享徳の乱

合戦・軍事

享徳の乱1455年|なぜ足利vs上杉は関東で28年間も争い続けたのか

2024/11/26

幕府という中央政治機関があったのに、なぜか「ナントカの乱」がずっと起きている室町時代。

「もう戦国時代扱いでいいんじゃない?」とツッコミたくなってきますよね。

さらに関東に目を向けると「◯◯公方」まで乱立していくのですから、後世の我々としては「室町幕府って何なんだ?」とツッコミたくなってきます。

今回はそうした戦乱の一つ。

関東で28年間も続き、文明十四年(1483年)11月27日にようやく終結した【享徳の乱】に注目してみましょう。

 


関東戦国時代の入口

まずは享徳の乱を無理やり【三行】でまとめてみるとしましょう。

・永享の乱後、鎌倉府の再興をしようとして大失敗

・関東のあっちこっちの大名がどさくさに紛れてお家騒動

・大規模な戦は収まったけど、関東は小国乱立状態が定着したままズルズル戦国時代へ突入

とにかく関係者が多いのでこんがらがりやすいのですが、最低限に省略してお話を進めます。

事の発端は【永享の乱】でした。

永享の乱と享徳の乱は、中心人物が敵対関係ごとそのまま世代交代したような話なので、とても関連が強い出来事同士です。

例えば国史大辞典では、まとめて永享の乱の項目に書かれていたりします。

永享の乱については別記事もありますので、詳しく知りたい方は以下の記事を併せてご覧ください。

永享の乱
室町幕府と鎌倉府が対立した「永享の乱」足利持氏の挙兵で関東に何が起こった?

続きを見る

ここではサラッとしたおさらいに留めます。

この「永享」とか「享徳」はもちろん年号なのですが、似ていてちょっと分かりづらいですよね。

しりとりのように「永”享”→”享”徳」と覚えるといいかもしれません。

 


永享の乱をおさらいしましょう

室町幕府の機関の一つとして「鎌倉府」というお役所がありました。

その名の通り鎌倉に置かれていて、京都にある室町幕府の目が届きにくい東日本の統治をするための部署です。

ここのトップである鎌倉公方の地位は、初代将軍である足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が代々世襲することになっており、いくらかのトラブルはあったものの、概ね問題なく務めいました。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用

鎌倉公方の補佐役である関東管領は、これまた世襲で上杉氏が担っています。

上杉氏は足利尊氏の母の実家であることから、特別な一族とみなされていたためです。

二代将軍・義詮と基氏は同母兄弟だったこと、【観応の擾乱】という父と叔父の戦いを間近に見てきたこともあってか、幕府と鎌倉府の関係を良好に保とうと努力していました。

しかし、世代が下るにつれて

鎌倉府側が幕府への反発心を強めていき、そのたびに関東管領が諌める

という構図が定着してしまったのです。

そして六代将軍・足利義教と四代鎌倉公方・足利持氏の代に大爆発します。

持氏がときの関東管領・上杉憲実(のりざね)を排除しようとしたことがキッカケとなって争いが激化し【永享の乱】が勃発しました。

これに対し、幕府は

「非のない憲実を処罰するとはどういうことだ!」

と問題視し、持氏討伐の軍を出しました。

持氏の自害によってこの乱は終結しましたが、次は持氏の遺児を擁した結城氏vs幕府の【結城合戦】が勃発。

永享の乱の後に憲実は出家・隠居していたのですが、幕府は彼の能力を惜しんでたびたび復帰を命じました。

しかし持氏を救えなかった憲実は断固拒否。息子たちにも関東管領に就くことを禁じるほどでした。

 

将軍暗殺!

このタイミングで、また大きな事件が起きます。

将軍・義教が【嘉吉の乱】によって赤松満祐に暗殺されてしまったのです。

足利義教/wikipediaより引用

鎌倉府をガッチリおさえつけていた義教がいなくなり、今度は関東が半独立化する事態となりました。

とはいえ、関東の大名の中にもこの状況を憂えている人はおり、彼らが

「持氏様のご子息である足利成氏(しげうじ)様を、新たな関東公方にしていただけませんか」

と申し出ると、幕府からも許しが出て、ようやく鎌倉府は元の形に戻った……ハズでした。

新たな関東管領には、上杉憲実の息子である上杉憲忠が就いています。

憲実はもともと鎌倉府と幕府の間に立って仲裁しようとしていたので、主筋である足利持氏を討つことは不本意であり、後ろめたさを抱き続けていました。

そのため憲実は、息子の関東管領就任に反対していたのですが、憲忠は父親ほど思いつめてはいなかったようで、自らの就任を押し切ります。

一方、足利成氏からしてみれば、上杉氏は父の仇にも等しい存在です。

一時は実務と遺恨は別と考えていたのか、憲実の復帰を求めたこともあったのですが、次第に関東管領である憲忠よりも、結城氏・里見氏・小田氏など周囲の実力者たちを重用するようになっていきました。

これには、幕府が

「今後、鎌倉府からの連絡は必ず上杉憲忠を通すこと」

と命じたことにより、成氏が悪印象を持ったことがきっかけだったようです。

当然、憲忠は反発。

そして上杉氏の家臣たちが「結城氏らの勢力拡大を阻止するため、足利成氏を攻める」という暴挙に出てしまったのです。

「ウチの殿様は関東管領なんだから、こっちを優遇してください!」と脅しをかけたわけですね。

でも、そんなことをしても成氏からの心象が良くなるわけないですよねぇ。

脅されて言うことを聞くような人だったら、そもそも上杉氏を冷遇しようなんて思わないでしょう。

 


幕府の命で今川範忠が出陣

不穏な空気が漂う中、享徳三年(1454年)11月に関東で「享徳地震」と呼ばれる大地震が発生。

主な被害地域は会津・上野・上総とされますが、この地震の被害規模はまだ明確にわかっていません。

これほどの広域が被害を受けたのなら、関東各所も多かれ少なかれ影響を受けたのは間違いなく、各地の武士がその対応に追われたであろうことも想像に難くありません。

年末になり、足利成氏と里見氏・武田氏が、憲忠とその側近を暗殺したことからも、混乱ぶりがうかがえます。

そしてこれが【享徳の乱】の引き金となりました。

関東管領の座は、直ちに憲忠の弟・上杉房顕(ふさあき)が継ぎ、彼は従兄弟である越後守護・上杉房定と組んで、上野平井城に籠もります。

家同士でみれば過去の因縁があるとはいえ、憲忠本人は真面目に仕事をしていたわけですから、房顕たちが黙っていられないのも当然のこと。

このとき、鎌倉付近にいた上杉氏の重臣・長尾景仲は、憲忠の妻など生存者を救出し、地元の上野に戻って兵を集めています。

そして足利成氏vs上杉房顕の戦いとなるわけです。

関係をおさらいしておきましょう。

・足利成氏にとって上杉房顕は「父の仇の息子」

・上杉房顕にとって足利成氏は「兄の仇」

怨恨がそのまま世代交代したような形ですね。

こうして戦が始まり、初戦の【分倍河原(ぶばいがわら)の戦い】は上杉方の惨敗。

このころ上杉氏には「山内家」と「扇谷家」という二つの系統があったのですけれども、なんと扇谷家の主要人物がほとんど命を落としてしまったほどです。

前述の長尾景仲はどうにか生き延びました。

長尾景仲/wikipediaより引用

が、政治が総理大臣一人でできないのと同様、戦も武将一人ではできません。

ひとまず常陸の小栗城へ逃れ、同時に幕府へ憲忠暗殺の報告と、足利成氏討伐を求める急使を立てました。

幕府のほうでも事態を重く見て、直ちに駿河守護・今川範忠(今川義元の曽祖父)に出陣を命令。

しかし、今川軍が合流する前に小栗城が落ちてしまい、上杉方は窮地に立たされていきます。

 

鎌倉を奪われ「古河公方」始まる

成氏はついでに宇都宮等綱(うつのみや ひとつな)を降すなど、転戦を続けました。

しかしここで、留守にしていた本拠地・鎌倉を今川範忠に奪われてしまいます。

「足元がお留守」とはまさにこのこと。

範忠は六代将軍・足利義教のおかげで今川氏の当主になれたようなものだったので、幕府に対する忠誠心が非常に厚い人でした。

しかもこのときは、朝廷から「錦の御旗」まで受けているので、気合の入れようが違います。

さらに範忠の妻は扇谷上杉家の出身ですから、上杉氏全体が縁戚といっても過言ではありません。

もともと鎌倉は、守りやすく攻めにくい場所です。

一度取られたら取り返すのも大変。

このとき、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟・成潤(せいじゅん)は、なんと日光山まで逃げ、上杉方についています。

つまり、鎌倉には足利氏の人間がいなくなってしまった……という、なんとも締まらない展開になったわけです。

これにより足利成氏は鎌倉に戻るのを諦め、古河(現・茨城県古河市)に落ち着きました。

この後から持氏は「古河公方」と呼ばれるようになります。

◯◯公方乱立の始まりです。

 

世はまさに下剋上

関東を抑えるべき鎌倉公方&関東管領がこんな状態ですから、他の勢力もとても大人しくはしていません。

同地方の大名たちは

「よし、今うまくやれば俺のシマを広げられるぞ!」

「今のうちに本家の家督を奪ってやろう!」

といった野望を抱いて、次々に動き始めます。

例えば千葉氏では、分家の人たちが本家を倒して家督を奪い、宇都宮氏では当主・宇都宮等綱が重臣に裏切られて本拠の宇都宮城を奪われました。

まさにThe・下剋上!

上杉方が不利になりつつある中、関東管領・上杉房顕は諦めずに武蔵へ入り、足利成氏と戦い続けます。

こうして、当時、江戸湾(東京湾)へ流れていた利根川を境として、

古河公方・足利成氏方

vs

関東管領・上杉方

という勢力に分かれました。

現在の利根川は渡良瀬川などと合流して太平洋に繋がっていますが、この状態になったのは、江戸時代の治水工事で大きく流れを変えられてからのこと。

室町・戦国時代の利根川は、荒川と合流して江戸湾(東京湾)へ流れていました。

現在の地名でいえば、江戸川と荒川の間あたりが成氏方と上杉方の境目です。

あるいは「両国」という地名が「下総・武蔵両国の境目」という語源ですから、「現在の両国国技館・江戸東京博物館あたりが境目」と考えてもいいかもしれませんね。

旧国名だと、

常陸・下野・下総・上総・安房あたりが成氏方

武蔵・下野・相模あたりが上杉方

であり、関東が東西に分かれたような形です。

鎌倉のある相模が上杉方になっているあたり、「成氏、やっちまったな」という感がありますね。

 

やる気を見せた義政だが

勢力が2つに分かれて戦う――というのは、現代の我々にとってはわかりやすい構図です。

しかし、当時の幕府としてはたまったものではありません。

ときの将軍は八代・足利義政。

応仁の乱あたりからどんどん仕事をやらなくなっていくあの人ですが、この頃はまだやる気がありました。

足利義政/wikipediaより引用

義政は「まず成氏を正式にクビにし、私の異母兄である政知を新たな鎌倉公方に任じて、事を収めよう」と考えます。

政知には上方にいた山内上杉家の面々などをお供に付けて東下させたのですが、関東の武士たちからは

「京から来たお偉いさんが、俺たちのシマに口と手を出そうとしている!そんな勝手なことさせてたまるか!」

と受け取られてしまい、彼らの支持も協力も得られず、鎌倉に入ることすらできませんでした。

足利政知は大きな対立を避け、鎌倉からだいぶ離れた伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に入り、そこで「堀越公方」と呼ばれるようになります。

義政はこの知らせを受けて関東へ軍を差し向けようとしますが、よりによって総大将を命じた守護大名・斯波義敏が

「身内のゴタゴタを収めるために、命令をほっぽりだして地元の越前に行ってしまう」

という出鼻のくじかれっぷり。

ちなみに義敏はこの件で当然義政に激怒され、隠居させられています。ダメ過ぎますね。

今川氏は政知に味方したものの、このころ代替わりなどがあり、戦力としては充分とはいえない状態でした。

こういった流れは、義政の意欲を削ぐ一因にもなります。

そりゃ、何かやろうとするたびに水を差されるのですから、

「もう俺が動かないほうがいいんじゃないか?」

「真面目にやろうとしてもどうせ無駄に終わる」

と思いたくなるのも当然ですね。

かつてご先祖の足利尊氏が切腹しかけるたびに、弟の直義や高師直などがやる気を出させていたように、義政にもうまく叱咤してくれる人がついていてくれれば良かったのですが……。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用

一方その頃、関東管領である上杉房顕は、長禄三年(1459年)からの【五十子の戦い(いらこorいかご/現・埼玉県本庄市)】において、またもや成氏方にボロ負けしていました。

双方がこの付近に忍城(おしじょう)・深谷城・関宿城などを築き、最前線となっています。

忍城は後に豊臣 秀吉の小田原征伐の際、石田 三成が攻略を任され、水攻めをしたことで有名になるところです。

近年では小説映画『のぼうの城』の舞台としても知られていますね。

 

京都ではドデカイ戦が起きていた

そうこうしているうちに寛正七年(1466年)秋、上杉房顕が戦場の五十子で病にかかって亡くなりました。

享年32という若さでもあり、状況的にもきな臭いどころじゃない時期ですので、いろいろと疑わしいところですが……亡くなったのが真冬なので、インフルエンザにでもかかったのかもしれません。

房顕の訃報を聞いた幕府では「房顕のイトコである上杉房定の子・上杉顕定(あきさだ)を房顕の養子ということにして、跡を継がせよ」と命じます。

戦中の代替わりはなかなか難しいものですが、上杉顕定は頑張りました。

応仁二年(1468年)の【綱取原合戦】で上杉方が勝利を収めたのです。

これは「タイミングが良かった」という面もありました。

……皆様、お気づきでしょうか。

この一年前の1467年に上方では【応仁の乱】が始まっているということに。

『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用

当然、幕府は関東へ兵を送るどころではありません。そもそも義政もやる気をなくしています。

しかし、こんなに西も東も戦をやっていて、よく国が保てたものです。

大陸国家だったらあっという間に外国から攻められて、滅亡一直線でしょうね。

その心配がなかったからこそ、悠長に身内闘いを続けてしまったんでしょうか……。

 

本拠地を奪われ取り戻すって……

閑話休題。

そのうち成氏方から上杉方に寝返った岩松氏内のゴタゴタも片付き、少しずつ上杉方が有利になり始めます。

一方で文明三年(1471年)、海を渡った足利成氏が、千葉氏・小山氏・結城氏らを率いて伊豆へ侵攻し、足利政知が敗れるという出来事がありました。

これは上杉方にとっても手痛いところですが、ピンチをチャンスに変えるのも名将です。

上杉方のトップである顕定は「ん? 今なら成氏方の主力が留守ってことだよな?なら、古河を落とせるんじゃね?」と気付き、総攻撃をかけて古河を落としました。

「上杉」+「戦が上手い」というと、やはり上杉謙信を連想してしまいますが、他にも名将がいるのは古くからの名家ならでは……という感じがしますね。

顕定はそのまま下野の攻略に成功したものの、成氏も負けていません。

ド根性で古河を取り返しています。

というか、一時とはいえ本拠を留守にして政知を殴りに行くあたりがよくわからないんですよね。

何を得たくて戦っているのか、全くわからなくなってきてます。

古河公方館址/wikipediaより引用

例えば、幕府から独立したいのなら、東北の大名を味方につけるとか、西国の大名に連絡を取って幕府の背後をつついてもらうとか、いろいろ戦略は取れたはずなのです。

これは「遠交近攻(えんこうきんこう)」といって、古くからある戦略ですので、どちらの陣営も聞いたことくらいはあったでしょう。

また、上記の通りこの間に上方では改元されて【応仁】になっていたのですが、成氏は【享徳】を使い続けています。

トーチャンと同じことばっかりしてますね。悪いとこばっかり似なくてもいいのになぁ。

 

28年かけて和睦 将軍家はズタボロ

さらにややこしいことに、ここで上杉氏の内紛が絡んできます。

上杉氏の有力家臣の一人・長尾景春が執事(上杉氏のナンバー2にあたる役職)になれなかったことを恨んで兵を挙げ、文明九年1月(1477年2月)に五十子を落としてしまったのです。

これを【長尾景春の乱】といいます。まんまですね。

ここで大活躍したのが、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌です。

太田道灌/wikipediaより引用

最初の江戸城を築いたことで有名なあの人ですが、江戸城はこの乱の中で上総方面への防備のために造られたのでした。

現代でも皇居と両国は4kmも離れていませんので、当時の勢力図がうかがえますね。

危機感を抱いた顕定は、文明十年(1478年)に成氏と和睦。そりゃ自分の家の中がヤバイときに対外戦争なんてできないですよね、普通は。

この頃に上方でも応仁の乱が一応終結したため、幕府からも和睦が提示されました。

そして文明十四年11月(1483年1月)に

「関東は成氏が治めるが、伊豆だけは政知が支配する」

ということでようやく話はまとまり、享徳の乱は終結しました。

しかし、成氏は相変わらず古河に留まり、政知も権利を認められたからには堀越を動けず、「鎌倉府」は名実ともに消滅。

以降、鎌倉という地名自体が歴史の表舞台にほぼ出てこなくなってしまいます。戦火に巻き込まれにくくなってよかった、とも考えられますけれども。

それでなくても、災害に遭いやすい土地ですしね。

話が丸く収まって何よりといいたいところですが、ここまでに要した時間は実に28年。

原因がしょーもない割に時間がかかりすぎ&犠牲者が多すぎることからすると、「めでたしめでたし」とは言い難いわけで……。

ちなみに関東で【享徳の乱】をやってる間に、前述の通り上方では【応仁の乱】が始まって(一応先に)終わっています。

しかしそれは室町幕府が

「関東を任せたはずの将軍の身内も、将軍自身もケンカを収められず戦が長引いた」

ことを意味します。

そして応仁の乱以降の将軍家がナメられ、戦乱が常態化する要因にもなりました。

そりゃそうだ。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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