結城秀康

結城秀康/wikipediaより引用

徳川家

家康の次男・結城秀康が不運にも将軍になれなかった理由とその生涯

江戸幕府の初代将軍は、皆さんご存知、徳川家康です。

二代将軍は徳川秀忠

この秀忠は三男ですので、兄の二人はどうしたんだ?と言いますと、長男の松平信康はよく知られたように切腹へと追い込まれています。

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では次男は?

それが今回注目の結城秀康――。

命日が慶長12年(1607年)閏4月8日であり、幼い頃に亡くなったわけでもないのに、徳川家の跡継ぎになれなかった人物です

たしかに当時の跡継ぎは「長幼の序」では決まりませんが、事が天下人の次男ですから、その去就は社会的影響も小さくはありません。

いったい結城秀康とはどんな人物だったのか?

なぜ将軍なれなかったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


結城秀康は生誕時に冷遇された?

結城秀康は天正二年(1574年)2月8日、遠江国敷智(ふち)郡で生まれました。

出生地は中村源左衛門という人の屋敷だったとされています。

中村家は源範頼の子孫にあたる家だそうで……この時点で何となく不運な雰囲気が漂ってきそうですね。

範頼は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で迫田孝也さんが演じる頼朝の弟で、最期は不審死を迎えています。

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秀康の生母は於万の方です。

後に小督局(こごうのつぼね)とも呼ばれた女性であり、出自は不明ながら、おそらくや国衆などの有力者層ではなかったのでしょう。

余談ですが、於万の方は秀康の二倍長生きしていて、頑健な体質の女性だったと考えられます。

家康が健康で子どもを産める女性を多く側室にしていた、その一人と言えますね。

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閑話休題。

秀康の幼名は於義丸(おぎまる)と言いました。

彼の生誕時には、有名な俗説があります。

『秀康は生まれたとき、”ギギ”という魚にそっくりな顔だった。造作があまりにもマズかったので、家康は秀康を忌み嫌い、幼名も”ギギ”からとって”於義丸”とした』

要はブ男なので家康が嫌った――というもので、話の真贋は不確かですが、家康がなかなか於義丸と対面しようとしなかったことは確実なようです。

というのも、於義丸にとっては異母兄にあたる松平信康が

「於義丸があまりにも冷遇されていて哀れだ」

と考え、家康にとりなしてやっと対面が叶ったのだ……とされているためです。

冷遇された理由は、顔の他に以下のような理由も挙げられたりします。

・正室の築山殿に遠慮した

・実は於義丸には双子のきょうだいがおり、双子は不吉とされていた

武田勝頼との対立が深まっていた時期で、子供に会うどころではなかった

おそらくはどれか一つの理由からではなく、複合的な要素があったのでしょう。

 


小牧長久手の後に人質へ

もしも結城秀康が、次男として家康のもとで育っていたら?

江戸幕府の二代将軍になっていた可能性は十分にあったでしょう。

しかし現実は厳しいものです。

於義丸にとっては恩人にあたる長男・信康が、天正七年(1579年)に謀反の疑いで切腹。

さらに決定的だと思われる出来事が起きます。

天正十二年(1584年)12月、【小牧・長久手の戦い】講和条件の一つとして、秀康は羽柴秀吉のもとへ預けられたのです。

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要するに人質ですね。

このとき共に付き従ったのが石川数正の次男・勝千代(康勝)と、本多重次の長子・仙千代(成重)。

幼少期、自らも人質となっていた家康も、ほぼ同じ構図とも言えます。

家康としても一応は不憫だったのでしょう。於義丸の人質入りの際には『童子切』の刀と采配を餞別として授けたと言われています。

現在は『童子切安綱』と呼ばれ、

平安時代に源頼光が酒呑童子を斬った」

とされる刀です。

あくまで伝説ですが、当時もこの逸話が知られていたでしょうから、家康が息子にどのような思いを込めて大坂へ向かわせたのか……考えすぎですかね。

家康懐柔策の一環で、秀吉のもとへ送られた結城秀康は、そこそこ良い待遇を受けていたようです。

元服の際は秀吉と家康から一字ずつもらって「秀康」と名乗ったり、羽柴の名乗りを許されたり、河内に二万石を与えられたりしていました。

また、天下人の養子、あるいは家康の息子としてのプライドや威厳もしっかり持っていたようです。

「勝手に共駆けしようとした秀吉の家臣を無礼討ちした」

「秀吉や家康も同席した相撲見物の際、熱狂しすぎて騒々しくなった観客を睨みつけ、一瞬で黙らせた」

そんな逸話が残されています。

秀吉の養子だった頃の秀康は10~15歳です。

当時でしたら確かに元服する頃合いではありますが、なかなかの成長ぶりではないでしょうか。

そしていよいよ、彼にも初陣の機会が巡ってきます。

 


秀吉に男児が生まれ!?

初陣は天正十五年(1587年)――島津の討伐、俗に言う【九州征伐】でした。

身分的にも年齢的にも、秀康自らが戦功を上げられる場面はなかったことでしょう。

そのまま歴史が進めば、他の秀吉の養子たちと家督を争う事になっていたのかもしれません。

しかし、事態は急変します。

これまで、とにかく子宝に恵まれなかった秀吉のもとに、天正十七年(1589年)、男子・鶴松が生まれたのです。

勢い秀康の立場は宙ぶらりんとなってしまいました。

そこで秀吉は、関東懐柔工作の一環として、下総の大名・結城晴朝の婿養子へ秀康を送ることとします。

徳川家の秀康が”結城”を名乗るのも、こうした経緯があったからなんですね。

結城領の石高は十万石を超えていましたので、経済的にはかなり恵まれた立場になれた……と、そう単純に言えないのが、豊臣政権下での大名たちです。

程なくして朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が勃発。

秀康は渡海せず、名護屋の本陣で秀吉のそばに控えていました。

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そこには家康もいたので、いくらかは親子の会話もあったかもしれませんね。

そして迎えた慶長3年(1598年)8月18日。

豊臣秀吉が亡くなり、時代が動きます。

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