竹田城最後の城主・斎村政広

戦国諸家

家康に切腹させられた竹田城最後の城主・斎村政広~実は土壇場で裏切られていた?

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斎村政広
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正室は秀家の妹 豊臣政権では順風満帆

上司だった蜂須賀正勝の蜂須賀家が阿波(徳島県)の大名になり、竹田城主になった斎村政広さんは豊臣秀吉の直属家臣となりました。

島津義弘を攻めた1587年(天正15年)の【九州征伐】にも参戦。

26歳となった斎村政広さんは、豊臣秀吉の勧めで宇喜多秀家の妹を正室に迎えることとなりました。

宇喜多秀家は、豊臣秀吉の養子となって、後に豊臣政権の「五大老」に指名された人物です。

正室の年齢はハッキリとは分かりませんが、宇喜多秀家が1572年(元亀3年)生まれなので、斎村政広さんとは一回りほど年齢差があったと思われます。

宇喜多秀家/wikipediaより引用

こうして、豊臣秀吉一派の大名となった斎村政広さん。

小田原征伐】や【文禄の役(第一次朝鮮出兵)】にも参戦し、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなった際には遺品として金5枚を与えられています。

豊臣政権下ではまさに順風満帆ですね。

しかし……関ヶ原の戦いが勃発して、斎村政広さんの運命は一変します!

 


田辺城を開城させたまでは良かったが

運命が一変した!

そう言っておいてなんですが、斎村政広さんは関ヶ原の本戦には参加していません。イキナリで申し訳ありません。

【関ヶ原の戦い】というと、どうしても美濃の関ヶ原本戦(岐阜県関ヶ原町)だけをイメージしてしまいますが、全国各地で東軍・西軍に分かれた戦いが繰り広げられています。

関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ】

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その中の1つに【田辺城の戦い】があります。

丹後の田辺城(京都府舞鶴市)に籠城する東軍の細川藤孝(別名・細川幽斎細川忠興の父)を西軍が攻めた合戦です。

攻城戦は2ヶ月近く行われ、最終的に後陽成天皇の勅使で開城となりました。

藤孝は「古今伝授」(古今和歌集の秘伝の解釈)を伝承されていたとされ、もしも合戦で彼が亡くなれば、歌道が廃れかねない――そう憂いた後陽成天皇が和睦を進めたんですね。

田辺城

この包囲戦の一角に斎村政広さんはいました。

田辺城の籠城兵数が約500だったのに対し、西軍は総勢およそ1万5,000という大軍。

斎村政広さん以外に西軍には、前田茂勝(五奉行の前田玄以の息子)や小出吉政(豊臣秀吉の従兄弟)や織田信包(信長の弟)などもいます。

江戸時代に作成された『田辺籠城図』を見てみると、斎村政広さんの別名である「赤松左兵衛」(左兵衛は斎村政広さんの官職名「左兵衛佐」のこと)を発見!

どうやら、田辺城の東南方面に布陣したようです。

地元メディアでも話題になった『田辺籠城図』/Maipress-マイプレス-より引用

田辺城を開城に追い込みながら、西軍は関ヶ原の本戦で大敗してしまいます。

「これはまずい……滅亡してしまう……」

そんな厳しい立場に置かれた斎村政広さんのもとへ、東軍の亀井茲矩からとある誘いが来ます。

「もし良かったら、共に鳥取城を攻めませんか?」

 


西軍についた失態挽回のため鳥取城へ

亀井茲矩はもともと、毛利元就に滅ぼされた尼子家の一族。

斎村政広さんと同じく豊臣秀吉の家臣となり、鹿野城(しかのじょう・鳥取県鳥取市)の城主を務めていた人物でした。

そして関ヶ原の本戦には東軍として参戦、合戦後は領地に戻って西軍に付いた鳥取城(鳥取市)の攻撃に取り掛かっていたのです。

鳥取城をなかなか攻め落とせない亀井茲矩は、旧知の仲である斎村政広さんに対し、徳川家康に許しを得るための手土産として「鳥取城を共に攻めよう」と誘ってきました。

斎村政広さんはこの誘いに乗り、すぐさま援軍として加わります。

鳥取城

城攻めには、ある常套手段があります。

城下町の焼き討ちです。

城下町を焼き払うことで、籠城した兵や逃げ込んだ住民たちの挑発や動揺を狙った作戦であり、例えば永禄12年(1569年)に武田信玄北条氏康の小田原城(神奈川県小田原市)を攻めた時も城下町に火を放っていますね。

結局、小田原城は落城していませんが、火を放つ作戦はごく一般的です。

織田信長の足跡を記した『信長公記』にも度々出てきます。

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