1615年2月3日(慶長20年1月6日)は戦国武将の高山右近が、フィリピンの首都・マニラで亡くなった日。
日本からフィリピンへ……というと、昨今は強盗事件の容疑者ルフィを思い浮かべてしまうかもしれませんが、右近が旅立った理由はもちろんそんなことではありません。
彼は武将であると同時に敬虔なキリシタンでもあり、洗礼名は「ジュスト」となります。
漢字で表記すると「寿子」らしく、なぜ二文字目、それにしたし……。
ともかく、右近は何のため海を越え、異国に没したのか?
ご想像通り、それには彼の信仰が関わっておりました。
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高山右近の高山家は三好に仕えていた
右近は摂津国(現・大阪府)の国人の家に生まれました。
国人とは正式な国主として認められてはいないものの、地元の有力者として勢力を持っていた人々のことです。国衆という言い方もします。
彼等一人一人の影響力は国を動かすほどではないけれど、かといって大名はこうした国人たちと上手く付き合わなければ国の運営は成り立たず、逆に国人の中には戦国大名へと発展するケースもいました。
有名な例では毛利元就とか、あるいは真田昌幸・真田信之・真田信繁親子あたりも大名化した国人に含まれるでしょう。
そんなわけで右近のトーチャン・高山友照も地元ではそれなりに名が知れており、近畿の有力な大名だった三好長慶に仕えていました。
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さらにその重臣・松永久秀からは大和国(現・奈良県)に城をもらっています。
本来の領地は摂津のままなので、飛び地のような感じですね。
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しかし、右近が12歳の頃に長慶が亡くなると、三好家では内紛やら裏切りやらのゴタゴタで急速に衰えていきました。
このころ両親と共にキリスト教の洗礼を受けており、もしかすると教えに感銘を受けただけでなく、こうした時勢の変化も影響していたのかもしれません。
惟政に反発して台頭してきた村重
一方、高山家の地元でも他の家が力をつけつつあり、緊迫した状況が続きました。
義昭は十五代将軍になると、まずは地固めということで摂津に自分の直臣である和田惟政(これまさ)を置きました。
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”将軍様”の意向には従わないといけないので、高山家も惟政に仕えることになったのですが……血筋的に正しいとはいえ、ついこの前まで逃げ回ってた人の家臣にそうそう人心がなびくわけもなく、余計に混乱を招いてしまいます。
そしてついに惟政へ反感を持つ人々が挙兵。
右近にとっても大きく関係することになる荒木村重です。
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村重は池田家というこれまた摂津の大名の家臣でしたが、主家を乗っ取った上で信長と連絡を取り、「摂津は私のものにしていいですよね!?」「おk」(超訳)というお墨付きをもらいました。
当然のことながら村重は大喜びし、いろいろ頑張った結果、摂津のうち石山本願寺領(だいたい現大阪市)以外を手に入れました。
首の半分を斬られて重傷って……
当然ながら、和田家がこれをよく思うはずもありません。
しかしこの間に代替わりがあり、跡を継いだ惟長がまだ若年ということで叔父さんが口を出してきます。
と、もうこの時点でイヤな予感がしますね。
案の定トラブルが起き、この叔父さん、殺されてしまいます。
惟長は次に信用できそうな人物として高山家を頼りましたが、和田家のお偉いさんはまたしてもこれが気に入らず、よからぬことを企み始めます。
そしてついに暗殺騒ぎとなり、右近は首の半分を斬られるという重傷を負ってしまうのです。
奇跡的に助かった右近はこの後、より一層信仰を深めていくことになります。
でもこの傷、暗いところでドタバタ騒ぎになったせいで起きた同士討ち(未遂)だった可能性もあるようで……。
事前に村重へ「何かウチら命狙われてるっぽいんですけど」と相談していたおかげで、この騒動の後、高山家はお咎めなしとなり、和田家がいた高槻城をもらうことができました。
ちなみに惟長は、和田家の地元である甲賀(現・三重県)まで逃げたそうで、そのままそこで亡くなったそうです。
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