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【渤海国】
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貴族の間で珍重されていた貂(てん)の毛皮を輸入
幸い、渤海国と唐の関係が改善したため、軍事的な同盟を組むことはありませんでした。
一方で通商は長く続きます。
渤海国からは毛皮、日本からは繊維製品や金・水銀が輸出され、良い取引ができていたようです。
当時日本の貴族の間で貂(てん・イタチ科の仲間)の毛皮が珍重されていましたので、渤海国からの輸入は大いに歓迎されました。
この頃よりだいぶ後の話ですが、源氏物語の中にも末摘花(すえつむはな)という女性が黒貂の皮衣を着ているシーンがあります。
あれほど着込みまくる平安時代ですら毛皮がないと冬を乗り切れないのですから、奈良時代はいわずもがなでしょう。
しかし、日本側は渤海国の使節を朝貢と認識していたため、その歓待に莫大な金額を割かれてしまいます。
朝貢というと、いかにもされる側のほうがエラぶっていそうですが、親分は子分にアレコレと振る舞ってやらなければならないんですね。
そのため「何回も来るのは大変だから、12年に1回でいいよ」と、わざわざ回数制限をしています。
といっても関係が悪くなることはなく、渤海国の使節が来たときには、日本の文化人などと積極的な交流が行われたそうです。
有名どころでは、菅原道真が渤海国の使節と漢詩のやり取りをしたことがあるとか。
道真というと遣唐使廃止や大宰府のことが頭に浮かびますから、ちょっと意外ですよね。
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渤海国の首都「上京」は平城京を真似た!?
また、日本と渤海国の親密さを示していそうな点がもう一つあります。
渤海国の首都は「上京」というのですが、平城京とそっくりな作りをしているのです。
平城京も長安を真似て作ったものとされていますが、できた順番が長安→平城京→上京なので、渤海国の使節が平城京を見て、都を作ったとも考えられます。
長安を真似て上京を作ったとしたら、平城京よりも先に作られているはずですからね。
決定的な証拠はまだ見つかっていないようですけれども。
渤海国との友好関係は長く続きましたが、927年(延長五年)以降に突然通交が絶えてしまいました。
唐王朝が滅びてしまったこと。
渤海国で内紛が起きてしまったこと。
西方で力をつけてきた契丹国(きったんこく・後の“遼”)に攻め込まれたこと。このような不運が重なり、渤海国自身が滅びてしまったからだといわれています。
最後に来た927年の使節も、本当は契丹国の使者だったんだそうで……うーん。
その後は残された住民が渤海国再興を試みるものの、契丹国に押さえつけられて実現しませんでした。
人々は移住させられたり、朝鮮半島へ亡命したり、また別のところへ逃げていったり……散り散りになったとされています。
後に中国で金王朝ができたとき、旧渤海国に残っていた住民は厚遇されたそうですが……その間が200年くらいありますので、良かったと言っていいものかどうか。
かつて渤海国だった地域は、現在北朝鮮にあたる部分も多いため、発掘調査があまり進んでいないようです。
これだけ発展していた国ですから、自国の記録も作っているでしょうし、どこかにありそうなものですが……。
いつか日の目を見ることができるといいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
渤海(国)/wikipedia
渤海使/wikipedia
遣渤海使/wikipedia
渤海人/wikipedia
渤海_(海域)/wikipedia