小牧山城

織田家

信長が初めて築いた小牧山城が織田家の戦略を一変!狙いは信清の犬山城だった

桶狭間の戦い】で、見事に今川義元の首を取った織田信長

しかし、その勝利は織田家の問題点を強く浮き彫りにしました。

尾張の城が戦国武将としては恥ずかしいほどショボく――籠城戦に耐えられず、他国で野戦(先制攻撃)に出るしか防衛できない――という事情を鮮明にしたのですね。

要は、城が弱い。

安土城のネームバリューから、城に強いコダワリのあるイメージの信長ですが、桶狭間でエポックメイキングを迎えるまでは大したことありませんでした。

では一体いつ頃から城に対する考え方が変わっていったのか。

中世の「館」から戦国の「山城」へ!

今回は清州城から小牧山城への変遷に伴う、織田家の城戦略の進歩に目を向けてみたいと思います。

※著者は城郭検定保持者の【お城野郎!】がお送りします

 


小牧山城は安土城のプロトタイプだった!?

皆さんは、小牧山城をご存知でしょうか?

この名前は秀吉と家康による【小牧・長久手の戦い】の方が有名で、城については知らない、あるいは興味が薄い方も多いかもしれません。

※以下は小牧・長久手の戦関連記事となります

小牧・長久手の戦い
秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説

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小牧山城は、最近まで岐阜城の中継ぎ程度に見られていて、マニア中のマニアしか手を出さないような非常に影の薄い城でした。

そもそも築城の目的も「美濃の稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するため、美濃方面に拠点を移動させただけ」とか「信長の強権発動や突飛な発想によるもの」など、やや誤解されて伝わっています。

しかし!

最近の発掘調査により、いろんな事がわかってきました。

小牧山城では城下町が新設され、さらにこの時期には珍しく本丸には石垣を張り巡らされ、基本構造も後の安土城にウリ二つの【本格的な大城郭】だったことが分かってきたのです。

この前まで「型落ち中古の国産車で十分。走りゃあいいんだよ。実際、桶狭間走って勝ったし」って言ってたくせに、「やっぱりクルマは頑丈でないとね。この米軍仕様の軍用車見てよ!向こうから避けてくわ!低燃費?はっはー」というくらいの変貌ぶり。

いったい何があったのか?

気になりません?

なりますよね。

てなわけで、絶望的な築城後進国であった尾張の国に突如現れた、この小牧山城の築城を見ていきましょう!

 


信長 美濃の斎藤家に目をつけられる

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、とりあえず尾張東方の脅威は収まりました。

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?

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この間に松平元康(徳川家康)は今川家から半ば独立したかたちで三河の平定を目指します。

「信長とは旧知の仲で、人質時代には信長によく遊んでもらったりしたので同盟もすんなりいった」

そんな心温まるエピソード的な扱いをされてしまいますが、実際は、今川義元の死後、多少の混乱期を経て織田―徳川の国境が確定。

利害関係を一致(尾張-三河間の安全を保障)させたことにより講和が成立し、その後【清須同盟】に発展しております。

そうです。戦と外交はどこまでもリアリズムが追求されるのです。

家康の幼名は竹千代

家康の幼名は竹千代

成り立ちからしてこの「清須同盟」は「共に戦う」という性格のものではなく、「お互いに領地を侵さない」という程度のものでした。

信長による苦戦の連続の美濃攻めや最初の上洛までの間に家康がさっぱり出てこないのはそのためです。

この時期はまだ尾張は統一できていません。尾張北部は半独立勢力の織田信清の勢力範囲でした

この時期はまだ尾張は統一できていません。尾張北部は半独立・織田信清の勢力範囲でした/©2015Google,ZENRIN

 


道三を倒した義龍は父に似た智将

それでは桶狭間の戦い直後の尾張を取り巻く勢力図を見ていきましょう。

尾張は、清洲城を中心に、北部には犬山城を中心とした織田信清の勢力圏。

その北の木曽川の北岸には美濃の斎藤家。

南東に三河の松平(徳川)家。

もうお分かりのように信長の当面の目標は尾張を完全に自分の支配下に置くこと、すなわち尾張の統一が第一の課題でした。

そして、背後で織田信清を操る美濃の斎藤家をなんとかしなければいけないわけです。

では、この美濃斎藤家との仲はどうだったのでしょう。

美濃の斎藤家というと真っ先に思い浮かぶのは斎藤道三でしょうか。

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その娘・帰蝶が織田信長に嫁ぐというのはあまりに有名な話ですが、この斎藤道三は桶狭間以前に息子・斎藤義龍の謀反で敗死してしまいます。

信長も道三に援軍を出したものの、結局は間に合いませんでした。

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その後、斎藤家を率いた斎藤義龍は、かつての斎藤―織田家の婚姻関係はまるでなかったかのように織田家への圧力を強めます。

義龍は父に劣らぬ智謀に優れた武将だったようで、織田家の内紛に何かとちょっかいを出しては尾張を混乱させていました。

信長も背後の斎藤家がうっとおしくて仕方がなかったのですが、尾張国内の織田家同士の勢力争いに巻き込まれて美濃どころではありません。

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義龍に見限られた浅井が織田と接近し、お市が!?

また、義龍の妻は近江の浅井家から嫁いできておりましたが、義龍は何を思ったか、その浅井家の妻と離縁。そして近江で浅井家と敵対していた六角家に娘を嫁がせるのです。

この突然の外交方針の転換により、斎藤家は浅井家とも敵対します。

そしてこれが遠因となり浅井家は織田家に接触、信長の妹「市(お市の方)」と浅井長政の婚姻につながっていくとは、あまり知られていない話かもしれません。

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ちなみに信長の妹「市」の結婚は永禄10年(1567年)説と永禄4年(1561年)説があります。

永禄10年説だと「市」は20才を過ぎており、この時代にしては結婚が遅く(そのため再婚説もあり)、永禄4年説だと、市の年齢(14~15才)も当時の結婚適齢期で辻褄が合うと言われております。

1561年前後でしたら、斎藤家が浅井家との同盟を破棄しており、信長とも敵対している時期ですので、浅井&織田の対斎藤家という外交戦略からしても永禄4年説はかなり有力な気がします。

いずれにせよこの後に続く織田家vs斎藤家のガチンコの争いは、信長に対しての度重なる嫌がらせと斎藤家の外交方針の転換がきっかけだったことが分かります。

これが桶狭間の戦い前後の尾張―美濃の緊迫した状況です。

 


またしても強運な信長! 義龍が急死す

しかし、です!
ここでまたしても信長にビッグチャンスが到来します。

なんと目の上のタンコブであった美濃の斎藤義龍が永禄4年(1561年)に病で急死してしまうのです。

いったい、度重なる嫌がらせの連続はなんだったんでしょうか。

ともあれ、戦国時代の他人の不幸は自分のチャンス。当主の死こそ最大のボーナスステージです。

信長は一気に美濃へ攻め込みます。

その素早さといったらありません。

通常、当主の死は伏せられるのですぐには情報が伝わってきませんが、信長は義龍の死の直後から兵を集めます。

この辺はさすが、城がショボかった(まだ言うか!)ため情報収集と野戦に明け暮れていた、父・織田信秀以来の伝統です。

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電光石火で美濃に侵攻いたします。

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