ナポレオン戦争/wikipediaより引用

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ナポレオン戦争が超わかる!ヨーロッパ全体を巻き込んだ皇帝の戦績

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スペインを押さえオーストリアを叩き、ナポレオンの絶頂期

このタイミングでスペイン独立戦争が始まり、少々情勢が変わってきます。

なんで「独立」かという理由は少々ややこしくなるのですが……。

当時のスペインは、フランスと「同盟という名の子分」な関係だったため、国王と王子の間で対立が起きていました。そこにナポレオンがつけ込み、自分の兄・ジョゼフを王にしています。

スペイン人からすれば、「同盟相手の兄貴を無理やり押し付けられた」カタチになるわけで、もちろん気に入らない話ですよね。

そこで蜂起が起き、スペイン全土に拡大して戦争になったというわけです。

イギリスも、フランスの力を削ぐために援軍を送りました。

これに対しナポレオンは自らやってきて勝利を収めますが、部下に任せて帰った後、フランス軍はgdgdの泥沼に。その状況を聞いた他国は、今こそ好機!と見て動き出しました。

苦汁をなめさせられ続けていたオーストリアが、イギリスと第五次対仏大同盟を組んで再びナポレオンに挑みます。

しかしやはりフランスが勝ち、オーストリアは領土と賠償金をがっぽり取られてしまいました。なんなんでしょうか、オーストリア。

というか、このあたりがナポレオンの絶頂期にあたります。

最初の妻ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚。翌年には息子・ナポレオン2世が誕生し、ローマ王にしています。

この間、ローマ教皇ピウス7世を幽閉し、教皇の領地をフランスに併合しました。

かくしてヨーロッパの半分近くがナポレオンの支配下となったのです。

 

ロシアへ攻め込んだフランス軍 逆にフルボッコで壊滅へ

しかし、絶頂期とはそう長く続かないもの。大陸封鎖令によって、経済的に苦しくなっていたのはイギリスだけでなく、他のヨーロッパ諸国も同じことでした。

真っ先に音を上げたロシアが、同令を破ってイギリスとの貿易を再開してしまいます。

このためナポレオンはロシア征伐を決め、遠征に出ました。

ロシアは最初から、長期戦に持ち込むつもりで作戦を立てていました。国内の奥へ奥へと誘い込み、冬の寒さと焦土戦術で大打撃を与えるというものです。

自国の被害を気にしないところが実におそロシア。フランス軍の勝利もありましたが、最終的には見事ロシアの狙いにハマって壊滅します。

撤退中にもロシア軍や農民に襲われ、フランス兵の生存率は小数点以下のレベルにまでなってしまいました。

ナポレオン最大の誤算がここにあります。

ロシアにやられたこともそうですが、兵は降って湧いてくるものではありません。

いくら人口増加を促進したところで、一人の人間が武器を取って戦えるようになるまで最低15年程はかかります。

ロシア戦役で減った分を埋め合わせるまでの間、ヨーロッパ諸国がフランスを野放しにしておくはずがありません。

この機会に、真っ先に動いたのがプロイセン。なんせ首都まで落とされていますから、復讐したい気持ちは人ならぬ国一倍です。

フランスは対プロイセンの戦いでは勝ったものの、スペインでイギリス軍に破れ、斜陽の兆しが見え始めます。

オーストリアはマリー・ルイーズを嫁がせていた手前、停戦を仲介したものの交渉は敢えなく決裂。イギリス・プロイセン・ロシア・スウェーデン・オーストリアによって第六次対仏大同盟が結成されました。

そしてフランスvs第六次対仏大同盟軍がライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)へ突入し、フランスは大敗を喫するのでした。

そのまま同盟軍はフランス国内に侵攻し、パリまで攻略した……というわけです。

 

ワーテルローの戦いでプロイセン張り切る

ナポレオンは皇帝の座から引きずり降ろされました。

が、よりにもよって流された先がエルバ島という地中海のごく近所に送ってしまったため、一年も経たずにあっさり脱出してしまいます。

しかも、戦後処理のために開かれたウィーン会議は、いわばヨーロッパ版の小田原評定。各国の利害が対立しあい、長引く割に全く進展しません。

フランスでは、ルイ18世が即位して王制に戻してみたものの、失策が続いて市民の不満が高まるばかり。そのタイミングでナポレオンが戻ってきたのですから、国民の期待が集まるのも当然のことでした。

期待が集まれば兵も来るわけで、瞬く間にナポレオンは再び軍を率いることができるようになります。

これを知った各国はイギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアなどが第七次対仏大同盟を結び、ワーテルローの戦いが始まります。

このとき一番(?)気合が入っていたのは、今度こそナポレオンを木っ端微塵にしたいプロイセン軍でした。フランス軍vsイギリス・オランダ連合軍で戦っているところにプロイセン軍が横腹をつき、夜通し追撃をかけて壊走させたといわれています。

フランスとプロイセン・ドイツにはさまざまな因縁がありますが、ナポレオン戦争もそのひとつといえますね。

「次こそは永久にヨーロッパから追放だ!」というワケで、この後、ナポレオンは大西洋の孤島・セントヘレナ島への流刑が決まります。

アフリカ大陸南部の西方にある、欧州から見れば、絶望的に遠い島ですね。

死に様や扱いからするとちょっとかわいそうにも思えますが、ヨーロッパ諸国から見たナポレオンは、それだけのことをしたとみなされていたんですね。

まぁ、当事者に報復するのは理に適った話ですけれども。

個人的に、大河ドラマのネタが尽きたときには世界史も良いのでは……と思っているのですが、ナポレオンはいかがでしょうか。

まぁ、時間も予算も圧倒的に足りないですかね。

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長月 七紀・記

【参考】
ナポレオン戦争/wikipedia

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