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道元/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

道元と曹洞宗~なんだかムズい鎌倉仏教……道元は生涯54年を見ればわかりやすくなる!?

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鎌倉時代で文化史といえばやはり【鎌倉仏教】。

誰もがなんとなく連想できるのに、理解の難しさときたら最悪レベルです。
人を救うための宗教で人が混乱するとはこれいかに。

まずは大まかにザックリ分けてみましょう。

浄土宗・浄土真宗「庶民でも信仰を示せば仏様が救ってくださるよ」
臨済宗・曹洞宗「正しい修行をして自分自身を救おう」
日蓮宗「“南無妙法蓮華経”と唱えれば救われるよ」
時宗「仏様はスゴイので、信仰心がない者でも、念仏を唱えれば救ってくださるよ」

という感じです。

このうち臨済宗・曹洞宗、さらには日本達磨宗・黄檗宗・普化宗などをまとめて【禅宗】ともいいます。
後ろの三つはあまり受験で問われませんが、テストに出やすい臨済宗と曹洞宗は何が違うのでしょうか?

ひとことで言うと
「臨済宗は公案という問答を重んじ、曹洞宗は座禅を重んじる」
というところです。

臨済宗は他者との対話、曹洞宗は自らとの対話といえるかもしれません。

また、仏教だけでなく、多くの宗教において、創始者の人格や考えは宗旨に強く影響します。

ということは、曹洞宗の教えには曹洞宗の開祖である【道元】の考えが色濃く出ているということになりますね。

彼の生涯を見ていくことで、なぜ曹洞宗が内面と向き合うことを重視しているのかがわかる……かもしれません。

 

早くに両親が他界 中学生で出家を決める

道元は、正治二年(1200年)に内大臣・源通親と、摂政太政大臣・藤原基房の娘の間に生まれたといわれています。

源通親/wikipediaより引用

父方を遡ると、村上天皇の第七皇子・具平親王(ともひら しんのう)、母方をたどると藤原道長に行きつく――というかなりの名門。
しかし幼い頃に両親が亡くなってしまい、伯父の藤原師家(もろいえ)に引き取られて育ちました。

残念なことに、この時代の貴族にとって、幼い頃の親との死別は、後ろ盾を失うことであり、ほぼ“詰み”を意味します。
そのためか、道元は自らの意思で仏門に入る事を決意し、伯父の制止を振り切って比叡山で出家しました。

それが建保元年(1213年)のことですから、現代でいえば中学生で自らの将来を決めたことになります。
この時代では元服していてもおかしくない歳ではありますが、何とも思い切りのいいことですね。

比叡山は天台宗の総本山ですから、当然、道元も天台宗の教義を学びました。

しかしそのうち、
「天台宗では、『一切の衆生はもともと仏である』としている。ならばなぜ、人は修行を積まなければならないのか」
という疑念が生まれます。もっともな話です。

そして、比叡山にいる限りこの疑問は解けないと感じ、比叡山を降りて、近くにある園城寺(おんじょうじ。現・滋賀県大津市)の僧侶・公胤(こういん)を訪ねました。

余談ですがこの園城寺、これ以前から比叡山と対立して焼き討ちに遭ったこともあるという、凄まじい関係のお寺です。
道元が具体的に何を考えて園城寺を訪ねたのかは判然としませんが、いきなり敵対関係にある人を頼るあたり、思い切りがいいというかなんというか……。

 

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大陸で禅宗を学ぶため、まずはツテを作りに建仁寺へ

公胤は道元の疑念には答えなかった、といわれています。

「そのはっそうはなかった」状態だったんですかね。そんなまさか。
代わりに「それなら、大陸に渡って直に禅宗を学ぶと良い」と言いました。

園城寺/photo by 663highland wikipediaより引用

道元は早速行動に移します。

まずはツテを作るため建保五年(1217年)、臨済宗の総本山・建仁寺に赴き、栄西の弟子・明全(みょうぜん)を師とし、六年ほど修行。
臨済宗・開祖の栄西は、この二年ほど前に亡くなっていたとされていますが、後年の道元の言動によると、何回かは会ったことがあるようです。

そして貞応二年(1223年)、道元は明全のお供のような形で宋へ渡りました。

上陸したのは、現在の寧波(ニンポー)だったそうです。
ここは上海の南にある町で、古くから遣唐使が上陸したり、日本の貿易船が入ったり、日本人の出入りが珍しくない土地です。
まだ23歳の若き僧侶の目に、大陸の景色はさぞ雄大に映ったことでしょう。

しかし、宋で道元へ最初に衝撃を与えたのは、とある老僧との対話でした。

 

「お若いの、修行とは禅や経だけではないのだよ」

その老僧は、かつてはとあるお寺の住職を務めたことがあるほど、見識の高い人。
ところが初心に返って修行をやり直そうと決意し、道元と出会ったときには、別のお寺で典座(てんぞ・僧侶たちの食事を用意する役目)をしている、と話しました。

寧波に来ていたのも、お寺の料理でダシをとるのに使う椎茸を買うためです。

当時は日本産の椎茸が大陸で好まれていたようですね。
現代では中国産の椎茸が日本で売られていることも多いですし、真逆になっていて面白いものです。

それはさておき。
道元には、不思議でたまりません。

「なぜ貴方のような修行を積んだ僧侶が、典座のような下働きをしているのですか?
それに、修行をやり直すのであれば、経典を詠んだり座禅を組むのが本筋ではありませんか?
どうして、料理のような雑用をやっているのですか?」

(他にも道元が投げかけた疑問は多々ありますが、長いので割愛)

道元の問いに、老僧は笑って答えました。

「お若いの、貴方はまだご存じないようだが、修行とは禅や経だけではないのだよ」
そう言って、去っていったのだといいます。

老僧の言葉をよくよく噛み締めた道元は、やがて気づきます。

「そうだ、料理を仕事にしている者にとって、料理は雑用ではない。
軽んじる気持ちがあるから、雑用だと思ってしまうのだ」

それ以降道元は、今までの自分が頭でっかちだったことに気づき、気合を入れ直して修行に励もうと、決意を新たにしたといいます。

 

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座禅の仕方や心得を『普勧坐禅儀』に記す

例によって超訳を挟ませていただくと、
「雑用と思うようなことであっても、効率や質の向上を意識して考えることは重要である。それは、仏道修行において悟りを開く道を求めることとさして変わらないし、どちらが尊くてどちらかがどうでもいいということはない」
という感じでしょうか。

……余計わかりにくくなった気がしますね。
「道元は大陸に渡ってすぐに大きなカルチャーショックを受けて、気合を入れ直した」ということで。

宋での道元は、およそ四年に渡って各地の僧侶に学び、変相図(地獄や浄土などの様子を描いた仏教画)を見せてもらったり、問答をしたりして、ついに悟りを開いたといわれています。
この間、上記の老僧とも再会し、より深く教えを請うことができました。

その一方で、師の明全が嘉禄元年(1225年)に客死するという、悲しい出来事も経験しています。
遺骨は、道元が安貞元年(1227年)に帰国するときに持って帰ってきたそうです。

帰国した道元は、再び建仁寺に滞在、大陸で学んできたことを衆生に広めるべく、積極的に活動を始めます。

「座禅こそ仏教の真髄であり、真に救われる道だ」
そう強く信じ、座禅の仕方や心得を「普勧坐禅儀」という書物に著して、禅を広めることに注力したのです。

建仁寺

 

比叡山から目をつけられていったん避難するも……

先日の記事「法然と浄土宗」と同じく、道元もまた天台宗から目の敵にされました。

そのため寛喜二年(1230年)頃、建仁寺から別のお寺に移っています。
当初は衝突を避けたんですね。

しかし、その後あたりから説法を精力的に行うと同時に、他宗への批判もしはじめたので、対立する意思があるのかないのかよくわからないところです。

まぁ、僧侶の本領は「衆生を救うこと」ですしね。
他宗派の僧侶からあーだこーだ言われても「そんなことより救済だ!」と考えたのかもしれません。

あるいは、この時期に広く信じられていた末法思想や念仏・祈祷を道元が批判したことも、対立の原因になっていそうな気がします。

平安時代からの仏教は、末法思想によって
「もうこの世はおしまいだー! 祈祷をたくさんして、出家して、何とか地獄に落ちないようにしてもらわないと!」
という感じになっていました。

そこを否定されると、いろいろと困る僧侶がいたわけです。ぶっちゃけ飯のタネですからね。

 

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孤雲懐奘との出会い

ある日、孤雲懐奘(こうんえじょう)という僧侶が道元に問答を申し入れてきたことがありました。
懐奘もまた、若い頃から比叡山で学び、その見識を知られた人物です。

「お寺でふんぞり返っているよりも、市井の人々の間に入って皆を救いなさい」(意訳)と母ちゃんに言われて山を降りた……という、親孝行(?)な人でもあります。
後述する道元死後のエピソードと合わせて考えると、一度信頼した相手には徹頭徹尾誠実な人物だったと思われます。

懐奘は問答をするうちに、道元のほうが上だと認め、その場で弟子になりたいと申し出ました。
とはいえ、この時点での道元は間借りしている身でしたので、一度断っています。

その一方で、道元の教義に納得する者も増え始めていました。

天福元年(1233年)頃から九条教家(のりいえ)などの寄進によって、自分の道場を構えています。
教家は、道元の母方の親戚にあたりますので、元からある程度の付き合いを続けていたのかもしれません。そうであれば、理解を得やすかったでしょうしね。

懐奘が再び道元の元を訪れ、正式に弟子入りしたのはこの頃。
以後、彼は常に道元に付き従い、その言動を書き留めていたといいます。

 

正法眼蔵の執筆に着手

さて、弟子が増えて大所帯になると、何かとトラブルも起きやすいものです。
そこで『典座教訓』という本を書いて、弟子たちに規律を示しています。

“典座”とは、宋で出会った「あの老僧のことを忘れまい」としたことから来ているのかもしれませんね。
言葉自体は元々あったものですけれども。

また、この頃から代表的な著作として知られる
『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)
を書き始めたといわれています。

同時に、この頃、比叡剤が警戒心を強めます。

世に名を知られた懐奘が道元の門下になったり。
他にも僧侶が多々弟子入りしたり。
そりゃ危機感を強めますよね。

しかし、今度は道元も真っ向から闘いました。
後ろ盾と弟子たちを得て、自分の考えが間違っていないことを確信し、自信も得たのでしょう。

比叡山がカンタンに引っ込むワケもなく、今度は比叡山の僧侶たちが朝廷に訴え、朝廷も彼らを支持しました。
それに後押しされて、ますます道元らを圧迫する始末です。

もはや「ああ言えばこう言う」状態というか、なんというか……。僧侶なら真っ向から問答を申し込めばいいと思うのですが(´・ω・`)

 

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円爾からの圧力を避け越前へ

さらに、円爾(えんに)という僧侶が道元の道場近くに東福寺を構え、こちらからの圧迫も受けるようになります。

東福寺と紅葉

円爾は最初に天台宗の僧侶に学び、その後臨済宗や儒学も学び、さらに宋に渡ったこともある、というかなりのインテリ僧侶。
朝廷にも出入りして禅の講義をし、九条道家らの支援を受けています。

字面が似ているのでややこしいのですが、
道元の後ろ盾が九条教家(のりいえ)で、
円爾の後ろ盾が九条道家(みちいえ)です。

教家と道家は同母兄弟なので、この二人も密かに対立していたのかもしれませんね。
兄弟で敵対関係になるのも、信仰上の理由で物別れになるのも、珍しいことではありませんし。

道元は弟子たちの提案や、以前から親交のあった御家人・波多野義重の招きにより、最初の道場から現在の永平寺(福井県吉田郡)に移転。
義重がこのあたりの地頭を務めていたので、土地を寄進したのだそうです。

現在でも義重の子孫の方々は永平寺と深い付き合いがあるのだとか。政治や婚姻が絡まない関係で800年近く……って、なかなか珍しい話ですね。

曹洞宗・永平寺の勅使門

 

道元と懐奘は死後も先師と侍者で

道元は永平寺を開いた頃から、より厳しい修行を自らに課し、在家成仏や女人成仏を否定するなど、さらに厳格な教義を説いています。

その名は鎌倉にも聞こえていたらしく、宝治元年(1247年)には執権・北条時頼の招きにより、鎌倉に下ったこともありました。

時系列的にどちらが先かよくわからないのですが、この年はあの宝治合戦もあった年です。
時頼は元々信仰心厚い人だったようですし、いろいろと思うところがあって、仏教に救いを求めたのでしょうか。

道元は半年ほどで越前へ戻り、その後病気のため、永平寺を懐奘に譲りました。
京都の弟子のところへ滞在しているときに亡くなったとされています。

建長五年(1253年)8月のことでした。享年54。

永平寺を引き継いだ懐奘は、その後『正法眼蔵』の整理も行いました。
それがさらに懐奘の弟子たちによってまとめられ、現代に伝わっています。

そして曹洞宗は「道元様の教えを守り続けるべきだ」という派と、「より多くの人を救うために、道元様が取り入れなかったこともやるべきだ」とする派に分かれたりもしましたが、懐奘はその調停に務めていたといいます。

永平寺傘松閣の天井絵

また、懐奘は道元の霊廟の脇に自分の部屋を作り、自分が亡くなる間際にも
「私のことは先師(道元のこと)の侍者として扱うように」
と言い遺しました。

最期までどころか、死んでも道元の弟子であり続けることを選んだのですね。

永平寺では懐奘の意志を尊重し、今でも道元の廟所には毎日真夜中に懐奘がやってくるとして、常に廟所の扉を少しだけ開けているのだとか。
また、寺院内の見回りも懐奘がやってくる時間を外しているのだそうです。
ええ話や(´;ω;`)ブワッ

今もお世話をされている僧侶……というと空海が有名ですが、道元も同じように尊ばれているんですね。

オカルトといってしまえばそれまでですが、こういうじんわりイイ話もちょくちょく見られるのが、文化史や宗教史の醍醐味だと思います。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「道元」 道元/wikipedia 孤雲懐奘/wikipedia

 




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