今回は22話に引き続き、斎藤氏の内部事情から始まります。
★
斉藤道三には三人の息子がいて、親子四人で本拠の稲葉山城に住んでいました。
しかし、長男・義龍はある疑いから道三を恨んでおり、道三もまた義龍のことを暗愚だと考えていたため、親子仲はいいとはいえない状態。
義龍の疑念というのは以下の通り。
「自分は実は道三の子ではなく、正当な美濃守護である土岐頼芸の子か」
なぜかというと、義龍の生母・深芳野(みよしの)が、かつて頼芸の愛妾だったからです。

『麒麟がくる』深芳野イメージ(絵・小久ヒロ)
深芳野は道三に下げ渡される前に義龍を身ごもっていて、生まれたのがその後だっただけ――そんな話を、幼少期の義龍に誰かが吹き込んだとか。
逆に「道三様はかなり早くから深芳野と通じていたので、貴方は間違いなく道三様の息子です」という人もいたようです。
いずれにせよ日頃から道三が弟の孫四郎と喜平次を目にかけ、義龍にあまりいい扱いをしていなかったことも影響もありました。
恨みが幾重にも重なった末の仲違いでしょう。
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父親違う説は江戸時代の書物が初出
いつしか義龍は
「父の仇である道三を討つ!」
という、揺るぎない目的を持つようになってしまった。
現代では、そんなストーリーで広く知られています。
しかしこの「出生の秘密で親子仲が悪くなった」という話、江戸時代の書物が初出なのです。
ただ、あまりにもしっくりくる理由ですし、ドラマチックでもあるので、創作ではよく用いられています。
信長公記には
「義龍は道三・頼芸どちらの子なのか」
「義龍は自分の出生を疑っていたのか」
という話は書かれていません。
まぁ、そんな話が太田牛一のいた尾張まで広まっていたら、信長はともかく別の家が美濃を攻略にかかっていたかもしれません。
最近では「血筋云々ではなく、当主を譲り重臣と対立しながらも、実権を手放さない道三を始末するために、重臣たちが義龍への完全な代替わりを狙った」という説も出てきました。
これはこれで戦国時代ではいかにもありそうな話です。
病のフリして弟を呼び出し、ブスリッ!
経緯はともかく、斎藤氏の内部が不穏な空気になっていたのは間違いありません。
父である道三が長男の義龍をないがしろにしていたため、弟二人も右へ倣えとばかりに、似たような態度を取っていたといわれています。
当然、義龍にとっては面白くない日々。
仮病を使って、天文二十四年(1555年)10月13日から自室に引きこもり、寝たきりになったふりをしていました。
そしてしばらく経った同年11月22日、道三が稲葉山の下にある私宅へ出かけたとき、義龍は行動を起こします。といっても、本人は物理的にはほぼ動いていませんが。
まず、義龍らにとっての伯父(道三の兄)である長井道利を使者として、弟二人にこう伝えました。
「自分は病が治る見込みがなく、もう長くない。最後に対面して言いたいことがあるので、こちらまで来てほしい」
首尾よく孫四郎と喜平次がやってくると、義龍は食事でもてなすフリをします。
そして背後から、ブスリ……と、二人を斬りつけ、殺してしまったのです。
実行したのは家臣の日根野弘就(ひねの ひろなり)でした。

さらに義龍は、このことを道三に知らせて事実上の宣戦布告をしました。
上記の通り、この時点では道三一人だけが稲葉山城の外にいる状態。
つまり、道三自ら堅牢にした稲葉山城を、次男・三男の命ごと義龍に奪われた形になります。
道三軍と義龍軍の兵力差はなんと6.5倍
さすがの道三も驚きました。
と同時に兵を集め、稲葉山の城下を焼き払って、まずはその場から逃げます。
道三は長良川を越えた先、山県郡の大桑城で冬を越し、時節を待ちました。
弘治二年(1556年)4月18日――雪解けの後、ついに「そのとき」がやってきました。
道三は鶴山に陣を張り、信長もこれに呼応して、木曽川・長良川を渡ったあたりへ布陣。
武将としての才覚は道三のほうが義龍より上だったかもしれませんが、いかんせん道三は、美濃を奪うまでに恨みを買いすぎていました。
そして義龍は、土岐氏の血を引いているかもしれない人物です。このため、道三にさまざまな辛酸を嘗めさせられていた美濃の主要な武士は、こぞって義龍に味方したといいます。
結果、道三軍と義龍軍の兵力差はなんと6.5倍ほどにも膨らみました。
当然、多いのは義龍軍です。
戦闘開始時点でこそ、道三軍も奮闘していましたが、やがて本陣にまで切り込まれてしまいます。道三自身も刀を奮って戦ったようですが、寄る年波も相まってついに討たれました。
信長の援軍と合流する前のことでしたので、信長軍は道三本陣の状況はわかっていなかったようです。
当時の通信手段を考えれば、致し方ありません。
出家した義龍が名乗った「范可」とは?
道三の首は、すぐに義龍の元へ届けられました。
さすがに衝撃を受けたのか。

斎藤道三/wikipediaより引用
道三の首を見た後、義龍は出家して「新九郎范可(はんか)」と名乗るようになった……と信長公記には書かれていますが、実は范可を名乗るようになったのは道三を殺す前からでした。
牛一が知らなかったか、あるいは美々しく話をまとめるために操作したのかもしれません。
范可とは、昔の中国で「やむを得ない事情で父を殺した人物」であるとされています。
しかし、この名前で父殺しの逸話を持つ人物の話はみられません。范姓の人物は歴史上複数人いますが、当てはまる人がいないのです。この話自体が、義龍の創作かもしれませんね。
前例があれば、
「昔似たような人がいたんだから、俺がやることも間違いじゃない」
と主張できます。
また、「可」の字は「あたら」とも読みます。
この場合「残念なことに」や「惜しむべきことに」といった意味があるから、辻褄が合います。
義龍が「范可」という名前を使ったことは間違いないので、何らかの意図はあるでしょう。
それがわからないことが、現代の我々にとっては惜しい話です。
この後、少しだけ信長軍と義龍軍の戦闘がありました。それについてはまた次の24話へ。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ





