今回の『信長公記』解説は、常見検校という小悪党の話です。
よりにもよって織田信長に対し、カネで悪行を見逃すような行為に走ります。
そんなことをすればすぐさま成敗されてしまいそうなものですが、結果は……。
※本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその187・188話目(巻十二 第十二・第十三節)となります。
前話は以下の通り。
謀将宇喜多と勝手に和睦をした秀吉 信長に叱られ 信長公記186話
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人康親王に遡る盲人の官位「検校」
天正七年(1579年)9月14日。
京都滞在中の信長のもとに、座頭たちからの訴状が届きました。
座頭というのは、遊芸や按摩・鍼治療などで生計を立てていた盲人のことです。
朝廷に認められた盲人の最高位を「検校(けんぎょう)」といいます。
なぜ盲人に関する職が明確に決められているのか?
というと、歴史的な由来があります。
平安時代初期の皇族・人康親王(さねやすしんのう)が若くして失明し、出家した後に周囲の人々へ琵琶や詩歌を教えていたそうです。
そして人康親王が亡くなった後、側仕えをしていた盲人に「検校」と「勾当(こうとう)」という位が与えられたことが、盲人の官位の始まりだとされています。
人康親王は、百人一首に入選している蝉丸のモデルではないか?ともいわれていますね。
他にも、受験勉強でおなじみの「琵琶法師」、芸能で生計を立てていた盲人の女性である「瞽女(ごぜ)」など、盲人が職を持って自活していたという話は日本史上数多く存在します。
ちょっと違ったところでは、徳川秀忠の母・西郷局が目を悪くしていたことから、盲目の女性を積極的に支援し、衣食を与えていたとも。
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これほど盲人に関する記録が多いのは、それほどかつての日本に視力を失った・著しく減退した人が多かったからなのでしょう。
現代の視覚障害が必ずしも失明を意味しないように、完全に失明した人だけでなく、強度の近眼や乱視、なんらかの色覚異常を持った人たちも「盲人」として扱われていたのかもしれません。
また、ビタミンAの不足など、栄養が原因で失明するケースは現代の開発途上国でもままあるそうですから、かつての日本でも似たようなことが起きていた可能性はあります。
ビタミンAが多く含まれる食材は、乳製品や卵、レバー、緑黄色野菜など。近代以前の日本では、ほとんど食されていなかったものばかりです。
断定はできませんが、要因の一つではあるかと思われます。
金貸し・常見の悪行
閑話休題。
こうした歴史的経緯があるため、当時の京都でも多くの盲人たちが職を持って暮らしていました。
とはいえ、人が集まれば何かしらの問題が起きるもの。
今回はそうした事件の一つです。
兵庫にいた常見(つねみ)というお金持ちの金貸しが、
「一生カネに困らない生活をしたい」
と考え、まず千貫文を積んで“検校の位”を買いました。
この時点で既に許せないヤツですが、さらには常見検校と名乗って京都に住み、現地の検校たちに千貫文を出させ、都で座頭たちなどを相手に金貸しを始めます。
こうして常見は贅沢に暮らしを続けられるようになりましたが、そもそも不正な位で金を稼いでいるというのがどうしようもありません。
また、常見と結託している他の検校たちも、借金の取り立てをする際、秤に細工をして余計に金を取ったりなど、不正行為を働いていました。
座頭たちは信長に訴えました。
「常見のように、賄賂を使って検校になるのは畏れ多いことです。検校たちの詐欺にも迷惑しています」
織田信長は座頭たちの言い分を認め、常見と検校たちを罰そうとします。
しかし、常見検校らが詫びを入れて黄金200枚を献上してきたため、赦免することにしました。
これだとまるで信長が買収されたかのようですが……。
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