延元四年(1339年)8月16日は、後醍醐天皇が崩御した日です。
後鳥羽天皇と並んで「鎌倉幕府と敵対した天皇」ということで、必ず習うお方ですよね。
一体どのような経緯で、倒幕を考えるようになったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
後醍醐天皇は中継ぎだったからこそ頑張った?
後醍醐天皇は正応元年(1288年)11月2日、大覚寺統である第91代天皇・後宇多天皇の第二皇子として生まれています。
そして文保二年(1318年)に即位するのですが、兄・後二条天皇の皇子である邦良親王が成人するまでの「中継ぎ」としての意味合いが強いものでした。
このとき後醍醐天皇は30歳だったにもかかわらず、父である後宇多天皇が三年間も院政をとったのも、その辺の念押しという意味があったのかもしれません。
しかし、このことは後醍醐天皇の皇子が天皇になれないことを意味します。
皇室も長子相続が基本です。
兄弟やイトコ、その他の親戚にあたる皇族が継承するのは、長子に皇子がいない場合のみ。
ゆえに今回の場合も特におかしい手順ではなかったのですが、後年の行動からすると、後醍醐天皇はこの部分に強くこだわっていたようです。
元享元年(1321年)からは親政に乗り出しました。
しかし、邦良親王が成人したこともあり、宮中からも鎌倉幕府からも「そろそろ譲位しません?(アンタ元々中継ぎだし^^)」(※イメージです)と圧力をかけられるように……。
これに納得できない後醍醐天皇は、まずは鎌倉幕府を潰して自身の皇位を脅かす勢力を取り除こうとします。
倒幕の動きは六波羅探題にアッサリばれて
後醍醐天皇は、各地の武士へ使者を送り、協力者を募りました。
と、これが鎌倉幕府の京都出向機関である六波羅探題にあっさりバレ、後醍醐天皇方の武家に対して討伐軍が差し向けられると、あっという間に処分されてしまいます。
後醍醐天皇自身は、鎌倉へ使者を送って処罰を免れ、このくらいで倒幕を諦めませんでした。
この一連の騒ぎを【正中の変】といいます。
密かに倒幕計画を練り続ける後醍醐天皇に対し、公家たちは冷ややかな視線を向けていました。
元々多くの公家が邦良親王派だったため、後醍醐天皇には宮中の味方も少なかったのです。
“地固めせずに外部へ味方を求めてしまう”というあたりが、一番の欠点のような気が……。
そのためなのでしょう。
元弘元年(1331年)、公家の吉田定房によって、二回目の倒幕計画が六波羅探題に密告されてしまいます。
定房としては後鳥羽天皇の前例を踏まえて、後醍醐天皇の身を案じたからこその行動だったそうですが、密告でもしないと諦めないくらいに意志が強固だったのでしょうね。
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年
続きを見る
後醍醐天皇は京都から逃げようとし、鎌倉幕府に見つかって隠岐へ流刑になりました。
こちらは【元弘の乱(変)】と呼ばれている出来事です。
隠岐を脱出して伯耆で挙兵! 一気に倒幕へと押し進める
この間、後醍醐天皇が譲位する予定だった邦良親王が亡くなりました。
そこで幕府は後醍醐天皇を廃位し、持明院統の量仁親王を光厳天皇として即位させます。
しかし、転んでもただでは起きないのが後醍醐天皇。
流刑から2年後の元弘三年(1333年)になると、隠岐を脱出し、伯耆(現・鳥取県)で挙兵するのです。
この動きに対応し、元寇での恩賞不足など、鎌倉幕府へ不満を抱いていた各地の武士が呼応します。
著名なところで楠木正成でしょうか。
彼らが後醍醐天皇に従い、討幕の機運が一気に高まります。
また、後醍醐天皇軍討伐を命じられた足利尊氏も幕府から離反し、六波羅探題を攻略。
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
続きを見る
続いて新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府はアッサリ滅亡してしまいます。
この流れからすると「武士たちは後醍醐天皇の人柄や志に惹かれたのではなく、実利的な理由で幕府を討つきっかけができたので挙兵した」というほうが正しいですよね。
後醍醐天皇は、その辺の心情・機微について、全く気付いていなかったようです。
「やっと自分の望み通りの政治ができる!」
と考え、親政によって公家中心の社会に戻そうと試みました。
そうです。
【建武の新政】です。
※続きは【次のページへ】をclick!