室町時代でも「ナントカの乱」が頻発する頃合いになると、もはや「戦国時代」と言ったほうが正しい気がしてきます。
特に関東で「ナントカ公方」まで乱立するようになると、後世の我々からすれば「さすがに争い多すぎ!」と驚くほど。
なぜ、さほどに戦いが続いたのか?
今回は関東で実に28年間も続き、文明14年(1483年)11月27日に終結した大騒動【享徳の乱】を見てまいりましょう。
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まずは享徳の乱を三行マトメ
まずはこの戦を無理に【三行】でまとめてみます。
・永享の乱後、鎌倉府の再興で大失敗
・関東のあっちこっちの大名がどさくさに紛れてお家騒動
・大規模な戦は収まったけど、関東は小国乱立状態が定着したまま戦国へ
みたいな感じです。
とにかく関係者が多いのでこんがらがりやすいのですが、最低限に省略してお話を進めます。そうでないと何万字書いても終わらない(´・ω・`)
事の発端は【永享の乱】でした。
永享の乱と享徳の乱は、中心人物が敵対関係ごとそのまま世代交代したような話なので、とても関連が強い出来事同士です。
例えば国史大辞典では、まとめて永享の乱の項目に書かれていたりします。
永享の乱については以下に別記事もございますが、
永享の乱で関東に火種を大量投下~そして鎌倉公方・足利持氏は切腹へ
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次項にて、サラッと確認しておきましょう。
永享の乱をおさらいしましょう
室町幕府の機関の一つとして「鎌倉府」というお役所があります。
その名の通り鎌倉に置かれていて、幕府の目が届きにくい東日本の統治をするための部署です。
ここのトップである関東公方の地位は、初代将軍である足利尊氏の次男・足利基氏の子孫が代々世襲することになっており、しばらくは問題なく務めておりました。
補佐役の関東管領は、これまた世襲で上杉氏が担っています。
対立のキッカケは、六代将軍・足利義教と四代目鎌倉公方・足利持氏が不仲になったことです。
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両者の争いは、次第に「幕府vs鎌倉府」という構図に発展。
足利持氏が、関東管領・上杉憲実を排除しようとしたことがキッカケとなって争いが激化し、その結果【永享の乱】というカタチで滅ぼされました。
更には、持氏の遺児を擁した結城氏vs幕府の「結城合戦」を経て、「関東はしばらく上杉氏が統治する」ということで一旦は落ち着きました。
しかし、です。
このタイミングで、また大きな騒動が起きます。
将軍・義教が【嘉吉の乱】によって赤松満祐に暗殺されてしまったのです。
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鎌倉府を押さえつける力の源泉だった義教がいなくなり、今度は関東が【半独立化】する事態となりました。
とはいえ、関東の大名の中にもこの状況を憂えている人はおり、彼らが
「持氏様のご子息である足利成氏(しげうじ)様を、新たな関東公方にしていただけませんか」
と申し出ると、幕府からも許しが出て、ようやく鎌倉府は元の形に戻った……ハズでした。
新たな関東管領に就いた憲忠 その家臣が……
新たな関東管領には上杉憲実(うえすぎのりざね)の息子である上杉憲忠が就いています。
憲実はもともと鎌倉府と幕府の間に立って仲裁しようとしていたので、主筋である足利持氏を討つことは不本意であり、後ろめたさを抱いておりました。
そのため憲実は、息子の関東管領就任に反対していたのですが、憲忠は父親ほど思いつめてはいなかったようで、自らの就任を押し切ります。
一方、足利成氏からしてみれば、上杉氏は父の仇にも等しい存在です。
そのため、関東管領である憲忠よりも、結城氏・里見氏・小田氏など周囲の実力者たちを重用するようになりました。
当然、上杉憲忠はこれに反発します。
そして上杉氏の家臣たちが結城氏らの勢力拡大を阻止するため、足利成氏を攻めるという暴挙に出ます。
「ウチの殿様は関東管領なんだから、こっちを優遇してください!」と脅し(物理)をかけたわけですね。
そんなことをされて成氏の心象が良くなるわきゃーない。
脅されて言うことを聞くような人だったら、そもそも上杉氏を冷遇しようなんて思わないでしょう。
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