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【なぜ兜首ばかりなのか】
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兜首:名のある武将の首
首桶を効果的に使い、殺伐とした中世社会を描いた2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
これに対し、第1回放送から頻繁に「兜首」を登場させているのが2023年の大河ドラマ『どうする家康』です。
前述の通り兜首は、兜をつけた首であり、それなりの武将の首を指します。
取ったら素晴らしい――そんな意味もあるわけですが、どうにもその取扱がおかしいのが『どうする家康』。
・今川義元
・武田勝頼
・明智光秀
と実に三人もの大名クラスの兜首が映し出されてきましたので、一人ずつその状況を考察してみたいと思います。
今川義元:一体何キロあるのか
『どうする家康』は桶狭間の戦いから始まっているため、今川義元は第1回放送で討ち取られます。
驚きだったのは単に討ち取ったにとどまらず、織田信長が槍につけた義元の兜首を馬上から槍投げ選手のごとく投げたことでしょう。
◆大河ドラマ「どうする家康」第1話。 織田信長が槍と一緒に放り投げ、野ざらしになる今川義元の首(→link)
哀れ義元の首は戦場に投げ捨てられ、槍にはカラスが止まる始末。
死者に対する冒涜とすら思えますが、フィクションにしてもあんまりなのは、
「そもそも兜首のついた槍なんて投げるの無理だろ!」
ということでしょう。
・兜
・首
・槍
一体どのくらいの重さになるのか?
・兜:およそ3キロ
・首:およそ5キロ
・槍:およそ5キロ
ざっと計算してみると、おそらく10キロは超えるはず。むろん個体差はありますが、15キロあってもおかしくない。
実際、撮影時も重かったそうで、
◆「どうする家康」義元の首を槍投げ 重量なんの一発決め!演出も感動 ネット反響“岡田信長”初登場の裏側(→link)
迫力あるシーンを演出したかったのかもしれませんが、あまりに大仰すぎたため、かえってリアリティを失わせています。
せめて兜を外すという選択肢はなかったのか……。
そもそも戦国の革命児とは、政策や戦術戦略で才能を見せるべきであって、単に粗暴で無茶をする人物など魅力は感じられません。初回放送で、一気に本作の信長熱が冷めた方もいたでしょう。
こうした意見に対し、足軽が生首を槍に差した絵を示して「時代考証としては間違っていない」という反論もあるようです。
それ以前の問題です。どう考えても、あの槍は重すぎて遠くまで投げるのは無理。
陸上の槍投げ競技で使われるのは男子が800g以上で女子が600g以上とされています(→link)。
砲丸投げの砲丸が男子で7.26kg、女子で4kg(→link)。
それに対し信長が手にした槍&兜首は推定10kg以上です。
しかも馬上でバランスを取らねばならず、もはやSFの世界でしょう。ミュータント信長を描きたいのであれば、別の映画かドラマでやってほしい。
ちなみに、こちらの記事では兜と槍そのものの重さを換算していないようです。
◆『どうする家康』岡田准一の信長は大河史上最強で最弱だった 武道家が“岡田信長”を解説(→link)
武田勝頼:諏訪法性兜が
『どうする家康』では、フサフサした赤毛つきの兜で武田勝頼が登場しました。
◆大河「家康」赤毛兜の武田勝頼が恐ろしく強そう 9年後滅亡にネット「この武田が滅ぶのか」空城の計、若さ仇か(→link)
特徴的な色や形状をしたあの兜は「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」といい、ヤクの毛が用いられています。
歌舞伎および浄瑠璃『本朝廿四孝』(ほんちょうにじゅうしこう)によって、この兜は非常に有名な存在となりました。
◆“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町|NHK 長野県のニュース(→link)
この兜は信玄の所有物ではなく、諏訪大社のものを借りていたと伝わっております。
『どうする家康』の勝頼は、さほどに由緒正しいものを色違いで複製して被っているんですね。
そもそも勝頼は、元の嫡男・武田義信を失った信玄にとって中継ぎ的存在で、勝頼には使用できないものがあったともされる一方、諏訪法性の兜については許されています。
つまり、厳密に言えば色違いではなく、信玄の死後、家督相続して父と同じものを被ることができたはず。
それをなぜドラマでは色違いにしてしまうのか。
あの兜は家の持つ権威、そして諏訪大社の加護を得るという意味もある。それなのに父の死後もまだ赤いレプリカをかぶっているということは、継承できなかったと考えられます。
勝頼は風林火山の旗は継承できず、兜は認められていた。その史実以下です。
そのくせ劇中の信玄は、こんなことを言っていました。
「そなたは、わしのすべてを注ぎ込んだ至高の逸材じゃ」
にも関わらず兜を継がせないのなら……ひどい親ですね。
それでも勝頼のあのバージョン違い兜もそれなりの価値があったとしましょう。だとしたら武田家の宝とも言える大事な兜を、生首に被せたままにするものか。
家臣団たちは「せめて兜だけは敵の手に落とすな!」と焦ったことでしょうし、討ち取った側も「見よ、これぞ諏訪法性の兜だ!」と大事にしたことでしょう。
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
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勝頼の兜首についての疑念をまとめます。
・ヤクの毛は、赤ではなく白ではないのか?
・武田勝頼の死の状況からして、兜を被っていたとも思えない(もっともこの作品では首をとってから兜を被せる世界観のようなので)
・お宝兜をなんともったいない! どうせならもらっておきましょう
しかも『どうする家康』では、勝頼の死後、思わず眉をしかめたくなるシーンもありました。
勝頼の首を前に、明智光秀が徳川家康にこう語りかけるのです。
「徳川殿、憎き憎き、勝頼でございますぞ。蹴るなり、踏みつけるなり、気のすむまで、存分になさいませ」
「恨んではおりませぬゆえ」
【三方ヶ原の戦い】や長年の対立で散々苦しめられた相手を恨んではいない――家康にそう語らせることで持ち上げたかったのでしょう。
だからといって光秀にそこまでわかりやすい下劣なことを言わせますか。
真に冷酷な光秀を描きたいのであれば、腹の中では勝頼の死を喜びながら、表向きは涙を流して「武家の最期とはかくも哀しいものであるか……」とでも言わせた方がよいのでは?
光秀の安易な台詞により、勝頼の死という重要な場面も貶められてしまった気がします。
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