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『光る君へ』感想あらすじレビュー第6回「二人の才女」

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文学解釈をするとシラける場

寛和元年(985年)、まひろが左大臣の姫君サロンに参加しています。

嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る

あなたが来ないと嘆きながら、一人で寝ているとき、夜明けまで待つことがどれだけ長いかあなたにはわかる?

今日の和歌は藤原寧子(道綱母・寧子はドラマ上の設定/演じるのは財前直見さん)の作品です。

この作者みたいになりたくないわ〜! と姫たちが嘆いていますが、そんな心配をしていると本当にそうなってしまうと倫子が脳天気に語っています。

寧子は倫子よりも身分が低いといえばそうです。

するとまひろが、めんどくさい文学オタクぶりを発揮します。

『蜻蛉日記』は嘆きを綴ったものではない、前書きにも身分の高い男に愛されたと書いている――。

そう説明すると、教師役の赤染衛門も賛同します。

今をときめく右大臣・兼家に愛されたことと、その煩悩を自慢するものかもしれないと解釈します。

ただ、そうは言っても歌がうまいだけに、一人寝の寂しさを嘆く気持ちが強く感じられるのも確か。

文学に詳しい二人は、その技巧を読み解いてしまいます。

「家に写本があるから持ってくる」とまひろが提案すると、倫子は微笑みつつやんわり断ります。

書を読むのが苦手だそうで、

「私も」

「私も〜」

と次々に続く姫たちの反応を見て、まひろの表情がこわばる。

わかります……あるある現象ですね。

私は普段は極力、大河ドラマの話をすることを避けます。

しかし、どうしてもそういう流れになったときに、言わないでもいい蘊蓄を語ると、相手がサーッと引いていく。

もっと知りたい、興味を持たないかな?と思って話をふると、

「私は別にそういうオタク語りまでは求めてないんで」

とドアを閉められる瞬間があるのです。そのときフフフと笑いつつ話を逸さなければならなくて……。

大多数に受け入れられる話題って、美男美女に萌えるとか推しとか、あるいは恋バナとか、戦国武将のちょっといい話とか悪い話とか。

スナック感覚でつまめる軽い話題であって、ヘビーな話はむしろ鬱陶しがられるんですよね。

「実は、こういう本があるんですよ! 貸しましょうか?」

そんな風に勧めたって、どうせ読まれないですし、結局は、トークが好きなのか、考察が好きなのかって話ですよね……。

 

生きるということは、疲れる

疲れていないか?と倫子がまひろを気遣います。

彼女はそうだと認めざるを得ない。幼い頃に母を亡くしてから、いつも肩に力を入れてきた。

書を読むのが苦手な倫子様のように、自分は生きるのが苦手だと語るまひろ

「そうでしたか! 苦手なことを克服するのは大変ですね。苦手は苦手ということにしてまいりましょうか」

人間みんな苦手なものがあるもんね――と、ずいぶんアッサリまとめられてしまいましたが、まひろの疲れは姫君サロンから来ているものでしょう。

苦手なおしゃべりに参ってしまったようだ。

例えば以前の代筆仕事ではもっと元気だったし、一人で何か打ち込んで空を見上げるような場面では、澄み切った顔と瞳になります。

それがサロンでは、仮面をかぶっているんだな。

本当は、あそこで引き攣った笑顔などを見せず

「はーーーーー! せっかく貴重な写本があるのに読まないとかつまらない! 絶ッ対人生損しているし!」

ぐらいの本音を言いたいのかもしれない。

でも、できないじゃないですか。

だから仮面を被り、愛想笑いをしてごかますしかない。

それで無用の摩擦をさけて生きていけるし、なんなら人生攻略法を見つけたように一時は落ち着くかもしれない。

まひろだって、当初はサロンでそれなりに楽しかった。

でも漢字の知識も、文学トークもぬるい。どう考えても誤読している意見が通るし、レベルが低いんだな。

いちいちそういうのに対して手加減するのも嫌になる。

弟相手なら「こんなこともわからないの?」「書くらい読みなさいよ」と容赦なく言えるけど、姫君にはそれもできない。

だいたい、歌がうまくなりたいなら恋をするよりも、学んでこそでしょうよ!

なのになぜなの、なぜ……というドツボに陥っているのでしょう。

先天性のズレを抱えているまひろは、この先ずっと「生きることが苦手だな」と嘆きながら人生が続いていく。

ハァー……めんどくさい主人公ですね。そこが好きです。

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まひろは散楽新作プロットを練る

帰り道、まひろは散楽の一座を見つけました。

直秀も飛んで稽古を積んでいます。

乙丸が止めても、ズンズン近づいていくまひろ。こういうときは生き生きとしていて、疲れなどありませんね。

まひろが無邪気に「まるで人ではないような動きだ」と言うと、直秀が皮肉っぽく返す。

虐げられている者はもとより人扱いされない――。

思わず、たじろいでしまう彼女に、直秀は冷たく追撃します。

「まことのことを言ったまでだ」

なんでも彼らは「五節の舞姫卒倒事件」を題材にするつもりだそうです。

自分のことをおちょくるネタにされても、まひろは全く気にならないどころか、自分でささっとプロットを考えだします。

五節の舞姫が舞台から下を見ると、大勢の男が並んでいる。

でもその舞姫は、実は大勢の男と契っている。

神に捧げるために舞いながら、頭の中では男との逢瀬が渦巻いている。男に都合のいいようで、実は女の方がしたたかだという話!

そうウキウキワクワクしながら、いささか過激な話を提案するも、相手はしらけきっている。

「ダメか……」

がっかりするまひろ。

風刺としてはわかります。男性が女性に清純さを求める妄想をスカッと笑い飛ばす痛快な話ですよね。

でもそれは、まひろが若い女性だからそう思うだけです。

懲りずに彼女がまた別の案を考えるというと、誰もお前に頼まないと直秀は冷たい。

散楽を観にくる客は笑いたい。笑って憂さ晴らししたい。

「おかしきことこそめでたけれ」

と言い切られます。

所詮貴族の戯言ではつまらない。おもしろくない。笑えない。そう直秀に否定されても、

「笑える話……今度考えてみるわ! 稽古がんばって!」

と、去っていくまひろ。

直秀は一座の仲間から「惚れているのか?」と問われ、明日をも知れぬ身でそれはないと否定します。

おかしきことこそめでたけれ――まひろはそんな極意を掴みました。

なかなか興味深い作品論ですね。作品の中に作品論を入れ込むなんて、実に高度。

まひろのプロットがまひろにとって笑えるのは、自分のモヤモヤをスカッと晴らすものとなる。これをテレビで考えてみたい。

私も楽しみにしているNHK夜ドラに『作りたい女と食べたい女』があります。

この作品では、男尊女卑思想を振り翳し、自分に対して冷たかった父親から祖母の介護を押し付けられそうになった女性が、それを突っぱねて父と絶縁するという場面があります。

この流れがスカッと爽快に描かれるわけです。

けれども、彼女の父からすれば究極の親不孝です。

こんな親不孝娘を痛快に描いてどうするんだ!と誰かが反対したら、通らなくなりますよね。

だからこそ、放送されることそのものが、挑戦であり進歩なのだと思いました。

同じプロットでも、受け手によってはまるで違う意味になる。

作り手がそこに過剰に忖度したり、偏った層ばかりだと、ワンパターンになってしまうということでもある。

そもそも今年の大河は「戦もない異色の題材」とされます。

なぜ異色とされるのか?

日本の歴史はこれだけ長い。

それなのに特定の時代や地域だけに偏るとすれば、そのほうが偏見あるのでは?

むしろ、そこを打破していく一手がこのドラマの挑戦では?

本作に対するアンチの意見として、「テーマがない」とか「何を言いたいのかわからない」という趣旨のものを見かけます。

そうした意見を出す人はどういうタイプの人なのか?

まひろみたいなモヤモヤを抱えていない、かつ偏見のある人には通じないことはありえるでしょう。

女性の苦労を全くわかっていない人には、そのことを訴えても通らない。

そういうことが社会においてどれだけ弊害があるか。

たとえば被災地の避難所を仕切る人が男性ばかりだと、女性用品の配給が滞る、性犯罪予防が疎かになるといった弊害があります。

大河ドラマは啓発する役目もあります。

ならば、今年は人の偏見をあらわにし、暴いていくという役目を見事に果たしているのかもしれません。

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