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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

崇徳天皇の波乱万丈 最強の怨霊か、それとも最高の歌人か

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エラい人ほど大変なことも多いものですが、各国の王族もその例外ではありません。日本の場合はもちろん皇室です。

幸か不幸か、皇室の場合は政治的な権力を握っていた期間はあまりないため、名目として利用されたり担ぎ上げられたりといったことが多く、命にまで危険が及んだ方は多くないのですが。もしかしたら皇室がずっと続いている理由の一つかもしれませんね。
とはいえ、(伝説上)今上陛下まで125代=125人の天皇がおられるわけですから、中には不遇の一生を送った方もいました。
本日はその中でも一・二を争うであろう不幸に見舞われた方のお話です。
元永二年(1119年)の5月28日は、崇徳天皇が誕生された日です。
2年前のNHK大河ドラマでも特異なキャラでしたが、多分この名前に聞き覚えのある方が持つイメージは「日本三大怨霊の一人」か、もしくは「百人一首の歌人の一人」の二つに一つでしょう。
なぜこれほどかけ離れた印象があるのかというと、この方の生涯があまりにも落差の激しいものだったからです。

崇徳上皇を演じた井浦新さん(LividoorNewsより)

「ぼくはおじいちゃんの子なの」

以下、天皇と上皇と法皇がいろいろ混じるんですが、時期によって変えていくとややこしいので全員退位後も”天皇”で統一させていただきます。
即位の順を先に書いておきますと、白河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇です。
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれましたが、この時点で既に不遇が始まっていました。
崇徳天皇の母がかつて曽祖父・白河天皇に仕えていたため、鳥羽天皇ではなく白河天皇の子供だと思われていたのです。何せ当の鳥羽天皇がそう信じ込んでいたといわれているくらいなので、周囲も同調していたでしょう。
ご本人には責任がないのにひどい話です。

しかもこの時代によくあることで、先代の天皇(この場合は鳥羽天皇)が実権を握り続けるために「お前、譲位して小さい子を天皇にしろよ。ワシが仕事やってやるから」という理由で若くして退位させられてしまいます。

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22歳で引退なんて…

崇徳天皇の即位が四歳、退位が二十二歳ですから、やっと自分の意見を言えるようになったところでムリヤリ退場させられたような形です。あんまりだ。
さらに追い打ちをかけるが如く、鳥羽天皇が崇徳天皇の次に皇位につけたのは、崇徳天皇からすれば歳の離れた弟にあたる近衛天皇でした。
近衛天皇の母親が鳥羽上皇のお気に入りだったからとはいえ、二歳での即位というゴリ押しぶりです。こりゃ恨みたくもなろうというものですよね。

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歌人たちからは人気だった

が、怨霊になったのはコレが直接の原因ではありません。
崇徳天皇はこうした好意的とはいえない視線の中で育ち、政治の中枢から追いやられてしまったわけですが、歌道を愛する心優しい方でした。
在位中も歌会を催したり、退位後も和歌集を編纂(へんさん)させたりして風流な一面を持っており、鳥羽天皇があまり和歌を好まなかったこともあって歌人達からの人気は低くなかったようです。
そのまま芸術の道に生きられればよかったのですが、鳥羽天皇の仕打ちはまだ終わりませんでした。

鳥羽天皇がゴリ押しした近衛天皇は生まれつき病弱な質で、わずか十七歳で崩御してしまいます。
こうなると再び後継者問題が起こるわけですが、このとき崇徳天皇の息子・重仁親王がハブられ、崇徳天皇からすればもう一人の弟にあたる後白河天皇が即位することになりました。
本来の順序であれば重仁親王が即位するのが筋なのですが、それを見事ひっくり返したわけです。もちろん鳥羽天皇の意向でした。
上皇として院政をするには、現役の天皇が直系の子供や孫でなくてはなりませんでした。つまり、弟が皇位についた時点で崇徳天皇が院政をする機会はなくなってしまったことになります。
「父上はそこまでして私を追い出したいのか!」と、崇徳天皇が怒りと恨みを募らせていったことは想像に難くありません。

このイジメっぷりからしてどう考えても鳥羽天皇のほうが悪い気がするんですが、何故か後世(現在も?)怨霊として悪く言われるのは崇徳天皇のほうだという……理不尽なものです。
まあ、当時はDNA鑑定とかないですから思い込みに勝るものはないんですけども。

なぜ怨霊になったのか

話を戻しまして、最終的に「怨霊」と言われてしまうようになった直接の原因についてお話しましょう。
上記の経緯がありましたので、当然崇徳天皇と後白河天皇の兄弟仲は険悪もいいところです。そこに火種の鳥羽天皇が亡くなったのでさあ大変。
こうなると、周りのよからぬ輩がどっちかについて面倒を起こすのはもはやテンプレです。ついでに新しく台頭してきた武士達、そしてその筆頭に当たる源氏と平家の内部争いがくっついて、ついにドンパチにまで発展したのが保元の乱でした。この辺は一昨年の大河ネタになっていたのでご記憶の方も多いかもしれませんね。

ちなみに保元の乱のきっかけは、鳥羽天皇が亡くなった際「ワシの遺体は崇徳に見せないように!」とまで言っていたからだそうで……しかも亡くなる直前にも崇徳天皇はお見舞いに行っていたのに対面を許さなかったとか。ホントどこをどうしたらそこまで恨めるんですかね。
崇徳天皇は歩み寄りたそうなのに、鳥羽天皇のほうであまりにも突っぱね過ぎていて資料読んでるこっちが泣けてきます。

対立の構図としてはこんな感じです……とまとめようと思ったら、有名どころ(※)はみんな後白河天皇方だったのであまり意味がありませんでしたチャンチャン。
※源義朝(頼朝・範頼・義経のトーチャン)と平清盛のことです

有名どころが後白河天皇方ということは、勝ったのもそっち側ということです。後世から見た話ですけども。
当然負けた崇徳天皇と愉快な(?)仲間達はそのままの立場ではいられません。
トップの崇徳天皇は讃岐国(現・うdもとい香川県)に流罪、崇徳天皇についた公家や武士も軒並み実権を失うか斬首という厳しい措置がとられました。

うどんとの安寧な暮らしを選んだのに

こうして決着がついたことで、崇徳天皇は権力への欲を捨てます。
讃岐では仏教を心の拠り所とし、五部大乗経といわれる五つのお経を書き写していました。そして乱の犠牲者の供養と自らの反省を表すため、「私の代わりに、この写本を京の都に収めてもらえないだろうか」と後白河天皇に頼みました。
が、あろうことか後白河天皇は「何か呪いかかってそうだからヤダ」(※ガチです)という身も蓋もない言い方で写本を突っ返してきます。
恨みを捨てたいからこそ熱心に写経をしたというのに、この仕打ちとかあんまりにもあんまりというもの。
これにはついに崇徳天皇もブチ切れ、配流から八年後に亡くなってから怨霊になった……というのがいわゆる崇徳天皇の怨霊伝説です。

現代でも、とある芸能人が子どもに「崇徳」と名づけたら、ネットなどで批難を浴びるなんてこともありました。(参考「 今さらながら山田まりやが長男につけた「崇徳」はベリーベリー良い名前であることが判明【優しすぎる日本史入門】

死後に相次ぐ波乱「崇徳天皇のせいじゃね?」 崇徳「おれ関係ないし」

でもこれ、言われだしたのが崇徳天皇崩御から十年以上後の話なんですよねえ。
その頃たまたまデカイ動乱や皇室関係者の死没が重なったので、「もしかして崇徳天皇が!?」という話になったらしいですが、崇徳天皇が祟りを起こしたいのは後白河天皇であってその後の人達じゃないと思うんですけども。
江戸時代には物語のネタとして「崇徳天皇の怨霊が出たぞー!!」という話が使われるようになってしまったこともあり、怨霊伝説が定着してしまったようです。作者度胸あるな。
現在でも怨霊ネタの鉄板らしいですが、実際には復権されていますし、明治天皇や昭和天皇が祭祀を行ったりしているのでもう祟る事はないと思われます。そもそも崇徳天皇が恨みたいのは(ry
さて、怨霊云々はともかく、崇徳天皇の和歌を見るとなかなか情の濃い方であったことが窺えます。
身分の高い方らしくないというか、平安の歌人によくある優しい作風(たおやめぶり)よりは奈良時代の”ますらおぶり”や武士の歌に近い力強さがあるようなないような。
怨霊の話で終わらせるのも後味が悪いので、そんな崇徳天皇の歌をいくつかご紹介しておしまいにしましょう。

こんなにステキな崇徳さまの歌

百人一首77番
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
(適当訳)「川の流れが岩に分かたれても再び合流するように、今は別れても再び会えると信じているよ」
落語のネタにもなっていますし、崇徳天皇の歌では一番有名ですかね。
元ネタ(本歌)が武烈天皇の「大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも 末は足しても 遇はむとぞ思ふ」なのはいいっこなしですgkbr。
「朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける」
(適当訳)「桜の開花を毎日楽しみにしていたら、夢の中で現実より先に咲き始めたよ」
毎日庭を眺めて桜が咲くのを待ってるとか何それかわいい。

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「五月雨に 花橘の かをる夜は 月すむ秋も さもあらばあれ」
(適当訳)「五月雨の降る中で橘の花が香っているさまは、秋の名月と比べがたいほど好きだ」
秋の月を称える歌は多いですが、夏の雨と花の香りをここまで褒める歌は珍しいんじゃないでしょうか。
五感が鋭敏な方だったんですかね。
「秋ふかみ たそかれ時の ふぢばかま 匂ふは名のる 心ちこそすれ」
(適当訳)「秋も深まった夕方、藤袴の花が香っているさまは自ら名乗りを上げているように思える」
これまた花の香りに関する歌ですね。藤袴は桜餅の葉のような香りだそうで、確かに秋にその香りがすれば自己主張とも思えそうです。
「夢の世に なれこし契り くちずして さめむ朝に あふこともがな」
(適当訳)「夢のように儚いこの世でできた縁だが、もし煩悩という夢から覚めて成仏できたら、あなたとまた会いたい」
仲の良かった歌人・藤原俊成(百人一首を選んだ定家のトーチャン)に当てて詠んだものといわれています。
内容からして死期を悟った頃の歌でしょうね。(´;ω;`)
他に西行との逸話もあったりするのですが、長くなりすぎたので今回はこの辺で。
長月 七紀・記
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/崇徳天皇
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_38e9.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sutoku.html





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