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アレクサンドル1世/wikipediaより引用

ロシア

アレクサンドル1世は不思議王!? ナポレオン軍を殲滅したロシア皇帝の生涯

更新日:

ロシアのツァーリ(皇帝)として知られるアレクサンドル1世。
トルストイの名作『戦争と平和』や、ナポレオン関係のドラマではお馴染みの存在であり、映像化の機会にも恵まれています。

イヴァン雷帝やピョートル大帝など。
もともとロシアではヒャッハー系の強烈皇帝が多いような気がしますが、一方で、最後のツァーリことニコライ2世を思い出して下さい。

割と線が細いというか、先祖とはちょっとキャラが違いませんか?

この繊細路線に切り替わったのは、エカチェリーナ2世の孫にあたるアレクサンドル1世あたりからの気がするのです。

ナポレオンを打ち破った名君ともされるアレクサンドル1世は
「キャラがイマイチわかんない」
「強いんだか、優柔不断なんだか」
そんなふうに評価されておりました。

後世の人がつけたあだ名は「墓場にいたるまで謎として残るスフィンクス」という、イミフなもの。
何がそんなに謎なのか?
複雑な出生、そして複雑な人生……そうした要素がまるで迷宮のような、不可解な人物を生み出すのです。

しかも彼には「光秀=天海伝説」のような、死を偽装して長生きしていた伝説まであり。
この伝説は、ロシア革命以前は「史実」として認識されていて「聖アレクサンドル」を讃える教会まであったというのですから、ただごとではありません。

一体どのような人物だったのでしょうか。

 

女帝のご自慢はイケメンで聡明な孫

1777年12月23日。
少し早めのクリスマスプレゼントが、ロシアの宮廷にもたらされました。

「んまぁ、アレクサンドルちゃんってば、何てイケメンなのかしら♥ まるで天使、神童、賢くって、素敵な坊や……」

孫、しかも初孫となれば、祖父母はメロメロになるもの。
しかしこの女性の場合、やりすぎではないかと思われました。

なんせ彼女は、生後間もない孫を仕事部屋に連れ込み、その動きをじっと観察していたのです。
彼女は、単なる祖母ではありません。
ロシア全土の頂点に君臨する、女帝なのです。

孫のために特別な育児服まで考案し、アルファベット学習法まで考え出した彼女こそ、偉大なる女帝エカチェリーナ2世。

女帝エカチェリーナ2世/wikipediaより引用

彼女はこの孫にメロメロになり、彼のためなら何でもすると、教育係を多数集めました。
しかしなぜエカチェリーナ2世は、こうも孫を溺愛したのか。

アレクサンドルが超イケメンということもあるのでしょう。
成長したアレクサンドルは、誰もがみとれる、春風の微笑をたたえた美男子になったのです。

「ああ、アレクサンドルちゃんのイケメンぶりってば、神々しいわ、まぶしいくらい。“ベルヴェデーレのアポロン”そっくりよ♥」
女帝は孫を、太陽神の像に喩えたほどです。

ベルヴェデーレのアポロン/photo by Livioandronico2013 wikipediaより引用

 

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ブサメンの息子より孫を溺愛

若い頃は、恋多き女として知られたエカチェリーナ2世。
もうそのころの愛欲は枯れたとはいえ、最愛の孫がイケメンであるということに、ハッピー以外の言葉が見つからなかったことでしょう。

とはいえ、アレクサンドルとしては、祖母の溢れんばかりの愛情と過干渉を、素直に受け取っていただけではありません。

アレクサンドルは本人の目の前では天使のようにふるまいながら、相手が退席すると弟と共に悪口を言いまくる――という哀しい二面性を幼いうちから習得してしまったのです。幼い頃から、彼は本心を隠す才能に磨きをかけたのでした。

「どうしてあんな粗暴なブサメンから、賢くてイケメンのアレクサンドルちゃんが生まれたのか。不思議よねえ」

これは酷い話ではあるのですが……エカチェリーナ2世は、息子であり皇位を継ぐことになるパーヴェル1世とは険悪な仲でした。

パーヴェル1世(確かにイケメンとは言いがたいかもしれませんが、酷い話です)/wikipediaより引用

エカチェリーナ2世の目から見ると、パーヴェルは鈍重で粗暴、ルックスも残念。
しかもクーデターで追い落とした夫そっくり!ですから、たとえ我が子であろうと愛せない。

一方のパーヴェル1世からすれば、母親はとんでもない悪女です。

父を退位に追い込み、多数の愛人をベッドに連れ込んだふしだらな女。
本当の父親はエカチェリーナ2世の夫ピョートル3世ではなく、誰かすらわからない愛人であると噂されていたのです。

そんな母子がわかりあえるわけもなく……賢く、美しく、イケメンに育てば育つほど、女帝は息子をすっ飛ばして、皇位をこの子に継がせたい、と思うようになったのでした。

同時に、パーヴェルとアレクサンドルの父子関係に暗い影を落とすのでした。

エカテリーナ2世がメロメロになっていたアレクサンドルの美少年時代/wikipediaより引用

 

天使と悪魔のささやき

1796年、エカチェリーナ2世が崩御すると、アレクサンドルの父であるパーヴェル1世が即位しました。

「あのばあさんに愛されて、お前がすぐにでも皇帝になれると思ったか?」
パーヴェル1世は、女帝に溺愛されていた我が子に冷淡でした。

生前のエカチェリーナ2世は、ひそかに我が子を飛ばして孫に直接皇位を継承させようと工作していました。
彼女の突然死(といっても十分長生きでしたが)によってこの計画も消失。

このときのアレクサンドル1世の性格が実に複雑でして。
「僕は宮廷が嫌いだ……皆嘘つきで、こびへつらってばかり。愛する妻と田舎で静かに暮らせたらいいのに」
「注目を浴びるって気持ちいい! 皇帝として理想の治世を目指したい!」
そんな安寧と権勢、どちらも欲しいと思う気持ちが同居していたのです。

さらには、
「父をとばして皇位継承できれば最高だ。名君である祖母もそう願っていたことだし。祖母の急死が残念でならない」
「駄目だよ、そんなの父上に対して申し訳ない! これでよかったんだ、これで……」
という気持ちも同居しています。
常に天使と悪魔が正反対のことを頭の中でささやいているようなモンですね。

パーヴェル1世は帝位に就くと、エカチェリーナ2世が持ち込んだドイツらしさや優美な女性らしさを否定。
男性的でロシア的な秩序を取り戻すべきだと行動しました。

これまたアレクサンドル1世は複雑な気持ちを抱いておりまして。
「啓蒙君主の理想、自由主義的な空気は、父上の統治下では消えてしまうのだろうか? このままロシアは野蛮な国に戻るのか?」
「軍服、火薬の臭い、うーん……これぞ男の世界って感じ! 皇帝たるものこうでなくっちゃ」

ああ、めんどくさいなあ、もう!

常に矛盾を内包していたアレクサンドル1世。
これは彼の生い立ちに原因がありました。

スイス人でジャコバンの流れを汲む家庭教師ラアルプからは、民を愛する君主となるべく、自由主義を。
サルトゥイコフ将軍からは、ロシア最高の軍人として、民の自由を容赦なく潰すような厳しさを。

相反するような教えを同時に学んでおりました。
文武両道どころか、文武分裂してしまったんですね。

しかし、そんなアレクサンドル1世と違って、部下の貴族はある意見で一致しておりました。

「パーヴェル様は横暴で、外交センスが無茶苦茶。こりゃどうにもいかん。アレクサンドル様を担ぎ出そう。イケメンで大衆受けもバッチリだし、あのエカチェリーナ様から英才教育を受けたわけだし、イケるだろう」

即位からわずか5年目。
貴族たちはパーヴェル1世暗殺計画を練っていました。
フランス革命後の混乱の中を乗り切れるほどの政治センスがなく、横暴。理由はそんなところです。そして……。

夜、ベッドで眠っていたところ、皇帝は暗殺されました。

パーヴェル1世の暗殺/wikipediaより引用

 

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父を殺す陰謀に一枚噛んでいたのか?

この事件をふまえて、毒舌で知られるフランスの政治家タレーランはこうコメントしました。

「暗殺というのは、ロシアでもっともよく用いられる免職方法ですなァ」

暗殺団はアレクサンドルの元を訪れ、帝位に就くよう促します。

しかし、このあとのアレクサンドル1世の言動が不可解であるため、歴史家は今に至るまで混乱させられるのです。

「ああ、クーデターだなんて、なんということだ、おそろしい!」

アレクサンドル1世は父の暗殺を深く嘆き悲しみ、強烈なトラウマすら抱えたものの暗殺団を処罰しません。
そしてそのまま、23才の新皇帝になったのです。

もしかして父を殺す陰謀に一枚噛んでいたのか?
家臣の単独行動か?
気弱な性格が災いし、陰謀を黙認してしまったのか?
父の死を望んでいたのか?
そうではなかったのか?

そうといえるし、そうともいえない。答えはそんなところかもしれません。
なんせややこしいものを抱えているのです。

 

アウステルリッツで敗北

即位したアレクサンドル1世。
彼は自由主義思想を重んじ、啓蒙君主らしさを持つ若き君主でした。

そのころ、ヨーロッパはナポレオンが台頭し、ロシアもその脅威に怯えていました。
彼は父の中立路線外交を転換させ、ナポレオン包囲網に参加することにします。

アレクサンドル1世は凛々しい軍服と、きらびやかな閲兵式を好みました。
しかしその一方で、血みどろの戦争は考えるのもおぞましいとも思っていたのです。

アレクサンドル1世着用の軍服/photo by Mathiasrex wikipediaより引用

戦争で勝利する英雄にも憧れるし、平和をもたらす名君にも憧れる。
彼の理想は、ナポレオンを倒し、ヨーロッパを救う若き英雄王となることでした。

そしてその機会は、1805年に巡ってきます。
イギリスの誇る英雄ネルソン提督が、その命を散らしながらもトラファルガーの海戦で破った、その年の冬。

「アンチキリストの暴君、コルシカの食人鬼、ナポレオンを倒す機は熟した!」

12月2日、オーストリア帝国とロシア帝国の連合軍が、ナポレオン率いるフランス帝国と激突します。
三つの帝国、三人の皇帝がぶつかった「アウステルリッツの戦い」は、別名「三帝会戦」とも呼ばれました。

アウステルリッツの戦い/wikipediaより引用

当初、数で勝る連合軍は勝利を確信していました。
アレクサンドル1世も勝利を確信していました。

しかし、相手は全盛期のナポレオンです。彼の配下の元帥たちも名将揃い。

勝てる――という確信はすぐまた苦い涙に変わってしまいました。
アレクサンドル1世は、涙のつたう頰をハンカチでぬぐいながら敗走したのです。

トラファルガーの戦いにおける大敗北もなんのその、ナポレオンの復活です。

トルストイの名著『戦争と平和』の主要人物でもあるアンドレイが参戦したのも、この戦いでした。

※BBC製作2016年版『戦争と平和』より、アウステルリッツの戦い。灰色の騎兵がロシア軍、青い歩兵がフランス軍

 

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ナポレオン大好き! ティルジットの和約を結んじゃえ

「ここのところずっと考えていたんだけど。ナポレオンってそんなに悪い男じゃないかもしれない。ここは和約を結んではどうかな?」

這々の体でロシアに戻り、連敗を重ねたアレクサンドル1世はそう考えるようになりました。
のちの行動を考えると「嘘つけ」と突っ込みたくもなるのですが、これもまた本心であり、そうではないのかもしれません。
祖母エカチェリーナ2世を愛しながら憎んだように、強大な名君に対して相反する感情があったのでしょう。

1807年、アレクサンドル1世とナポレオンは「ティルジットの和約」を結びました。

※ドラマ『ナポレオン』より、ティルジットの和約締結時のナポレオンとアレクサンドル

両者は対称的でした。

ナポレオンは小柄で肥満し始めており、粗野で、叩き上げで、極めて実務的な男。
一方のアレクサンドル1世は長身でスタイル抜群です。
優雅で、祖母の愛にくるまれて育ち、理想主義者でもありました。

「あなたはイギリス人を憎んでおりますが、それは私も同じこと。貴殿の行動に対して、私が援助を惜しむことはありません」
「おはんなアレクサンドルさぁか。和平は成立したよなものござんで。すっぱいがうまくいくんそ」

この二人のうち、流暢なフランス語を話すのは、アレクサンドル1世でした。
彼は家庭教師から美しいフランス語を習っていたのです。当時のロシア貴族は、フランス語を話せることが嗜みでした。

一方のナポレオンは、きついコルシカ訛りが抜けませんでした(ここでは薩摩弁で表現しています)。
今ではおなじみの「ナポレオン」という名前も、当時は「なんかダサいローカルネーム」とみられていたのです。

何かと正反対の二人でしたが、たちまち意気投合。二時間ぶっ通しで会話し合い、熱い抱擁すら交わしたのでした。
ナポレオンは、アレクサンドルが自分の虜になったと確信したのですが……。

アレクサンドル1世とナポレオン/wikipediaより引用

 

やっぱりナポレオンが嫌いだし、フランスを倒したい

しかし、そんなナポレオンの期待をアレクサンドル1世は裏切ります。

古女房ジョゼフィーヌを離婚したナポレオンは、花嫁探しを始めました。
そして、ロシア皇女であるアレクサンドル1世の妹に白羽の矢を立てると……。

「おはんの妹アンナさぁをおいの嫁じょにくいやんせ」
「お断りします」

アレクサンドル1世は、この申し出を突っぱねたのです。

アレクサンドル1世の妹である皇女アンナ/wikipediaより引用

身分のせいではありません。
のちに彼はこの妹を、ナポレオンの宿敵となる、フランスの平民出身であるスウェーデン王カール14世ヨハン(元はナポレオン配下のベルナドット元帥)に嫁がせようとしていたのです。

どうやら個人的にナポレオンが気に入らなかったようで……本当になんなんだ、この人。

ナポレオンにも負けない美脚軍曹・ヨハンの才 なぜフランス人がスウェーデンの王様になれたのか

君主の決断とは、むろん好悪で決まるほど単純でもありません。

アレクサンドル1世にとって、暴君の味方よりも、暴君を倒す側に回る方が得策でした。
その方が国民は団結し、統治しやすくなるのです。

ロシア国民も、ヨーロッパの人々も、ナポレオンを倒すことを望んでいる。そうアレクサンドル1世は確信しました。

また、ナポレオンの強さにも、陰りが見え始めていました。

1808年の半島戦争において、フランス軍は苦戦。1809年の【アスペルン・エスリンクの戦い】においてはオーストリアに敗北したうえに、ナポレオンを支えてきた名将ランヌ元帥が戦死を遂げていました。

そして1812年。
ついにロシアとフランスは決裂し、フランス軍の戦車が、同盟国の軍勢とともに怒濤の進撃を開始します。

※BBC製作2016年版『戦争と平和』より(フランス軍のロシア侵攻)

フランス軍が侵攻したモスクワは、大火に包まれました。
そして荒廃しきったモスクワから撤退する過程で、今度はフランス軍が大多数を失ってしまいます。

モスクワのフランス軍/wikipediaより引用

捨て身の焦土作戦です。

イタリア遠征以来、ナポレオンの軍勢は、物資を現地調達でまかなっておりました。
しかし、フランスから遠く離れた地において、物資を手にすることもできません。
大軍ならばなおのこと一箇所に留めるのは危険。
冬将軍が容赦なく命を刈り取ってゆきます。

ナポレオンの誇る「大陸軍(グランド・アルメ)」は、ついにこのとき受けたダメージを回復することはできませんでした。

モスクワを焦がす炎を眺め、アレクサンドル1世は己の使命を確信します。

ナポレオンを倒し、ヨーロッパを救う――。

アレクサンドル1世は反フランス包囲網の先頭に立つ、英雄王としての道を選びました。

慈悲深く平和を願う、繊細な青年君主アレクサンドル1世。
しかし、その優美な顔の裏には、どんな犠牲を払ってでも英雄として名を残したい、強烈な意志も潜んでおりました。

その願いは、叶えられます。

ナポレオンはモスクワ遠征の失敗から立て直すことに失敗し、1814年に退位。
1815年のワーテルローの戦いにおける敗北で、失墜するのです。

しかし皮肉にも、アレクサンドル1世の放つ輝きも、ナポレオンの失墜とともに薄れてゆきます。

 

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無気力に陥る皇帝

ナポレオン以降の秩序を作り上げることになったウィーン会議。
そこに挑むアレクサンドル1世は、自負と気負いにあふれた若き英主でした。

ところがその気持ちは落胆に変わります。

会議の席上で、アレクサンドル1世は必要とはされませんでした。

ナポレオンを倒すまでは一致団結していたものの、それは崩れつつありました。
神秘主義やオカルトに傾倒し始めていたアレクサンドル1世の提案を、参加者たちは真剣には考慮しなかったのです。

秩序をもたらすという顔をしながら、本心はロシアの覇権をもくろんでいるのではないか?
そんな風にも疑われました。

このあたりのロシアの立場は、第二次世界大戦後のソ連とも似たものを感じます。
ヨーロッパにとってロシアという国は、非常時には頼りになる味方かもしれませんが、平時になれば鬱陶しい隣人なのです。

それだけではなく、アレクサンドル1世自身の複雑な性格も、人々からすれば胡散臭いものでした。

「あの人は狡猾で、何を考えているかわからないからな」

穏やかで、優美で、誰をも魅了する美貌と知性の持ち主。しかし、本心は誰にもわからない。
なんせ彼は、ナポレオンにすら、かつては心酔していたのです。皆笑みを浮かべてアレクサンドル1世に接している者たちは警戒心を抱いておりました。

アレクサンドルとしても意図的な狡猾さはないでしょう。
複雑な二面性を持つ性格ゆえのことかもしれず、ともかく周囲からすれば胡散臭い人物でもありました。

ロシアでは、外交問題だけはなく、内政でも問題が山積みでした。
若い貴族たちは自由主義に目覚めて改革を迫ります。
他ならぬアレクサンドル1世も、家庭教師ラアルプから自由主義を叩き込まれています。
農奴制を恥じ、廃止したいとすら考えていました。

しかし、君主にとって自由主義は諸刃の刃。
自由主義に理解を示し、革命の芽を摘み取らなかったために、フランス王ルイ16世は断頭台送りとなりました。
権力を保ちたいのであれば、ナポレオンにように徹底して思想弾圧に励んだほうが、都合がよいのです。

自由主義に同調し、革命やクーデターの危険を放置するか?
理想を裏切ってでも、改革主義者を弾圧するか?

アレクサンドル1世は再び、頭の中で天使と悪魔の天秤に挟まれ、身動き取れなくなりました。

思えばナポレオンを倒そうとしていたころ、世界はシンプルでした。
皆団結し、天使と悪魔は黙り込み、たった一つの目標に邁進できたのです。

しかし、そんなことを考えたって仕方ありません。現実は目の前に迫っている。

アレクサンドル1世はかつての溌剌とした活力を失い、次第に無気力となっていきます。
その心の隙間を埋めるように、神秘主義と宗教に救いを求めたのです。

40代に入ると、アレクサンドル1世はナポレオンを倒した栄光よりも、父への所業に対する罪悪感の方が強くなってゆきました。

彼は苦しんでいたのです。

 

突然の死と生存伝説

1825年9月、アレクサンドル1世は48才の若さで突如崩御しました。

アレクサンドル1世の死/wikipediaより引用

訃報を聞いて、人々は彼をこう評します。

「強い魂に弱い性格を持っていた」
「北国のスフィンクス」
「帝冠を戴くスフィンクス」
「墓に入るまで、ついに理解されることのなかったスフィンクス」

彼の死そのものが不可解でした。
直前まで健康そのもので、体型も理想的。そのまま彫刻のモデルをつとめられそうなほど、美しい肉体を保っていました。

棺に入った遺体を見た人々は驚いております。
遺体は皇帝本人には見えなかった、そんな噂がささやかれました。

それから10年ほど経た1836年。
モスクワから1,600キロほど離れたペルミという村に、正体不明の老人が現れました。

彼は警察に拘束されたあと、老人はシベリアのトムスクという村に送られてしまいます。

フョードル・クジミッチと名乗るその老人は、賢明で親切で、信心深い性格でした。
粗末な格好をしており、髭におおわれているものの、よく顔を見ればなかなか端正。
さらにちょっとした仕草にも優美さが感じられるのでした。

次第に彼は住民から尊敬を集めるようになります。
彼と面会した人たちは、その優雅な身のこなし、堂々たる態度に感銘を受け、こう確信するのでした。

「この御方は、かつては身分の高い方であったに違いない」

フョードル・クジミッチ/wikipediaより引用

クジミッチは、記憶喪失状態で発見されたにも関わらず、よく昔話をしました。

「1812年の戦争は、大変なものだった。ナポレオンがモスクワに入場した時のことを、今でもはっきりと思い出せる。クトゥーゾフ、バグラチオン……将軍たちはよくやったものだ」

しかもクジミッチは祖国戦争のことを詳しく語るばかりか、参戦した将軍と個人的な面識があったように語ったのです。
流暢なフランス語を話す姿すら目撃されました。

あるとき、かつてアレクサンドル1世に仕えた兵士が、突如クジミッチを見てこう叫び出しました。

「俺たちのツァーリ様、この方はアレクサンドル様に間違いねえ!」

クジミッチは慌てて「そんなことを言うんじゃない!」と相手を制止します。
彼には冗談として受け流せなかった、ということでしょうか……。

謎の老人クジミッチは、亡くなるまで決しての本名を明かすことはありませんでしたし、彼が生まれたときから“フョードル・クジミッチ”であったと信じる者はおりませんでした。

1864年、87才で天寿を全うしたクジミッチ。
死後は「スターレツ(霊的な父)」という聖人に準ずる称号を贈られました。「スターレツ」の住んでいた家の周囲では、奇跡がたびたび目撃されたのです。

ニコライ2世も皇太子時代日本旅行の帰路において立ち寄り、祈りを捧げました。
一体、これはどういうことなのでしょうか。

「アレクサンドル1世は世を倦むあまり、死を装って隠遁したんだよ!」
「な、なんだってー!」

そんな伝説が、ロシアでは広まっていきました。
なんだか明智光秀=天海説のようです。

しかもです。
後世には「スターレツ」の住んでいた家の跡地に、「聖アレクサンドル」を讃える教会が建てられました。

伝説を通り越して、ついに認められてしまったのです。

スターレツの家あとに建てられた教会/photo by Maximaximax wikipediaより引用

しかし、ご安心ください。

この伝説は、すっきりと解決する方法があります。
アレクサンドル1世の墓を開ければ解決できるはずです。

ニコライ2世界皇女アナスアシアの生存説も、遺体調査によって否定されています。

ロシア革命で追われた最後の皇帝・ニコライ2世 イパチェフ館の地下で銃殺される

実はアレクサンドル1世の墓は、ソヴィエト政府によって発掘調査が行われているのです。

そしてその結果は
「墓は空であった、あるいは何者かが墓を荒した兆候を発見した」
という結果という……またしてもモヤモヤする答え!

謎が解けたのであれば結果を発表しないはずがないわけでして、これまた何とも……。

さらに2015年には、
「アレクサンドル1世とクジミッチの筆跡には、同じ癖が見受けられる」
と発表されました。

謎は解決するばかりか、深まるばかり。
最後の解決手段としてはクジミッチの遺体鑑定があります。
将来的に実施する可能性はあるようですが、まだ着手はされていません。

生前もミステリアスであった皇帝は、死後も今なお巨大なミステリーを我々に突きつけてきます。
墓に入っても、彼のことを理解できる者はいないのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『アレクサンドル1世』アンリ・トロワイヤ

 



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