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【『どうする家康』感想あらすじレビュー第16回「信玄を怒らせるな」】
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どうする義信
信玄の後悔というのは甲斐という土地を領有したことじゃない。義信を殺したことでしょう。つくづく親子の情愛がないドラマだ――。
そう言いたくなったけれども、そもそも義信の存在を忘れているんだから仕方ありませんね。
それでも『風林火山』から使い回した仏像が見られたのは良かった。せいぜいそれぐらいですかね。
過去の遺産を食い潰すだけでなく、未来へ続く大きな功績を残して欲しいものです。
どうする風林火山
大河ドラマ『風林火山』で山本勘助を演じた内野聖陽さんは、重々しく説得力に満ち、様々な決意や思いを感じさせる「風林火山」を読み上げました。
オープニングテーマにも含まれており、サウンドトラックで今でも聴けます。迫力ある美声です。テンションがあがります。
疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し
お決まりの文句と言えば確かにそのとおり。しかし先行作品への敬意があれば全文を読み上げ、役者さんの見せ場とするのがドラマでも見どころとなるでしょう。
しかし、本作はこの調子。
「いざ風の如く進め!」
なんや、これ……と拍子抜けするばかり。
しかも厳密に言うと、誤ちのようにも思えてきます。この一文では、進軍速度だけを問題にしているように見えてくる(だったら重い甲冑を脱いでおけ、と突っ込みたくなりましたが)。
ちなみに武田信玄の旗印「風林火山」にしても、全文の引用ではなく、書き記すと以下のようになります。
兵は詐(さ、騙すこと)を以て立ち、利を以て動き、分合(ぶんごう)を以て変を為す者なり。
故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震(らいしん)の如く、郷に掠めて衆に分ち、地を郭(ひろ)めて利を分ち、権を懸けて動く。
『孫子』軍争篇
兵法とは、敵を騙してこそ成立し、利のために動き、分散集合によって変わりゆくものだ。
風のように迅速に進み、林のように静かに待ち、火が燃え盛るように攻め立て、山のようにみだりに動かず、暗闇のようにわかりにくく、雷鳴のように激しく動き、村落を強奪し兵士に分配し、土地を奪えば要所を分け与え、権限を分散して行動する。
このとおり結構な長さとなるため、フィクション作品では「風林火山」に省略するのが基本となります。
しかし、なぜ本作は「進軍速度だけ」を取り上げたのか。
百歩譲って「風」「林」「火」「山」のうちどれか一つの要素しか選べないなら「火」でしょうよ。
「侵掠すること火の如く」ならば、赤い衣装の武田ともマッチするし、武田軍団の怖さも伝わってくる。
それが
「いざ風の如く進め!」
ですからね。
春の運動会じゃないんだから。
信玄が発泡スチロール全開の岩に立つわ。家康はずっと同じカナブン甲冑を使い回すわ。軍議ではみんな立ちっぱなしだわ。
そうした描写と比較しても今回の「風林火山」は想像以上に精神的打撃が大きくて、ちょっと呆然としています。
武田信玄を出しながら「風」しか読まないなんて……大河ドラマ『風林火山』の再放送を強く希望します。
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どうする劉禅
いくら嫌いだろうと、褒めるところは褒めて欲しい――。
本レビューに対しては、そういった要望もあるようです。
今週は『風林火山』の使い回し小道具がよかったですが、その他には特にありません。
基本的には駄作としか言いようがない。
無理に『どうする家康』を褒めるということは、『三国志』の劉禅を褒めるチャレンジみたいな話ですよ。
国力低い蜀を継いだ時点で無理があった。そういう類の擁護は確かにできるでしょう。
しかし、劉禅の能力そのものを褒めるということはできない。
そういうことなんです。褒めるところが何もない。
どうするNHKの信頼感
こんな記事がありました。
NHKの意義・責任について記されています。
「雨の日」で特に感じたのは、公共放送ならではの責任の重さです。
NHKの現場スタッフはとても誠実でした。公序良俗に反しないようにフィルタリングをかける一方で、作品が一番届けていきたいコアの部分はぶれさせてはいけない。
そのバランス感が公共放送には求められるのだなと、一緒に仕事をして感じました。
今年の大河は「NHKがドラマを作る意義や責任の重さ」を感じているのでしょうか。
今年はただ出来が悪いだけではない。
視聴者と作り手の間にあった、信頼感を壊しています。参考にしてほしいのが本郷和人先生のこちらの記事。
◆本郷和人 なぜ話が進むほど『どうする家康』に違和感を覚えるのか?優柔不断なドラマの家康と、現実の家康の間に存在する「決定的な違い」について(→link)
小学生を相手に徳川家康の話をすることになった本郷先生。
まず最初に一万円札の話を持ってきて「信頼性」について語りました。
原価の安い貨幣というのは割合早くできます。しかし、それが現実に流通するかどうかは国の信頼次第。
往年の漫画『北斗の拳』では、世界崩壊後のチンピラが弱者から奪った1万円札を握りながら、こう叫びます。
「こ〜んなもんもってやがった ケツをふく紙にもなりゃしねえってのによ!」
国家の信用がゼロになったことを端的に、しかもショッキングにわかりやすく示す表現ですね。
今年の大河は、紙幣を紙クズにする愚行そのものに思えます。
史実としておかしくない箇所にもツッコミが入ったりする。それは大河への信頼性低下の証でしょう。
しかしそれに対して「残念でしたw 伏線ですw 正しいですw」と小馬鹿にするのは、正解なのかどうか。
例えば「三河味噌ラーメン」の店があったとしましょう。そこで客がこう言い出しました。
「なんか味がおかしい。このスープ、三河味噌を使ってないんじゃないの?」
こういうとき、店主や他の常連客はどうすべきか。
もしも半笑いで、こんな風に返したらどうでしょう?
「は? 三河味噌使ってますよw なんなら厨房から持ってきましょうかwww そんなのわからないくせに、よくラーメン食えますよねw」
「クレーマー、マジウケるwwここのラーメンが嫌なら他の店行けば?」
「味もわかんねー奴は、自宅でカップラーメンでも食ってろww」
店側も常連も、「三河味噌を使っている」という点に関しては、間違ったことは言っていません。
けれども、その客は二度と来店しないだろうし、なんならブログやSNS、あるいはGoogleマップに書き込むかもしれない。
気の好い店主であれば、例えばこんな風に答えるのでは?
「あれ? いつもと同じのはずだけど、違うかな。季節の変化でスープの調合にズレが出て、三河味噌本来の味が出てないのかもしれんな。見直してみるよ、ありがとうな」
こういう店なら、もう一度行ってみようと思えません?
今年は、そういう信頼関係まで、破壊しているように思えてならない。
大河という店を守ることを、もう一度真剣に考えて欲しいのです。
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