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その日、歴史が動いた 徳川家

結城秀康はブサメンだから父の徳川家康に嫌われたってマジ?

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キレイなもののほうが好き、というのは古今東西・老若男女普遍の原理ですが、こだわりすぎるとロクな結果にならないというのもまた常識ですよね。
顔の美醜だけで人生や政治は決まりませんし、むしろ美しさ故に滅びた国の例なぞ数え切れません。
というわけで(どういう)、本日は今までさんざん不憫扱いしてきたあの人について判官びいきをしまくります。

天正二年(1574)のあす2月8日、徳川家康の次男・のちの結城秀康が誕生しました。

べ、別に彼が醜男だったことを強調したいんじゃないんですよ?家康が秀康の顔を見て「ギギという魚に似てたから幼名を義伊にした」というウワサがあるのでね、その。
でも、ギギ自体は目が大きく、魚類の割に頭良さそうな顔だと思うんですけども。瞳孔がちょっと開き気味なので不気味といえば不気味ではありますが、瞳孔開いてる赤ん坊とか普通ありえんだろJK。

結城秀康/Wikipediaより引用

最初は秀吉のもとへ 次に結城家へ養子に出され

顔のことはさておき、秀康の人生です。
苗字からもわかる通り、秀康は秀忠の兄にもかかわらず家督を継ぐことができませんでした。最初は秀吉に、次は結城家に養子に入っていたからです。
お嫁に行った女性が出戻ることはありましたが、養子に行った男性が実家に戻るというのは当時ありえないことでした。
人間的にアレなエピソードがなく、むしろ周囲からは良い評価を得ていた話が多く伝わっているだけに惜しい人です。

例えば戦に関していいますと、秀康は秀吉の九州征伐時に初陣を果たしています。
朝鮮の役では渡海しなかったものの、小田原征伐の際は立派に一軍の将を務めました。
関が原の時には上杉家の牽制として東北に残っていますので、この頃には家康も毛嫌いしておらず、関係も悪くはなかったんじゃないでしょうか。ヘタしたら秀康が裏切って上杉についてたかもしれないですし。
まさか「顔を見たくないから置いていった」なんてことは……ないと……思いたいな……。

関が原と同時期のこんなエピソードからも、秀康の能力や人となりは窺えます。

家康は重臣達を集めて「ワシの後継者は誰が良いか」と尋ねたことがありました。
このとき、本多忠勝と本多正信・正純の三人は秀康を支持し、大久保忠隣だけが秀忠を推したとか。
秀忠を推したのが忠勝だけだったら武勇を評価されたと見ることもできますが、真逆のタイプである正信も秀康についたというのが興味深いところです。
ここから見ても、秀康は文武両道で人望もある人だったということがわかります。

 

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所有アイテムがすげー豪華!

また、彼の所持していた武具からも武勇や人柄を知ることができるように思います。

・秀吉に養子入りするとき、家康が贈った「童子切安綱」(刀・国宝)
・結城家に養子入りしたとき受け継いだ「御手杵」(おてぎね、槍)
・関が原の前、石田三成から護衛のお礼にもらった「石田正宗」(刀・重要文化財)

国宝や重要文化財という概念ができたのはずっと後の話とはいえ、そんなレベルの刀を二振りも”もらった”というのがスゴいですよね。
当時から海賊版……もといニセモノは横行していましたから、ただ単に銘が彫られているだけでは名刀の証になりません。
譲った相手がわかっているということは出元がはっきりしているということですし、買った・交換した・分捕ったというのでなく譲られたというのは”出来た人”だったからではないでしょうか。
童子切安綱をもらったとき秀康はまだ10歳でしたが、そこには「(顔はともかく)立派な武士になれよ」という家康の親心があった……と思いたいものです。

 

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全長4メートルの槍!前田慶次かよ(マンガの)

御手杵は東京大空襲で焼失してしまったため、この3つの中で唯一現存していません。
穂先(刃)の部分だけでも140cm近く、柄を合わせた全長は4m弱というとんでもない槍でした。
当然重さもかなりのもので、江戸への参勤交代で馬印として使われる度に皆苦労して運んでいたそうです。

そこは別の物にしてあげてもよかったような気がしますけれども、御手杵は義父・結城晴朝が作らせたものですので、秀康が「結城の名を示すには欠かせない」と思っていたのかもしれません。
今は専門家の手によってレプリカが作られ、結城市図書館に所蔵されているそうです。が、あまりにデカすぎて場所に困るため、特別なときでもないと展示しないそうで。
秀康が大河ドラマになったら特別展示とかしませんかね。一度見てみたいものです。

関が原の後、秀康は徳川一門の中でも破格の67万石(福井藩)に加増・移封されたり、伏見城代を任されたりと比較的厚遇されましたが、慶長十二年(1607年)、34歳の若さで亡くなりました。
死因は梅毒だったといわれています。現代でも完全には解明されておらず、抗生物質でしか治せない病気ですから、当時の医学では手の出しようがなかったでしょう。
実父よりも義父よりも早い、若すぎる死でした。

「本人に責任のない理由で不遇になりながらも、表立っては逆らわず職務を全うした」と書くと、結構リアルな人生ですよね。
織田信忠と同じく、秀康はもっと知名度や評価が上がっていい武将だと思うんですが、いかがでしょう。

長月 七紀・記

引越し大名・松平直矩(なおのり) 父・直基の代から7回もの転封で財政ボロボロなれど……

徳川家康はもっと評価されていい! 75年の生涯に見る熱き心と老練な政治力

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参考:雑魚の水辺

 





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