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その日、歴史が動いた 欧州 WWⅡ

10万人ものユダヤ人を救ったラウル・ワレンバーグ 今なお行方不明のまま……

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歴史の悲劇とは、往々にして繰り返されてしまうものなれど、ときに悲しみの中から英雄が生まれてくることもあります。
今回は悲惨な戦争と自らに迫る危機の中、人道的活動に終始した”英雄”のお話をご紹介します。

1912年(大正元年)8月4日は、スウェーデンの実業家で外交官のラウル・ワレンバーグが誕生した日。オスカー・シンドラー杉原千畝などと同じく、第二次世界大戦中、一説には10万人ものユダヤを人を救ったタフガイです。

スウェーデン語読みでは”ラオル・グスタフ・ヴァッレンベリ”だそうですが、英語読みのほうで統一させていただきます。

 

米ミシガン大学で建築を学んだ後、ユダヤ人貿易商のもとで成功

ラウルは、ストックホルムの東にあるリーディング島で銀行家一族の一人として生まれました。
父親は彼が生まれる数ヶ月前に亡くなったため、母・マイは父と同じ名前を息子につけたのだそうです。欧米圏ではよくある話ですね。

健在だった祖父・グスタフの薫陶を受けて育った彼は、高校を主席で卒業した後、一度兵役に就いてからアメリカ・ミシガン大学で建築を学びます。

帰国してからは「世界を見てほしい」という祖父の意志により、南アフリカやパレスティナで貿易商・銀行家として働く毎日。
また、26歳のときにはユダヤ系ハンガリー人貿易商コロマン・ラウアーの右腕となり、成功を収めました。

こうしてユダヤ人との繋がりを複数得たラウルが、1942年に「ユダヤ人問題の最終的解決」計画を発表したナチスドイツに反発するのは当然の成り行きでした。

ユダヤ人を支援していたのはデンマークやブルガリアなど、ごくわずかな国だけ。

ほとんどの国がこの非道な計画をスルーしておりましたが、いくらナチスが隠蔽しようとも噂は流れるものです。徐々に残虐行為の実体が明らかになると、アメリカにも伝播していきました。
そして1944年に入り、再選を目指したルーズベルト大統領がチョビ髭ヒトラーのユダヤ人政策を公に批判するようになりました。

その一環として「戦時亡命者委員会」が作られ、ユダヤ人保護に動き始めます。

 

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ナチスがハンガリーを占領するとブタペストへ飛び……

ルーズベルトのユダヤ人保護が、博愛主義とか人道的観点からの行動ではなく、選挙前の人気取りだったことは、彼が日本人に対して強い蔑視・差別感情を抱いていたことからも間違いなさそうです。

当時の日本とアメリカも敵同士とはいえ、アメリカ軍屈指の戦闘能力と実績を持つ日系人部隊・第442連隊戦闘団について、ルーズベルトは半分使い捨てと思っていたフシがありますし、日系人の強制収容も行われていましたからね。
ルーズベルト自身にも障害があり、差別される側だった可能性もありますので、より格下を見つけることで自尊心を保っていたのかもしれません。

そんな中、1944年3月にチョビ髭ドイツ軍がハンガリーを占領します。
親独派のハンガリー首相ストーヤイ・デメは、ドイツの方針に賛成し、国内のユダヤ人移送などの弾圧を始めました。

これに対応すべく、戦時亡命者委員会は、現地で動ける人材を探しはじめ、中立国のスウェーデンに打診します。
そしてスウェーデンがハンガリーのユダヤ人社会に意見を聞いたところ、その中にラウルの上司だったコロマン・ラウアーがいたため、ラウルにお鉢が回ってきたというわけです。

ラウルもハンガリーの状況に心を痛めており、これは願ったり叶ったりというところでした。

外交官特権をもらうことと引き換えに、ラウルは1944年7月、ハンガリーの首都・ブダペストへやってきました。
彼はスウェーデン名義の”保護証書”という間に合わせの書類を発行・配布することにより、ユダヤ人たちがスウェーデンの保護を受けることができるようにしたのです。

法律的には全く意味のないものでしたが、チョビ髭党がマニュアル通りの書類仕事を重視することを逆手に取る作戦。ドイツ軍が書類処理をしている間にユダヤ人たちを逃してしまおう、というわけです。

 

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ナチス親衛隊を相手にしても全く怯まずユダヤ人を救出

ラウルは直接ドイツ軍と退治したときも、全く尻込みしませんでした。

ある時「多くのユダヤ人が貨物列車に積められ、ブダペスト駅から国境へ送られる」という話が彼の耳に入ったことがありました。この場合の「国境」は収容所を意味するも同然です。国境を超えた後のことはわかりませんからね。

そのため、ラウルは直ちに駅へ向かい、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、多くのユダヤ人を開放したのです。

他には、”セーフハウス”といわれる家をいくつか設置し、スウェーデンの外交官特権で保護することによって、ユダヤ人の避難所としています。

そして、ラウルがブダペストにやってきて3ヶ月めの1944年10月。ドイツ軍によってハンガリー政府が倒され、反ユダヤ主義政権が作られます。
ハンガリーでのユダヤ人迫害がなかなか進まないことに業を煮やしたチョビ髭党は、この計画の中心人物であるアドルフ・アイヒマンを送り込みました。

これによりハンガリー国内のユダヤ人迫害が加速化し、数十万単位のユダヤ人が収容所に送られてしまいます。

ちなみに、このころ既にドイツ軍はスターリング攻防戦で敗北し、連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させていました。
つまりドイツが確実に追い詰められていたわけですが、なぜ、そんな状況でユダヤ人迫害に血道を上げるのかがサッパリわかりません。別にチョビ髭党に勝ってほしかったわけではありませんが、その分の人員や物資が無駄でしかなかろう、と。

ちょっと前までハイパーインフレで素寒貧どころじゃなかったのに、なぜ西部戦線・東部戦線・ユダヤ人迫害の三正面作戦をやって全てに勝てる(成功する)と思えたのか。
日本の統計と同様、ドイツの統計もアテにならなかったのでしょうね。

 

ユダヤ人保護を話し合うためソ連軍指導部へ出向いたが

ラウルは諦めず、アイヒマンの就任後もハンガリー各所で「ユダヤ人が移送される」という話を聞きつけては急行し、保護証書を配ったり、ドイツ軍の責任者に金を掴ませて移送をとりやめさせたりしました。

当然、ドイツ側にとって邪魔者・目の上のたんこぶ・鬱陶しい存在でしかありません。
そのため、彼の身にはたびたび危険が迫るようになったといいます。

アメリカやスウェーデンも、一個人にこんな危険な任務を与えるくらいなら、護衛の一人や二人つけるべきですよね。
というか、本当は護衛が付いていても、24時間は守れなかったとか、そういうことなんでしょうか。

かくしてラウルが決死の行動を続けている最中、1945年にソ連軍がブダペストへ侵攻し、ドイツ軍を駆逐。
『これでユダヤ人迫害も終わるだろう』
と考えたラウルは、同年1月16日、「今後のユダヤ人保護」について話し合うため、ソ連軍指導部へ赴いたといわれています。

そしてそのまま、行方がわからなくなってしまいました。

彼の消息は2017年現在も不明です。
有力なのは「ソ連秘密警察にアメリカのスパイ容疑で逮捕され、強制収容所へ送られた」という説です。

1957年に、当時のソ連外務次官がスウェーデン大使に「ラウル・ワレンバーグがソ連国家保安委員会の刑務所で心筋梗塞のため死亡した」と公式に通知したそうです。
しかし証拠が全くなかったため、解決とはみなされませんでした。

 

2016年にスウェーデン政府も死亡を認定した

それから三十年近く経った1986年、ゴルバチョフ政権のグラスノスチ(情報開示)によって多くの機密資料が解禁されます。

その中に「ラウル・ワレンバーグが1947年7月に収容所で病死した」とする資料が含まれていました。これ以降、ラウルの遺品返還や彼の行方に関する調査、公的名誉回復が行われます。

1996年にはイスラエル政府からヤド・ヴァシェム賞が贈られ、「諸国民の中の正義の人」の一員となりました。

その一方で、1947年以降の目撃情報もあるらしく、まだ調査が続けられています。
また、2010年4月に、「ラウルが死亡した」とソ連当局が発表した6日後に「囚人第7番」と呼ばれる男性の尋問録が見つかっています。内容からしてこの人物がラウルではないかといわれているそうなのですが、まだ調査中のようです。
写真はついていなかったんですかね。お得意の“紛失”でしょうか。

これらの事情があってか、スウェーデン政府がラウルの死亡を正式に認定したのは2016年のことです。

今も彼に救われたユダヤ人たちを中心に「国際ワレンバーグ協会」が設置され、捜索が続けられているが、まだ成果は上がっていないようですね。
ロシアもこういうことに積極的に協力すれば、少しは国際的信用が上がるでしょうに。

ラウルの母は再婚していましたが、1979年に夫婦揃って服薬自殺してしまわれたそうです。
姪(妹の娘)であるナーネ氏が存命中とのことなので、せめて彼女が生きている間に、ラウルの行方がわかればいいのですが。

長月 七紀・記

杉原千畝はいかにしてユダヤ人1万名を救ったか? 第二次世界大戦で命のビザを発給し続けた異例の外交官

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参考:ラウル・ワレンバーグ/wikipedia

 





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