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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

嘉吉の乱とは? 足利義教が暗殺され室町幕府を衰退させたグダグダっぷりが凄い

更新日:

政治史というと血なまぐさいのが常ですが、中には「なにがどうしてそうなった?」としかいえないような出来事もありますよね。

嘉吉元年(1441年)6月24日に、室町幕府六代将軍・足利義教(よしのり)が暗殺されたことで始まった、「嘉吉の乱」もそのひとつではないでしょうか。

初代・尊氏が征夷大将軍に任じられたのが暦応元年(1338年)ですから、幕府ができて百年ちょっとで早くも先が危うくなってしまったわけですね。
しかし、経緯を見てみると「そりゃ反乱したくもなるわ」と思いたくなってきます。
その後の展開もアレなんですけども。

足利六代・義教。ただでさえ存在感の薄い室町将軍ですが、この辺は本当に大学受験生泣かせですな……/Wikipediaより引用

 

しょーがないからクジで将軍、決めちゃおう

キーマンとなってくるのは、足利義教と赤松満祐(みつすけ)という人物です。
赤松家は室町幕府の中でも四職と呼ばれていたお偉いさんの家柄で、領地もたくさん持っていました。しかし、大きな家にはよくあることで、領地分配などを巡って本家と分家の間に密かな確執が勃発。
一触即発の状態に火をつけてしまったのが義教です。

というか、将軍家でもずっと前から火種はくすぶっていました。
ナゼかと申しますと、五代・義量(よしかず)が病弱で、四代・義持がずっと政治を執っていたのですが、この両氏が二人とも六代目をはっきりさせないままこの世を去ってしまったからです。
そこで困った幕府の重鎮たちは「ここは神様に決めていただこう」ということで、義持の弟たち四人の名前をくじに書き、岩清水八幡宮でくじ引きを行いました。
そこで選ばれたのが義教だったのです。

このせいで義教は「籤引き将軍www」などと揶揄されましたが、当時はこういう揉め事になった場合、神仏のご意志ということにして事を穏便に収めようとするのが常でした。
似たようなものとしては、信長が部下の代わりにやったことで有名な「火起請」や、熱湯の中の石を取り出して後日ただれた跡を調べるという「湯起請」なんかがあります。

どうでもいいですけど、何で熱いものばっかりなんですかね?

神道だと血はNGですから、血が出ない&死なない方法ということで選ばれたんでしょうか。中世ヨーロッパの魔女裁判でも似たようなことしてるところが興味深いです。あっちは「死んだら無罪! 死ななかったら有罪で処刑!!」ですけども。

すいません、話を室町幕府に戻しましょう。

 

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突然、暴君に変身!人心は離れ……

かくしてクジ運で将軍になった義教ですが、当初はともかく、しばらくすると暴君振りが目立つようになってきます。

大名の家督相続に口と手を出して、自分に従う者だけを当主に据えたり、比叡山と大ゲンカして僧侶24人が焼身自殺する騒ぎになったり、恐怖政治の見本のようなことをし始めたのです。
当然人心は離れ、それをカバーするためにますます義教は苛烈になるという悪循環--。当時のとある皇族が「万人恐怖」とまで書いているくらいですから、朝廷も庶民も戦々恐々としていたことでしょう。

そして義教の乱暴振りが、ついに赤松家にも及びます。
このとき赤松家の当主は満祐だったのですが、例にもれず義教に疎まれてしまっていました。代わりとでもいうのか、義教は赤松家にとっては分家筋に当たる貞村をひいきし、満祐の弟・義雅の領地を無理やり取り上げて、貞村に与えるという暴挙を働きます。

とはいえこの時点では、満祐は義教に愛想をつかして隠居しただけでした。

「次に粛清されるのは満祐だろう」という噂があったからだともいわれています。義教はホントに暴君の見本みたいな人で、あっちこっちの家の人を誅殺していましたので、完全にデマと言い切れないのがなんとも。

還俗間もない頃の姿とされる足利義教像/Wikipediaより引用

 

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屋敷の庭で馬が大暴れ その直後、義教の首が!

このころ関東では、義教がかつてブッコロした家の子供を奉じて結城家が反乱を起こし、幕府に敗れるという事件がありました。
義教から見ればめでたい戦勝ですから、京都ではお祝いの宴が開かれます。

赤松家を継いだ教康も、「我が家の池で鴨の子がたくさん生まれましたので、泳いでいるところを見においでください」とお誘いを出しました。
これまたどうでもいい話ですが、将軍はじめ武家の人々が揃って小さな鴨を愛でているところを想像するとシュールですね。いや、生き物を可愛がるのはいいことですけども。

将軍のお出ましということで、幕府のお偉いさんや公家の一部もお供して赤松家を訪れます。
そして皆で猿楽(能)を観賞していたところ、なぜか屋敷の庭で馬が大暴れし始めました。普通の人ならこの時点で嫌な気配を察知するところですが、元々短気な義教はイライラしていたので「何事だ!」と怒鳴るだけでした。

次の瞬間には甲冑を着た赤松家の武士たちが宴席に乱入し、義教の首が落ちたといいます。

 

「追っ手が来たら潔く自害しよう」

他の武家や公家も即死や重傷ののち死亡、負傷した人などがいたのですが、事件直後、赤松家側が「将軍を討つのが目的であって、他意はない」と告げて騒ぎは収まりました。
とばっちりでコロされた人たちが哀れ……と思いきや、ここに居合わせた人のほとんどは義教のおかげで当主になった人たちでしたので、大なり小なり恨みは買っていたでしょうね。

ここでちょっとお間抜けな行き違いが起こります。
諸大名は「これほど大それた事をやらかすには、きっと協力者がいるに違いない」と考えたので、誰がそうなのかを見極めようと、すぐには行動を起こしませんでした。
しかし、実際には赤松家単独で行った計画だったので、いつまでたっても裏切り者が見つかるわけはありません。

そして満祐ら赤松家の人々は「追っ手が来たら潔く自害しよう」と考えていましたが、来る気配がないので「じゃあ国元に帰って戦う準備ができるな!」と方針を変えました。義教の首を掲げ、隊列を組んで正面から堂々と京都を跡にしたそうです。
この時点では妨害する者も後を追おうとする者もいなかったといいますから、いかに義教に人望がなかったかがわかりますね。世に「暴君」と呼ばれる人は数多くいますが、だいたい一人か二人くらいは忠臣がいるというのに(´・ω・`)

 

幕府もヤル気なしで一向に進まない

翌日になってようやく幕府では会議が開かれました。

が、次の将軍を義教の息子・義勝にし、義勝の引越しを進めただけで、赤松家追討の軍は依然として編成されません。
あまりに義教が権力を握っていたので、管領などの重職でも他の大名を従わせることができなかったのです。gdgdにも程があるやろ。

こんな感じだったので、赤松家の人々は無事に所領の播磨(現・兵庫県)まで帰ることができました。そして幕府軍が来る前に尊氏の息子の養子の孫という「もうそれ一般人じゃね?」な人物を見つけ出して担ぎ上げています。ちなみにこの間一週間くらいです。
この手際のよさからして、いっそ赤松家が将軍になってもいいんじゃないかと思ってしまいますが、残念なことに、この後、大差なくなります。

満祐は「義教がアレだったし、この混乱に乗じて他の家も幕府へ反乱を起こすに違いない」と考えていたようなのです。上記の通り幕府軍ですらトロかったので、他の大名も様子見をするばかりだったのですが……。

 

最初の一言が「義教様の首を返せ!」

満祐は積極的に工作をするでもなく、他の大名が動くのを待っている間、遊びまくっていたといいます。
「この主にしてこの部下あり」ってとこですかね……。

さらに、京都では赤松家討伐軍が組まれたにもかかわらず、なかなか進軍しようとしなかったため、兵が焦れて京都の町人から物やお金をぶんどるというサイテーな事件が起きました。な、なにを言っているのか(ry
普通これだけgdgdだったら、この時点で室町幕府に対する大反乱が起きててもおかしくないところ、どういうわけかあと25年ほどはこのまま行くんですよね……。まさに事実は小説より奇なり。

幕府軍が赤松家の勢力圏内に着いたら着いたで、真っ先に赤松家へ言ったのは

「義教様の首を返せ!」

いやそれも大事なんですけども、普通「将軍様を弑するとはけしからん! 今降伏すれば命だけは助けてやろう!!」とか言うところじゃないんですか(´・ω・`)

上記の引越しの件も含め、この辺の幕府側の行動はものすごく「そうなんだけどそうじゃない」感がします。
一説には、当時の管領だった細川持之が赤松家に味方していたからでは? とも言われていますが、はてさて。

 

室町幕府衰退のキッカケになったのにグダグダ過ぎて……

一方、幕府の別働隊は真面目に働いていて、先に戦闘を始めていました。
本軍のほうは相変わらずgdgdが続きで、将軍暗殺から一ヶ月以上も経った8月になってからやっと「赤松のヤツらがけしからんので、公的にブッコロす許可をください」と朝廷へお願いしています。

お許しはあっさり出たのですが、公家の間では「武家同士でのケンカに見えるんですけど、それ私たちが認めることなんですかね?」と反対意見もあったとか。そりゃそうだ。

そして8月中旬にようやく本軍も赤松家と戦闘に入り、一ヶ月弱の間、各地で攻防戦を展開。途中、赤松家が担ぎ上げた人が降伏してしまっていたり、こっちもこっちで相変わらずgdgdでしたので仕方ありません。

そして9月10日、満祐は一族を逃がし、すべての責任を取る形で切腹。嘉吉の乱はここに終結したのでした。

というわけで、室町幕府が傾き始めたというそれなりに重要な出来事にもかかわらず、これほどgdgdなのもそう多くはないだろうと思われる一件です。

日本史の授業で出てくるので、多分「嘉吉の乱」という単語をご記憶の方はそれなりにいらっしゃるかと思うのですが、イマイチ印象が薄い上、歴史好きの間でもめったに話題にならないのは、このgdgdぶりのせいなんでしょうね。普通クーデターとか暗殺事件とか創作の絶好のネタだと思うんですが、それもあまり聞きませんし。

記事としてもオチをつけにくく、もしかして作家先生方たちも取り扱いかねているんでしょうか……。

長月 七紀・記

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参考:嘉吉の乱/Wikipedia

 

 





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