ナポレオン戦争/wikipediaより引用

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ナポレオン戦争が超わかる!ヨーロッパ全体を巻き込んだ皇帝の戦績

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しかし、イギリス提督ホレーショ・ネルソン率いるイギリス海軍に負けて孤立してしまっただけでなく、一度は占領したマルタ島を奪われてしまいました。

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そしてこの流れで、別の国へとばっちりが行くことになります。

地中海を押さえられたせいで、デンマークとスウェーデンに通商上の不都合が出てしまったのです。

また、ロシアも「イギリスが地中海にでしゃばってくるとウザいんだよね」と考えます。

ロシアにとって不凍港を得ることは悲願であり、その候補地の一つはクリミア半島~黒海~コンスタンティノープル~地中海のラインだからです。

この辺は地図を見るとわかりやすいですかね。

 

デンマーク・スウェーデン・ロシアの第二次武装中立同盟

こうして、利はともかく害が一致したデンマーク・スウェーデン・ロシアの三ヶ国。
ここにプロイセンが加わって、第二次武装中立同盟が結成されました。

ちなみにこの四カ国はアメリカ独立戦争時にも似たような同盟を組んでいました。
なのでこのときが「第二次」なんですね。対仏大同盟との混同が起きそうでめんどくさいところです。

しかし、これに難癖を付けたのがイギリスでした。
デンマークの首都・コペンハーゲンを砲撃して勝ったことで、同盟はあっさり瓦解。完全に恫喝です、本当にありがとうございました。

デンマークはフランスに、ロシアとスウェーデンはイギリスに近づいていくことになります。

この時点で戦争がだいぶ長引いていたこともあり、スウェーデンの調停でフランス革命戦争の和解を図る会議が開かれました。が、案の定頓挫して戦争が続きます。

そのうちオーストリア・イギリス・ロシアを中心として第二次対仏大同盟が結成され、オーストリアが北イタリアを奪還したことで、再びフランスは窮地に陥りました。

いつの時代も、民衆は負けた政権に厳しいもの。
フランス総裁政府(革命政府)の支持がガタ落ちする中、ナポレオンがエジプトを脱出してクーデターを起こし、独裁権を得ます。

その勢いでナポレオンはオーストリア軍を撃退し和約に持ち込み、第二次対仏大同盟は瓦解しました。
他、ローマ教皇との対立を解消し、イギリスとも講和しました。

しかし、一年ほどでフランスがイギリスにとって経済的にアレな行動を取り始めたため、今度はイギリスがフランスへと宣戦布告。

この辺からヨーロッパ諸国の目的は「ナポレオン打倒」になっていきます。

 

皇帝となったナポレオン 英国本土へ乗り込もうとすると

一方、ナポレオンはフランス皇帝に即位し、絶対的な権力者になっています。

その勢いに乗り、イギリスと決着をつけるため、本土へ乗り込もうと計画しました。

対するイギリスはオーストリア・ロシアなどを引き込んで、第三次対仏大同盟を結び対抗します。

ナポレオンはまずオーストリア軍を打ち破り、その後、アウステルリッツの戦いで完勝を収めました。

この戦いを「三帝会戦」ともいいますが、名前の由来は、フランス・オーストリア・ロシアの参加国がいずれも皇帝を戴いていたからです。語感がいいので、こちらの名前を覚えていた方も結構多いのではないでしょうか。

しかし、相変わらず海でイギリスが相手となる「トラファルガーの海戦」には勝てませんでした。

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この戦いそのものはナポレオン戦争に大きな影響を与えませんでしたが、これによってナポレオンが「イギリスはほっておこう」と決めたことがのちのち仇となります。

というか、世界史的にいうと「イギリスは真っ先に攻略するか、味方につけるか、完全に放置するかを決めて相手をしないと大損する相手」なんですよね。さすが大英帝国(この時点だと未来の話ですが)。

後年、例のちょび髭も対イギリス・対ロシア戦略でナポレオンと同じ失敗をしています。この二人に対する一般的な印象はかなりの違いがあるので、意外ですよね。

かくしてイギリス以外の問題を片付け、当面の危機を脱したナポレオンは、兄・ジョゼフをナポリ王、弟・ルイをオランダ王にして周囲を固めました。

ナポレオンの勢力がドイツ中部にまで及びはじめたことで、その東にあるプロイセンも脅威を感じるようになります。

そのためイギリス・ロシア・スウェーデンとともに第四次対仏大同盟を組み、フランスへ宣戦布告しました。

結果は、プロイセンの大敗。
フランス軍はベルリンまで攻め込みます。

首都陥落って、いかにもシャレにならない感じがしますが、世界史上だと実は珍しくもない話だったりします。

 

大陸封鎖令でイギリス潰れろ!

ここでナポレオンは大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出しました。

イギリスとヨーロッパの大陸諸国の貿易を禁じたものです。

イギリスの工業製品をヨーロッパの大陸国に輸入させないことで、イギリスへ経済的な打撃を与えようという狙いですが、商売相手がいなくなって困るのは他の国も同じ。結果としてフランスとナポレオンへの反感が強まり、禍根を残すことになります。

フランスがイギリスと同じくらい工業化していて、完全に代替品を供給できる状態ならうまくいったかもしれませんが、そもそもちょっと前まで革命で、それどころじゃなかったですしね。

ナポレオンはケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)へ逃れたプロイセン王一家を追撃すると、今度は第四次対仏大同盟によってロシアが参戦し、一筋縄では行きません。

最終的には勝利を得ながら、ここでプロイセン王家を潰せなかったことも失策の一つでしょう。

ロシアに勝利を収めたナポレオンは、ロシアその他の国によって分割され、独立を失っていたポーランドの一部をワルシャワ公国として独立させます。

恩の押し売りではありますが、ポーランド人にとっては救世主にも見えたでしょうね。

また、プロイセンにはヴェストファーレン王国という衛星国家を作り、弟・ジェロームを王にして地盤を広げています。

しかし、プロイセン側も黙ってはいません。軍の改革などを行い、来るべき再戦に備えます。

次にナポレオンはロシア皇帝アレクサンドル1世と会談し、「スウェーデンを一発殴って、大陸封鎖令に参加させよう」と決めます。

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これによって第二次ロシア・スウェーデン戦争が起き、負けたスウェーデンは大陸封鎖令に参加することになりました。さらに、フィンランドをロシアに割譲しています。

戦争あるあるですが、どう見てもカツアゲです。

更にこのとき、スウェーデン国王カール13世がナポレオンの部下・ベルナドットを養子にしたことも後々影響を及ぼしてきます。

ベルナドットは後にスウェーデン王となるのですが、元上司を見限ってスウェーデンを対仏大同盟側に戻したのです。デキすぎる部下も考えものというか、求心力を保ちつづけるのも大変ですよね。
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