平城京

平城京大極殿

飛鳥・奈良・平安

平城京(奈良の都)ってどんなトコ? 田畑の下にある遺構は今なお発掘中

2021/03/10

盛者必衰は歴史の運命さだめ

「滅びたわけではないのに、自然と寂れていった……」というケースも多々あります。

本日はその一つ。誰もが一度は覚えるあの場所に注目してみました。

和銅三年(710年)3月10日は、平城京に都が遷った日です。

その前は藤原京。

その後の平安京については以下の別記事をご参照していただくこととして、

平安京
794年の遷都から始まった平安京|当時の街並はどんな風に区画整理されていた?

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今回は奈良の平城京に注目したいと思います。

ただし、今日まで形が残っている部分も多い平安京に対し、平城京はまだ発掘調査中でアヤフヤなところもあるのですが……。

 


平安京と違い、東側に大きな外京が張り出している

平城京も中国の都をモデルとして作られたものなので、基本的には長方形かつ、碁盤の目状に町並みが広がっていました。

しかし、一部凸凹があり、正確な(?)長方形ではありません。

東側には「外京」と呼ばれる、大きく張り出したような部分もあります。

もし平城京と平安京の図を出されて「どちらが平城京か答えよ」なんて問題がテストに出たとしたら、点数を稼ぐチャンスですね。

平城京条坊図/photo by Wikiwikiyarou Wikipediaより引用

 


平安京と同じく朱雀大路を中心に

道の作りは平安京とほぼ同じ。

平城宮(皇居&政庁)から南へまっすぐ伸びる朱雀大路、東西に都を横断する大路が北一条・南一条から十条までありました。

朱雀大路の両サイドにも大路が作られていましたが、平安京と違ってそれぞれに固有名詞はついていなかったようです。

不思議な事に、朱雀大路のすぐ外側両サイドが「一坊」、さらにその外側を「二坊」というように、左右で同じ名前がついています。

「左京一坊」とか「右京二坊」と呼んで区別していたとか。

以下は平安京の全体図になります。

平安京/photo by 咲宮薫 Wikipediaより引用

ちなみに平城京から長岡京を経て平安京へ遷都した後、以来、京都が「千年の都」となるわけですが、一度、平城京へ戻されようとしたことがあります。

平城上皇が復権を狙って平城京への遷都を宣言し、嵯峨天皇に止められた政治事件。

それが【薬子の変】ですね。

薬子の変
薬子の変は薬子が平城上皇を誑かしたから?平城京で一体何が起きていたのか

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東大寺をはじめ薬師寺など有名寺院がずらり

平城京=奈良といえばやはりお寺の存在感が大きく、中でも「南都七大寺」と呼ばれるものが有名です。

外京にはそのうち、藤原氏の氏寺・興福寺や、「奈良の大仏」で有名な東大寺、蘇我馬子が開基したお寺の後身・願光寺があります。

戦国時代の大寺院
興福寺・延暦寺・本願寺はなぜ武力を有していた? 中世における大寺院の存在感

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左京にはなぜか大安寺しかないのですが、右京には東大寺と対となる位置に西大寺、「薬師三尊像」で有名な薬師寺があり、なんとなくバランスが悪い感じがしますね。

また、失明しながらも来日した僧侶・鑑真の開基で知られている唐招提寺も右京にあります。

こういった大きなお寺は概ね宮殿を囲むような位置にあるので、そういった意図で建てられた可能性もありますね。

模型で復元された平城京/photo by Wikiwikiyarou Wikipediaより引用

これだけ多くの建築物を作ったり、道路を整えるには、それ相応の資材も必要でした。

では資材はどこから供給したのか?

その供給場所として選ばれたのが、現在の滋賀県大津市南部にある田上地区です。

近辺には良質なヒノキがたくさん植わっていて、川を使って新都造営予定地まで運べるということから、木材の調達に選ばれたのでした。

しかし、平城京造営のためにかなり思い切って伐採したらしく、木がなくなったことで田上山付近は洪水が頻発するようになってしまったのだとか……。

江戸時代あたりから植林を本格化させ、明治時代にはお雇い外国人のオランダ人技術者が携わったにもかかわらず、なんと現在に至るまでハゲ山状態のところがあるそうです。どんだけー。

今は今でゴルフ場のためにガンガン山を切り開いたりしているので、航空写真で見てもどの辺が平城京造営時にハゲてしまったのかがわかりにくいのですが、スケールのデカさだけはうかがえます。

 


平安京へ遷都した後、田んぼや畑にされてしまい

上記の通り、平城京はまだ発掘中です。

しかし、エジプトなどのように砂塵に埋もれてしまっただとか、ローマその他の古代都市のように埋め戻されたわけでもないのに、平城京を「発掘」しなくてはならない……というのはちょっと妙な気もしますね。

それはなぜなのか?

実は、平安京に遷都された後、平城京はほとんど田んぼや畑にされてしまっていたのです。そりゃあ遺構が土の下に埋まってしまうわけですよね。

そんなこんなで今も研究者の手によって発掘が進められているわけですが、復元されている建築物もいくつかあります。

儀式場だった「第一次大極殿」。

平安京にもあった「朱雀門」。

外京の南半分側にあったとされる皇太子の宮殿(の庭)「東院庭園」。

いずれも中々の迫力で再現されており、他にも発掘現場そのままの状態を見ることができる「遺構展示館」などもあります。あちこちに点在しているので全部まわるのはなかなか骨が折れそうです。

どうせなら、古の都を復元するのと同時に、その礎となった山の回復も推し進めてもらいたいものですが……そううまくはいきませんかね。学術調査だけでも相当なお金と時間がかかるものですから。

どこかの企業や資産家がポーンとお金を出して、発掘と観光客誘致をまとめてやってくれたらいいんですけどね。

奈良は歴史がある町の割に交通の便で損をしていますし。


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【参考】
国史大辞典
平城京跡Quick Guide
国営平城京跡歴史公園/国土交通省
平城京/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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