラマでは金さんのライバルとして、謀略を張り巡らせる腹黒奉行として描かれますが、その描写、当たらずも遠からずな人物でして。
一体、何をしでかしたのか?
寛政8年(1796年)11月24日に生まれた、鳥居耀蔵の生涯を見て参りましょう。
早速、見て参りましょう。
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「水野の三羽烏」鳥居耀蔵は「マムシ」とも揶揄された
鳥居耀蔵の父は、林家8代目の林述斎(じゅっさい)です。
林家とは、林羅山を祖とする儒学者の家系で江戸時代には超エリート。
『つまりは耀蔵も林羅山の子孫なの!?』
と、一瞬思ってしまうところでありますが、耀蔵の父は岩村藩主の三男であり直接の血筋ではありません。
大名家の三男以下は養子に出されることも珍しくなく、学問に優れていた耀蔵の父は養子として林家の跡を継ぎました。
そして耀蔵もまた三男として生まれ、自身は鳥居家に養子へ出されます。
同家では25歳で家督を継いで11代将軍・徳川家斉に仕え、12代徳川家治の時代になると老中・水野忠邦の配下となって【天保の改革】のお手伝いをしました。
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このとき渋川敬直、後藤三右衛門と共に「水野の三羽烏(さんばがらす)」などと呼ばれ、渋川が学問担当で後藤が経済担当。
肝心の鳥居耀蔵はと言いますと……。
・スパイ活動やおとり捜査で取り締まり役
学問と全然カンケーねぇっす。
しかも、かなり厳しく処分したらしく、世間の人々には嫌われ、付いたあだ名が「蝮の耀蔵」やら「妖怪」でした。
まぁ、取り締まりや捜査は南町奉行の仕事っちゃ仕事ですから仕方がないのかもしれませんねぇ。
渡辺崋山や高野長英をとっ捕まえるために……
しかし、そもそも奉行になるためのヤリ方がアコギでした。
・前任者を讒言で陥し入れてゲッチュ!
この一件で前任者は改易され、幽閉状態で憤死。
改革に批判的だった遠山の金さんも、耀蔵と水野忠邦のタッグによって北町奉行から外れて、大目付に転任させられます。
地位は高いですけど、いわゆる閑職に追いやられたのです。
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そして極めつけが【蛮社の獄】でしょう。
蛮社の獄とは、天保10年(1839年)に江戸幕府が蘭学者達に対して行った言論弾圧事件のことです。
もともと耀蔵は父が高名な儒学者ということもあり、アンチ蘭学でした。
加えて海防のための地図作成を自分の仲良しさんに依頼したところ、これが最新の西洋測量技術を使った人に負けてしまい、ますます蘭学嫌いに……。
こうした背景もあって、当時、モリソン号事件で幕府を批判していた渡辺崋山や高野長英ら蘭学者をとっ捕まえて罰したのであります。
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しかも、そのやり口が強引でした。
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