マリー・アントワネット

マリー・アントワネット/wikipediaより引用

フランス

マリー・アントワネットはなぜ処刑された?パンがなければ発言は誤解

世間知らずで傲慢。

極めつけはこのセリフ。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

庶民をあざ笑うかのような、上流階級の“上から目線”こそがマリー・アントワネットの代名詞でしょう。

1793年10月16日が命日。

いかにも“頭の軽い残念な女”という評価がくだされておりますが、実際のところ、彼女が放った言葉ではないことが西洋史好きには知られていて、Wikipediaには項目まで立てられています。

それでも一度ついてしまった悪評を覆すことは難しい。

フランスの歴史家も頭を痛めている問題であり、日本で言えばフィクションにおける織田信長が「とにかく残虐無道な魔王」として描かれるのと似ているかもしれません。

しかしなぜ彼女はこうも悪名高いのか?

なぜそんなマイナスイメージが定着してしまったのか?

マリー・アントワネットの素顔に迫ってみましょう。

 


愛人がいないゆえ正妻に注目が集まる

まずはひとつ質問です。

ルイ14世、ルイ15世の王妃が誰だかご存じですか?

おそらく、パッと出てこないかと思います。

それでは彼らの寵姫はいかがでしょうか。

ルイ14世には人気ライトノベルのキャラクターモデルにもなった、可憐なルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、モンテスパン侯夫人らがいます。

※以下はモンテスパン侯とルイ14世のドタバタまとめ記事となります

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ルイ15世の愛人には、政務に携わり、ヘアスタイルの名前に今も残るポンパドゥール夫人がいます。

デュ・バリー夫人も『ベルサイユのばら』でおなじみでしょう。

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フランスの王たちは、政略結婚で結ばれ、世継ぎを作る義務的夫婦の王妃より、選び抜かれた美貌や個性を持つ寵姫の方を深く愛していたのです。

世間の目も、公の場に姿を見せて派手なファッションを見せ、より自由に行動できる寵姫の方に集まります。

貴族の女性たちは寵姫のファッションを真似、宮廷に出入りする人たちも寵姫の機嫌を取っていました。

現代人がイヴァンカ・トランプやキャサリン妃のファッションをチェックしてニュースにするように、当時の人々は王の側にいる女性を熱心に見つめていたのです。

ところがルイ16世は真面目な性格で、妻であるマリー・アントワネットだけを一途に愛していました。

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妻としてそれは喜ばしいことかもしれません。

しかし、そのぶん世間の目は王妃に集まってしまいます。もしもルイ16世に寵姫がいたら、王妃に向けられる非難の目は何割かが軽減されたことでしょう。

平時ならばともかく、激動の時代において「寵姫という盾」を持たないマリー・アントワネットは、どうしても不利なポジションにさらされる立場にありました。

 


フェイク・ニュースの犠牲者

寵姫という盾がないマリー・アントワネット。

彼女のファッション、行動、何もかもが世間の好奇心にさらされました。

当初はファッションリーダーとして好意的に見られていたファッションも、揶揄や軽蔑の対象になります。

マリー・アントワネットは我が子たちとともに描かれた肖像画を作成させ、優しい母親像を世間にアピールしようとしますが、効果はありません。

マリー・アントワネットと子どもたち/wikipediaより引用

事態は悪化してゆきます。

マリー・アントワネットには親しい女友達が多数いました。

その交友関係も、実は同性愛関係ではないかと噂され始めます。

さらには革命後には、我が子に性的虐待を加えていたというでっちあげの嫌疑により、裁判にまでかけられています。

美貌の王妃はポルノの題材としても最適ってことでしょう。マリー・アントワネットには美しい肖像画だけではなく、下品な諷刺画も数多くのこされました。

悪意を持った人々、好奇心旺盛な大衆にとって噂の真偽など、どうでもよかったんですね。

こうしたフェイク・ニュースが王室を揺るがすほどにまでなったのは、1785年の首飾り事件でした。

元は、前国王の寵姫であったデュ・バリー夫人のために作られたという、豪華な首飾りをめぐるこの詐欺事件に、マリー・アントワネットは一切関与していませんでした。

ところが犯人が勝手に彼女の名を出したため、世間は強欲な王妃が黒幕だと噂するようになったのです。

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以来、世間でのマリー・アントワネットの評価は下落していきます。

彼女は潔白でしたが、世間を騒がせる事件に関与してしまったことで、消えない傷がついてしまったのです。

この事件は、4年後に勃発するフランス革命の序章とみなされています。

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