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細川勝元/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

細川勝元から見ると『応仁の乱』はわかりやすい! ベストセラーで話題の大戦をサックリ解説

更新日:

争いの発端は、ときに第三者から見ると信じられないほど馬鹿馬鹿しいものだったりします。
怒りに我を忘れたり、欲のぶつかり合いで互いを罵ったり。ひとつひとつの理由は小さくても、積み上がってシャレにならない大きさから戦争へ……なんて最も避けたい愚行でありますが、本日はその中でも話がこじれまくった、あの内乱当事者のお話です。

文明五年(1473年)5月11日は、室町幕府管領・細川勝元が亡くなった日です。

ベストセラーで話題になっている『応仁の乱』(著:呉座勇一)の一方の当事者として、そして戦国時代が始まる遠因になった人物の一人として有名ですね。
一体どのような経緯でそんなことになったのか。
今回は細川勝元さん視点で振り返ってみましょう。この複雑で難解な戦いは、もしかしたら片方にスポットを当てて見た方がわかりやすいかもしれません。

応仁の乱/Wikipediaより引用

 

幼名は聡明丸……聡明って?w

勝元は永享二年(1430年)、第十四代室町幕府管領・細川持之の嫡男として生まれました。
幼名は聡明丸と言いまして……後々彼がやったことを考えると聡明どころか「名は体を表すの真逆」感がゲフンゴホン。

嘉吉二年(1442年)に父が亡くなったため、13歳で家督を継承。これは六代将軍・足利義教が暗殺された「嘉吉の乱」の翌年でもあります。
「勝元」の名は、七代将軍である足利義勝から「勝」の字をもらったものです。
幼いながらに、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を務めました。

16歳のとき管領に就任し、時にその地位を降りながらも、生涯室町幕府と日本史に影響を及ぼすことになります。
さて、応仁の乱のもう一人の当事者といえば、先日取り上げた山名宗全です。

あんな大乱を起こすような対立をした者同士ですから、さぞ当初から仲が悪かったのだろうと思いきや、当初はそうでもありませんでした。
宗全と勝元には親子ほどの年の差がありましたし、勝元は宗全の養女を正室に迎えています。

しかし、度重なる政治的な対立によって、応仁の乱が引き起こされていきました。

この辺は同時進行になっているできごとが非常に多くてややこしいところなのですが、今回は時系列ではなく、
◯お家騒動に関する各家の事情(赤松家・畠山家・斯波家)
◯財力を巡る対立
◯養子の扱い
の3項目ごとにマトメて見てみましょう。

 

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赤松家・畠山家・斯波家 それぞれの事情

まず、お家騒動に関する「各家の事情」は以下の通りです。

◯各家の立場>赤松家のケース

「四職」と呼ばれる室町幕府のお偉いさんのひとつであり、嘉吉の乱の首謀者の家です。当時の当主・満祐は既に世を去っていて、赤松家は大名としては滅亡同然になっていました。
しかし、勝元は満祐の弟の孫である正則を当主として、赤松家を再興させてしまいます。
これに宗全は大反対でした。嘉吉の乱の後、赤松家を始末したのは宗全なので当たり前です。

再興させてもらったことを感謝していたかどうかはわかりませんが、正則は後々勝元方の尖兵のような形で、応仁の乱の最初期に宗全方を攻撃することになります。
宗全からすれば「だから嫌だと言ったのに!」とキレたいところだったでしょうね。

◯各家の立場>畠山家のケース

畠山家も、「三管領」と呼ばれる室町幕府のお偉いさんの家です。この頃は当主・持国の息子である義就と、持国の甥っ子である政久が対立していました。

元はといえば、義就が生まれる前、持国は政久の父・持富を跡継ぎにしていたのです。
しかし義就が生まれたため、持富は跡継ぎの座を取り消されてしまいました。持冨は聞き分けの良い人だったらしく、不平を言わなかったのですが……。
持冨の死後、家臣たちの一部が「本当は持冨様が家督を継ぐはずだったのに! こうなったら息子である政久様を当主にしなくては!」と意気込んでしまったために、お家騒動が始まってしまいます。

これに対し、勝元も宗全も当初は政久を支持していたのですが、数年後に宗全が義就に鞍替えしました。
政久が亡くなったため、勝元はその弟である政長を支持し、お家騒動が続きます。
後々、室町将軍の足利義政から「二人とも畠山家からは手を引くように」といわれて引っ込んでいますが、対立のきっかけの一つになったことは間違いないですね。

◯各家の立場>斯波家のケース

斯波家も「三管領」のひとつに数えられる家です。
ヘマをして追放同然になった前の当主・義敏と、義政によってその後釜に据えられた遠い親戚・義廉が対立していました。
ここについては、勝元は義敏、宗全は義廉を支持しています。
見方を変えれば、「勝元は義政に逆らい、宗全は義政の決定を重んじた」ともいえますね。
応仁の乱勃発頃に、宗全は義政にゴリ押しして義廉を管領職に就けているので、そのためだったかもしれませんが。

 

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明との貿易、養子問題……ドコでもぶつかる勝元と宗全

では、残り2つのポイント
◯財力を巡る対立
◯養子の扱い
もマトメておきましょう。

○財力を巡る対立

この頃、西国大名の多くが明(当時の中国)と貿易を行い、大きな利益を得ていました。
勝元はこれに注目し、「どうにかして大内家の領地とカネをぶんどりたい」と考え、その手始めに伊予(現・愛媛県)の大名・河野氏を攻めます。
ここも内紛を起こしていたので、勝元がその一方に手と口を出した形でした。
が、もう一人の当事者が宗全の娘婿だったために、宗全にケンカを売るも同然になってしまいました。

○養子の扱い

まだ宗全と対立していなかった頃、なかなか息子に恵まれなかった勝元は、宗全の末子・豊久を養子に迎えていました。
が、その後、自身の実子・政元が生まれたため、豊久を廃嫡して仏門に入れるという暴挙を働いています。
これでは、宗全が「あの野郎(#^ω^)」と思うのも当たり前ですよね。

乱暴に一行でまとめると「勝元と宗全は、他家のお家騒動(×3)・カネ・養子のあらゆる面で対立していた」ということになります。

こうしてみると、勝元が宗全にケンカを売り続けた感がありますね。宗全もいろいろ強引なことをやっているので、一方的な被害者というわけではありませんが。

 

同時に足利将軍家でも跡取り問題が勃発しており

もちろん(?)これらと同時進行で、足利将軍家でも義政の弟・義視と義政の息子・義尚の対立が起きています。
誰か、こいつらの前で十七条の憲法でも読み上げてやれ……といいたいところですが、馬ならぬ室町武士の耳に念仏ですかね。

こうして「どこもかしこもお家騒動の真っ最中、かつお互いに口と手を出したがる」というカオスな状況の中、最初に畠山家が炎上(物理)します。
「御霊合戦(ごりょうがっせん)」または「上御霊神社の戦い」と呼ばれる軍事衝突が起きてしまったのです。

この内紛に対し、宗全は義就を支援しました。しかも後花園上皇・後土御門天皇を確保した上で、というあくどいやり口です。
勝元はこの頃、義政から「お前は畠山家に首を突っ込まないように」と命じられていたので、どちらにもつくことはありませんでしたが、そのうち「宗全が皇室を盾にするなら、こっちは幕府を味方につけてやる」とでも思ったのか、数ヶ月後に幕府を占領して、宗全にケンカを売ります。

こうして本格的に応仁の乱が始まってしまい、勝元方は東軍、宗全方は西軍と呼ばれるようになりました。

 

宗全が死んだ! そして勝元もすぐに死んだ! 一体なんだったんだ!

勝元は義政から宗全追討令を受けたり、後花園上皇・後土御門天皇を救出したり、(一応)大義名分を持っていました。

戦況も東軍有利でした。
が、そもそも戦場が京都市中ということもあり、決定的な勝利を収めることが難しいまま時が流れていきます。
やがて京都では政争が主体となり、市中での戦闘は行われなくなりました。

代わりに(?)それぞれの派閥を支持する地方の武将たちがあちこちで戦をおっぱじめ、戦国時代に突入・拡大していくわけです。

勃発から5年経った文明四年(1472年)に勝元は宗全に和平を持ちかけましたが、見事に失敗しています。
翌年に宗全は亡くなりましたが、その2ヶ月後に勝元自身もこの世を去りました。二人とも伝染病だったとか、暗殺されたとかいろいろな説があって、死因は確定していません。
あの世で宗全に「ねえどんなきもち? 宿敵が死んだと思って安心してたのに自分もすぐ死んだってどんなきもち?www」(※イメージです)って言われたでしょうね。

勝元の死後、嫡子・政元が親戚の政国に後見され、細川家の家督を継承しました。
そして、文明六年(1474年)に宗全の孫・山名政豊と和睦を結びます。

ちなみに細川政元はその後、「修験道の教えに従い独身を貫き、それでいて養子を三人迎える」というワケワカメな行動を取って、後継者争いに始まる戦乱を招き、再び京都周辺を巻き込んでいきました。トーチャンが、どうやってゴタゴタに発展したか、学ばなかったんかい(´・ω・`)

挙句の果てに政元は「修験道にハマり空をとぼうとした」という経歴の持ち主で。こちらの詳細は関連記事を御覧ください。

長月 七紀・記
【関連記事】
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参考:細川勝元/Wikipedia





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