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【鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第5回「兄との約束」】
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八重と次郎夫婦の哀愁
伊東祐親は策を練ります。
陣営を先導している宗時さえ殺せば、北条は崩れる。
そこで、善児を北条の陣に潜り込ませ、宗時暗殺を狙う――。
息子の祐親が、戦のなりわいに反するし、父上にとって胸時は孫であると苦言を呈しても、祐親は、決して討ち漏らすなと念押しするのみ。
八重の息子・千鶴丸をあっさり殺した善児、果たして宗時は?
8月20日、頼朝は300の兵とともに、北条館を出立します。
以仁王の令旨を掲げての進軍。
そのころ八重は、夫の次郎から伊東の館に移るように言われていました。
家に残るという八重に対し、父上の命令だと次郎が重ねて諭すと、彼女も戦が始まることを察知し、こう続けます。
「勝てますか? 勝ってもらわねば困りますよ! 北条は強いですよ!」
「北条が大庭と戦っているうちに、伊東が挟み撃ちにして勝つ」
夫から伊東の戦術を聞かされた八重は絶望。北条が強いというのは彼女の願望です。勝てるか?という念押しも本心ではありませんね。
八重は川に走り、船を出すように頼み、作戦のことを佐殿に伝えようとすると、次郎は語気を強めて返します。
「私はあなたの夫だ!」
それでも急かす八重に、次郎は繰り返す。
「侮るな!」
しかし、結局は八重を船に乗せてしまっている。
「酷い女だということはわかっています。いくらでも憎みなさい」
これだけ憎たらしい裏切りをしてもあくまで可憐である。これぞ新垣結衣さんの真骨頂でしょう。
彼女の演技について叩く記事は一掃されました。こういうことをできるから大河はまだまだ力があると思えるのです。
しかし、八重が北条館に辿り着くも、館には誰もいません。
雷鳴が響き、豪雨が降りしきる中、彼女は呆然と立ち尽くすのでした。
政子「これは私たちの戦だ」
北条の女たちは伊豆山権現にいました。
関東でも指折りの霊場でもあり、信心深い人々の信仰を集めているとか。
政子はここで疑念を覚えてしまいます。佐殿は戦で人を斬る。そんな妻が勤行に励んで大丈夫なのか?と。
私もこれは未だにわけがわかりません。入道姿の武将が戦いまくるから、なんだかどうでもよくなっていきますが……。
政子もいつかこうした矛盾を吹っ切り、尼将軍として君臨するのでしょう。
そんな政子に対して、りくが答えを出します。
戦で亡くなった方全ての冥福を敵味方関係なく祈ると考えばよい。先週、りくは祈ることは無意味と言い切ったばかりですよね。
要するにこの人は、相手が思う答えを毎回コロコロ変えて出してくるのでしょう。
時政あたりは酔いしれそうですが、政子はどうでしょうか。
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文陽房覚淵が来ます。
寺は女人禁制で、出入りできるのは雑事を行う寺女のみ。滞在している間はこれを着て寺女としての仕事をするようにと言うのです。掃除もしなくてはならないとか。
実衣とりくは露骨に嫌そうだ。一方、政子はお礼を言っています。
身重で動けないと主張するりくに対し、義母上の分まで働くと返す政子。これもりくへの態度の違いなのでしょう。義時は相手の矛盾につっこみ、政子はその前に事態収集の一手をうつ、と。
義時は、女人に飢えた僧侶にはくれぐれも近づくなと念押しします。
実衣はますます帰りたいと訴えていますが、政子が「佐殿は命懸けて戦っているのだから、これは私たちの戦だ」と嗜めます。
義時が労うと、政子は気丈に答えます。
「私たちは心配いりません。心置きなく戦えるよう、お祈りしておりますよ」
やはり彼女は器が大きい。毎週成長しています。
酒匂川の義澄・義村親子
姉たちを見送った帰り道、北条義時は山中で伊東の連中を見かけました。
頼朝たちは鎌倉を目指すものの、大雨で進めない。
そして、23日に石橋山に陣を置きます。
大庭も麓に布陣しました。
ここで梶原景時の献策だ。
石橋山から敵を誘い出す。
山では数の利が活かせないから、平地に引き摺り出して一気に潰すべし。
なんということだ景時よ……地形を考慮した合戦を考えている!
兵法においては基礎中の基礎なのに、他の誰も考えられないから、それだけで賢く思えます。
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そのころ三浦勢は、酒匂川の増水で足止めを食らっていました。
ここを渡れば無駄に損害が出る……と三浦義村はキッパリ進軍を止めようとします。
向こうでは北条が待っていると苦しそうな父の三浦義澄に対し、いったん三浦に戻ろう、頼朝に兵は集まらないとにべもない義村です。
義澄は、無二の親友である小四郎(義時)もいるではないか!と我が子の義村に訴えるのですが。
「小四郎、すまん、参りましょう」
と、一言で片付ける義村。
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いやはや、こいつは出てくるたびに「友達が少なそうな奴」である個性を押し出してきて、一周回って魅了されますね。
山本耕史さんの声がこれまた冷たく乾いて聞こえて素敵です。
「宋襄の仁」
「行くのか行かねえのか!」
ここでめんどくさい和田義盛が登場。いやぁ~暑苦しくていい。義澄もすぐには退却の判断ができず、「朝まで待って水が引かねば引き返す」と言うと、義村はめんどくさそうにこうです。
「父上がよろしければ」
熱血漢の義盛は、おもしろくねえと駄々をこね、向こうにいる大庭の縁者に火をかけてくると言います。
そんなホイホイ人に火をかけると言わんでも……。
義村はこれまたかったるそうに、自分たちは大庭に味方すると装っている、それを裏切るというのに、わざわざつまらないことで去就を知らせなくてもよいと、義盛を引き留めようとします。
これがかえって父・義澄に火を付けてしまった。
去就宣言のためにもひと暴れしてこい!そう義盛に命じるのです。ただ、息子の意思は確認したようで、よいか?と念押しすると、義村はこうだ。
「父上がよろしければ」
こうした義澄のような態度を「宋襄(そうじょう)の仁」と言います。
中国の春秋時代に、宋の襄公が楚と戦った。
このとき配下がこう進言。
「楚軍の陣形が整っていません! いまのうちに叩きましょう!」
すると襄公は、
「そういう卑劣なことをするのは君主らしくないからいかん」
と却下し、大敗してしまった。
以降、無駄な気遣いは「宋襄(そうじょう)の仁」と呼ばれるようになった。
しかし近年は、襄公の気遣いは、むしろ“戦のマナー”だったのではないかとされています。
人間は果たしていつから本気で殺し合う戦争をしているのか?
殺し合いを徹底してやってしまったらば、人口が激減して生産性が落ちる。ゆえにある程度マナーや儀礼があったのではないだろうか? そう見なされたんですね。
それを孫子のように「兵は詭道なり」――つまり戦争は騙し合いだと定義する人間が出てきて、変わってしまうのではないかと。
つまり三浦義澄が愚かなわけでもない。
むしろそれに不満そうで、平然と騙す義村という男が特殊枠なのでしょう。
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かくして大庭に寝返ったと認識される三浦ですが、大庭勢も大して動揺していません。
ただし、北条と三浦に挟み撃ちにされる危険性はある。今は、三浦も川を渡れないが、どうすべきか?
そこで出番となるのが景時の主張。
三浦との合流前に頼朝・北条勢を叩くべし――。
すぐにでも出陣すると言い出す景時に対し、すでに黄昏時であると反論も湧いてきますが、だからこそだと景時が念押し。
大庭景親もこれに同意します。
景時も「兵は詭道なり」ということを理解している存在ですね。
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