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保元・平治の乱合戦図屏風/wikipediaより引用

源平 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

保元の乱を分かりやすくするには【平安時代版・関が原の戦い】と考えれば良い!?

更新日:

戦の話は歴史の中でも人気の高い話題です。

ただ、細かいところまで理解するのはなかなか難しいもので、特に戦になるまでの人間関係や政治的対立などがややこしくて……。

ところが、です。
それらを一つずつ紐解いていくと、人間らしさや「それ、別の時代でも似たようなことあったよね?」といったことが見えてきて、段々と面白くなってくるのですから、やっぱり歴史は、最初に流れをシッカリ掴んでおくのが肝要。

今回は、日本が「武士の世」になっていくキッカケの一つ【保元の乱(1156年)】を見ていきます。

 

皇室の対立に源平や藤原氏が絡んでややこしや

保元の乱とは何なのか?

ものすごく乱暴にいうと、
平安時代版・関が原の戦い(※ただし舞台は京都市内)」
という感じです。

関が原の戦いは有名ですが、一応、一行で説明しておきますと、
「豊臣政権の中で徳川家康石田三成が対立し、そこに他の大名が東西に分かれて参戦した」
という一連の合戦ですよね。

これが保元の乱になりますと
「皇室の中で上皇と天皇が対立し、他の勢力(摂関家と清和源氏・伊勢平氏)が敵味方に分かれて参戦した」
戦いとなります

中心となるのが皇室の対立。
そこにいろんな武家や貴族が乗っかってきたワケです。

時代が違いすぎるためか、関が原の戦いと、あまり比較されることはありませんが、「当時の(名実ともに)権力者に、他の家が一族内で敵味方に分かれて味方した」というところは似ているかと思います。

こうなると、
「んじゃ、平治の乱はどうなの?」
と思うかもしれませんが、こちらは明日あらためて記事を公開させていただきます。

というわけで、まずは皇室・源平・摂関家、それぞれの対立についてみていきましょう。

 

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【皇室内での対立】

まず対立したのは【後白河天皇vs崇徳上皇】です。
唐突すぎてわかりづらいと思いますので、そうなった状況から説明して参りましょう。

乱が始まる前、治天の君(天皇・上皇・法皇の中で、実際に政治を行う人)だったのは鳥羽法皇でした。
その時点で、次代の崇徳上皇もおりましたが、院政は基本的により古い世代の人が行うので、権限は鳥羽法皇に集中しております。

そもそも崇徳上皇は天皇として在位中から父・鳥羽法皇に冷遇されておりまして。

現代で崇徳上皇というと
「史上最強の怨霊」
などと呼ばれることもあり、どんだけ恐ろしい人物だったの?と思われがちですが、少なくとも生前は穏やかな人物です。

崇徳天皇/wikipediaより引用

にも関わらず、なんで父・鳥羽法皇から嫌われてしまったのか?
というと、理由は定かではないながら、俗説として
「崇徳上皇の母である待賢門院・璋子が白河法皇の寵妃だったため、鳥羽法皇は崇徳上皇のことを『叔父子』と思い込んでいた」
からだとされています。

要は、鳥羽法皇が「自分の子じゃない」と思いこんでいたという説ですね。
事が事だけに真偽が明らかになることはないでしょう。ただ、そうでもないと説明がつかないような冷遇ぶりで、まことしやかに語られている……と。

その辺の詳細は以下の記事をご覧ください。

鳥羽上皇の院政時代に何が起こったか? 長男・崇徳天皇に冷淡なのは実子じゃないから!?

一方、崇徳上皇の対立相手となったのは後白河天皇

彼は、鳥羽天皇の息子で、最終的には
【崇徳上皇(兄)vs(弟)後白河天皇】
という対立構造となります。

詳細は後述しますが、この2人が中心人物(関が原で言えば【石田三成vs徳川家康】)となりますね。

第74代 鳥羽天皇(父)
(1107-1123年)

第75代 崇徳天皇(兄)
(1123-1141年)

第76代 近衛天皇(弟)
(1141-1155年)

第77代 後白河天皇(弟)
(1155-1158年)

 

【清和源氏と伊勢平氏】

保元の乱をややこしくしているのは、むしろ皇室の兄弟対立ではないでしょう。

実は、これより90年ほど前に起きていた
前九年の役
後三年の役
あたりに遠因がありまして。

※前九年と後三年につきましては、それぞれリンク先に詳細記事がございますので、よろしければご確認を

上記の合戦の結果、清和源氏が東日本の豪族から絶大な支持を得ました。
後に源頼朝らを輩出する源氏の名門一族です(正確には、清和源氏の一派の河内源氏とも呼ばれますがここでは割愛)。

ともかく源氏といえば平氏。
その構図はここから生きていて、桓武平氏の流れをくむとされる房総平氏(千葉氏や上総氏)の中で、清和源氏の傘下に収まることを嫌い、伊勢に移ったのが伊勢平氏です。

伊勢平氏は白河法皇の皇女の供養のために領地を寄進したり、源義親の討伐を行って地位と名声を得ました。

当然、清和源氏と伊勢平氏はお互いのことをよく思っていません。
とはいえ、それぞれの家で一枚岩というわけでもありません。特に源氏は、お家芸と言えるぐらいに内輪揉めが多いのです。

例えばこの時期も複数の内ゲバ(内輪揉め)を起こしておりまして。
西では源為義の末子・為朝が暴れて為義が解官され、東では源義朝の子・義平が叔父・義賢に攻めこんでおり、義賢に援助すべく弟の頼賢が関東に下るというメチャクチャぶりでした。

これも長くなるので、それぞれの詳細については過去記事へどうぞ。

源平時代の最強武士は源為朝でOK? 身躯2m超の暴れん坊が遺した豪快伝説とは!?
源義賢(源頼朝の叔父さん)が内ゲバで殺害される~源氏一門、不幸の連環

こんなことばっかりしてるから後々北条氏に乗っ取られるんやでぇ(´・ω・`)

 

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【摂関家(藤原氏)内の対立】

朝廷と源平。

さらにそこに絡んでくるのが、藤原氏の摂関家です。
摂政・関白を輩出する、藤原家の中でも名門とされる一族ですね。

実は彼ら、院政前後から落ち目でした。

摂関家を直接外戚に持たない(血のつながりが薄い)後三条天皇の時代から、天皇や上皇等による政治が始まったのですね。

彼らにとって頼るべきは【摂関の座】。
権力を再びこの手に!というわけで結束すればよいのに、藤原氏の中でも対立構造が起きてしまいます。

この頃、藤原氏にとっては幸いなことに、藤原忠実の娘・泰子(高陽院)が鳥羽法皇の妃として入っており、希望はありました。

一方で、ときの関白・藤原忠通は男子に恵まれず、異母弟の頼長を養子とし、跡を継がせることにします。

そこで、超ありがちな問題が起きます。
忠通に実子(基実)が生まれてしまい、忠通は弟の頼長ではなく我が子に直接家督と摂関の座を譲りたがるのです。

弟よりも息子。しかも異母弟ですから、特に対立しやすい構造でした。

これによって、摂関家の中でも
【忠通(兄)vs忠実(父)&頼長(弟)】
という構図ができるのです。

両派とも自分の養女を入内・立后を狙い、対立は深まる一方。
そして、久安六年(1150年)9月、忠実が実力行使に出ます。

藤氏長者(藤原氏全体の当主)に伝わる宝物を、屋敷ごと忠通から取り上げて頼長に与えたばかりか、忠通を勘当してしまったのです。
うはぁ!

当然、治天の君(権力者)である鳥羽法皇のところへ苦情が行きました。
が、鳥羽法皇は「忠通は関白に、頼長は内覧に」というワケワカメな対処をします。

関白は成人した天皇の相談役、内覧は天皇に提出される書類にあらかじめ目を通す役職です。
当然、関白と内覧には仕事が被る面があるため、同時に置かれることはまずありませんでした。

つまり、仲裁を頼んだつもりが余計こじれてしまった……というわけです。

どうしてこうなった/(^o^)\

 

流れで後白河天皇の誕生

・皇室
・摂関
・源平

こうした3つの勢力の中で、権力争いが複雑に絡み合う中、事態はにわかに動き始めます。

崇徳上皇の弟である近衛天皇が久寿二年(1155年)に崩御したのです。
近衛天皇には実子がおらず、鳥羽法皇の寵妃・美福門院の養子となっていた二人の親王のドチラかが次代の天皇と目されておりました。

一人目は崇徳上皇の皇子・重仁親王。
もう一人が崇徳上皇の弟かつ近衛天皇の兄である雅仁親王の皇子・守仁親王です。

そして、最終的に後者が選ばれるのですが、
「父の雅仁親王が存命中なのに、世代をすっ飛ばして子の守仁親王というのはどうなのよ?」
ということで、中継ぎのような形で雅仁親王が即位します。

雅仁親王こそが後白河天皇なのです。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

この一連の流れには、後白河天皇の乳父・信西と、摂関家の藤原忠通が関わっていたとされます。

これまた俗説なのですが、鳥羽法皇や美福門院は、
「藤原頼長が近衛天皇に呪詛をかけて殺したのだ」
と信じ込んでいたのだとか。

頼長はあらゆる意味で赤裸々な日記「台記」で有名な人でもありますが、その他にも敵を作りやすいタイプだった上、この頃は崇徳上皇に近づいていました。
こういうとき、日頃の行いが響いてきますね……。

一方、崇徳上皇からすると、弟が二人続けて即位したことになるわけです。

これでは院政はできませんし、自分の皇子が即位できない=自分の血統が皇室に残らなくなってしまったことにもなります。

それまで崇徳上皇は、鳥羽法皇から受けていた冷遇に対する不満を、和歌などの芸術に打ち込むことでどうにかやり過ごしていたが、さすがにこれは自分でうまく昇華できなかったようです。

また、この頃に【久寿の飢饉】が起きており、周辺地域から仕事や食料を求めて京に入ってくる流民が多く、政争とは関係ない一般人にも暗い雰囲気が漂っていました。
当時の感覚では「天災が起きるのは帝に問題があるからだ」という受け止められ方をしますから、乱の一因にもなったでしょう。

 

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鳥羽法皇が病に倒れ、にわかに事態は動き出す

相も変わらず続く不穏な情勢。
保元元年(1156年)5月、ある意味、諸悪の根源である鳥羽法皇が病によって重篤な状態になりました。

権力争いに敗れつつあり、不満を抱く崇徳上皇や藤原頼長。
彼らの不満を押さえ込めたのは、治天の君である鳥羽法皇の力が大きかっただけに、法皇が重体となるや、たちまち死後に備えた動きが始まります。

法皇自身もそれはわかっておりまして。
北面武士を務めていた源為義・平清盛などに味方につくよう諭しておりました。
ただ、源為義は、藤原忠実や藤原頼長に近かったので、最終的には崇徳上皇方につくのですが……。

いよいよ危篤という7月初頭になると、崇徳上皇は鳥羽法皇のお見舞いに向かいました。

おそらくや生きているうちに和解したかったのでしょう。
後白河天皇の即位は覆せないにしても、鳥羽法皇に
「後白河天皇の次は重仁親王、さらにその次に守仁親王が即位する」
ように命じてもらうようにお願いしようとしました。

これなら崇徳上皇と後白河天皇両方の血筋が残りやすくなります。
仕打ちを考えると、崇徳上皇が優しすぎて……(´;ω;`)ブワッ

しかし、鳥羽法皇は、最後の最後まで冷徹でした。
崇徳上皇の御見舞を拒んだばかりか、「ワシの遺体を崇徳に見せるな」とまで命じていたというのです。

 

崇徳上皇と藤原頼長が反乱を企てている!?との噂

ここまでされれば、さすがの崇徳上皇も大激怒。
直ちに住まいへ引き返しましたが、事はそこで終わりません。

崇徳上皇の怒りぶりを利用したのか、鳥羽法皇崩御の直後に
「崇徳上皇と藤原頼長が共謀して、国家に反乱を企てている」
という噂が流されたのです。

当然、上皇側はこれに対応しようとしますが、後白河天皇から「忠実と頼長は荘園から兵を呼んじゃダメ^^」(超訳)という命令が出され、頼長は財産を没収されてしまいました。
この頃の財産没収は、謀反人扱いが確定したこととほぼ同義です。

さすがに、藤原頼長はもちろん、崇徳上皇自身も身の危険を感じ始めました。

崇徳上皇は住まいを脱出して、同母妹である統子内親王(むねこないしんのう)の御所である白河北殿へ逃げ込みました。
頼長もここへ駆けつけます。

軍事的には心もとない場所でしたが、
「南に清盛と平家の本拠地・六波羅があったため、清盛やその周辺の公家を味方につけようと考えていたのではないか」
と考えられています。

また、崇徳上皇・統子内親王・後白河天皇はお互いに年が近く、かつ母親が同じ(待賢門院璋子)なので、統子内親王を仲立ちとして、事態の収拾を図る……という考えもあったかもしれません。

 

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実は戦いは一方的に終わりました

この時点で、対立の構図としてはこんな感じでした。

敗北【崇徳上皇方】
藤原頼長
源為義・頼賢・為朝
平忠正

勝利【後白河天皇方】
藤原忠通・信西
源義朝
平清盛

勝敗は、戦う前からほぼ付いておりました。
なにせ後白河天皇方の体制は既に整っており、源義朝や平清盛らが、自分のシマから多くの武士を集めていたのです。

一方、崇徳上皇方には源為義・為朝、平忠正などの小勢しかおりません。
いわゆる多勢に無勢。

7月11日未明、白河北殿が襲撃されると、あっという間に勝敗は決してしまいました。

ちなみにこのとき、天皇方だった源義朝と、上皇方の源為朝が、例によって、くだらなさすぎる兄弟ゲンカを繰り広げています。源氏ってば……(´・ω・`)

崇徳上皇は一旦白河北殿から逃げた後、仁和寺へ行って同母弟の覚性法親王に仲立ちを依頼。
しかし断られてしまい、後白河天皇に差し向けられた武士に捕らわれて讃岐へ流されることになります。

同行したのは、重仁親王の生母である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の他、身分の低いわずかな女房たちだけだったとか。

また、藤原頼長は父・忠実を頼って逃げる途中、流れ矢に当たり、その傷が原因で亡くなっています。
忠実は自らの保身のために頼長との対面を断ったといわれているので、ここでも政治的な事情で今際の際に親子の対面が叶わなかったことになりますね。

忠実も最終的には上皇方とみられて処罰されるのですが。

他、頼長の子息は流罪、源為義など上皇方の武士は死罪という重い処分が下されました。

こうして、名実ともに後白河天皇が治天の君となりました。

 

その後の崇徳上皇は……

首尾よく治天の君となった後白河天皇。しかし話丸く収まりません。

保元の乱は、
「政治上のトラブルを軍事的に解決した戦い」
の契機となり、これが平治の乱、そして武家政権の時代に続いていくのです。

当時の人は、まさかこれが発端となって700年もの武家政権が誕生するとは思わなかったでしょう。

その後の崇徳上皇は、讃岐で静かに暮らしていたようです。

崇徳天皇/wikipediaより引用

配流後の歌からしても恨みや怒りを強く抱いていたような雰囲気はありませんし、地元の役人の娘との間に一男一女をもうけていました。
せめて幼い我が子の成長が、心の慰めになっていればいいのですが。

崇徳天皇を祀った寺社にはダイナミック縁切り・縁結びで有名な安井金比羅宮(京都)がありますが、このように数奇な運命をたどった方が、一般人の縁を取り持ってくれる……というのは、何とも切ない気がします。

神仏の存在を信じるかどうかは人それぞれです。
もしも「自分と同じ苦しみを味わわせたくない」という思いからだとしたら、やはり崇徳天皇は優しい方だったのではないかと思えてきます。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「保元の乱」 保元の乱/wikipedia

 



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