「れきしクン」こと長谷川ヨシテルです。
全国的には無名ながら、ある地域ではバツグン知名度の“ご当地武将”をご紹介している当連載。
今回はレペゼン兵庫県朝来市の斎村政広(さいむらまさひろ)さんです!
この方自体はなかなかマイナーな存在ですが、城主を務めたお城は日本のみならず世界規模で有名になりました。
GoogleのTVコマーシャルで注目された“天空の城”こと「竹田城」です!
慶長五年(1600年)10月28日は、そんな斎村政広さんの命日。
一体どんな生涯を送ったのか、振り返ってみましょう!
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斎村政広を神格化した虎臥大明神祭
竹田城――この超メジャーなお城の最後の城主となったのが、実は斎村政広さんです。
雲海に浮かぶ見事な石垣を築いたと言われているのもそう。
なのに、全く知られていない!
なんだか、めちゃくちゃ興味をそそられませんか?
竹田城のお殿様として善政を敷いて、養蚕業や漆器産業を奨励したことから、当時の領民からは“仁政の主君”と慕われていたと伝わります。
また現在、朝来市の代表的な産業に「家具づくり」があるのですが、実は斎村政広さんが漆器作りのために職人を呼んだことから始まったと言われています。
◆朝来市の産業(→link)
彼は江戸時代にも人気があったらしく、寛延2年(1749年)には斎村政広さんの150回忌である「虎臥(とらふす)大明神祭」が行われ、竹田城に小さな社が建立されたそうです。
残念ながらこの社は今は残っていません。
ただ、文化元年(1804年)に書き写された竹田城の絵図には、本丸曲輪に小さな祠が描かれており、それが斎村政広さんを祀る社だったのかもしれません。
この虎臥大明神というのは斎村政広さんの神号で、虎臥は竹田城の別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」に由来するものです。
寛政11年(1799年)の200年祭では、登城口に虎臥大明神の額が掲げられた鳥居が2つ建立。
それから毎年、斎村政広さんを神格化した虎臥大明神祭が行われ、現在まで続けられています。
◆竹田城の履歴書 広秀への思い 今も昔も/朝日新聞(→link)
それでは、謎多き天空の城、そのラスト城主である斎村政広さんの生涯に迫って行きましょう!
出身は赤松家 侍所頭人を務めた名門
まずは当連載恒例『信長の野望 革新』で斎村政広さんの能力値を見ておきましょう。
【信長の野望 革新】
斎村政広データ
統率45
武勇46
知略36
政治63
うーむ、弱い!(笑)
ただ、地元の産業を興したり、竹田城を現在の形に改築したためでしょうか。政治力は少し高めとなっております。
合戦に必要な能力が低めなのは、関ヶ原でのテンヤワンヤなハプニングがあったためかなーと思います。
それでは本題へ……と、その前にもう1つ!
お気づきになったでしょうか?
先ほどの朝来市や朝日新聞のページには「赤松広秀」という名で登場しています。
斎村政広と名乗るのは少し後のことで、順番に
「赤松広英」
↓
「赤松広秀」
↓
「斎村政広」
と名乗ったとされています。
赤松家というと、室町幕府の侍所(幕府の軍事・警察を担った機関)で頭人(長官)を務めた有力大名。
嘉吉元年(1441年)に室町幕府6代将軍の足利義教を暗殺(嘉吉の乱)した「赤松満祐」もよく知られていますね。
足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世
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室町時代に播磨(兵庫県)を拠点としていた赤松家は、この反乱で一度没落したものの、その後に復興して戦国時代に突入します。
斎村政広さんの実家は、龍野城(兵庫県たつの市)の城主を務める、赤松家の分家でした。
四国征伐で武功を挙げ大名に復帰
永禄5年(1562年)に生まれた斎村政広さん。
父(赤松政秀)が1570年(元亀元年)に亡くなり、兄(赤松広貞)も早世したため、幼くして龍野城・赤松家の当主となります。
この時すでに天下の中心は織田信長です。
播磨にもその影響が及び、織田家に付くか否かの選択を迫られると、斎村政広さんは信長に従う道を選びました。
【長篠の戦い】が起きた天正3年(1575年)に謁見し、天正5年(1577年)に織田家の羽柴秀吉が中国地方に攻め込んでくると、すぐさま居城の龍野城を明け渡します。
ちなみに、斎村政広さんが信長に謁見する前、いち早く信長に臣従する道を選び、岐阜城に赴いた播磨の武将に黒田官兵衛(如水)がいます。
黒田官兵衛は自分が謁見した後に、主君である小寺政職を信長に謁見させたのですが、これに同行したのが斎村政広さんでした(ほかに三木城の別所長治)。
龍野城を明け渡した斎村政広さんは家臣の領地である佐江村(「才村」とも/たつの市揖西町佐江)で自主謹慎します。
このとき地名から名字を取って「斎村」に改めたといいます。
ところが、です。
その後、龍野城や領地は、残念ながら没収。
わずかな領地を与えられると、羽柴秀吉の重臣・蜂須賀正勝の軍勢に加わることとなり、毛利家との戦いに参戦しました。
1582年(天正10年)【備中高松城の戦い】での水攻めにも蜂須賀軍として参加しています。
その後
【賤ヶ岳の戦い】
【小牧長久手の戦い】
には羽柴秀吉の軍勢に付き従いました。
そして、1585年(天正13年)に長宗我部元親を攻めた【四国征伐】で武功を挙げ、
再び城持ち大名へと復帰することになります。
このとき新たに与えられたお城が、竹田城だったのです。
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