大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていて、そんな違和感を抱いたことはありませんか?
鎌倉入りを果たし、ようやく一息ついた源頼朝の前に現れた弟の阿野全成。
その弟に向かって頼朝はこう言ってました。
「御所の位置を決めたいから占ってくれ」
快諾した阿野全成はさっそく占いを始めるわけですが、その後も事あるごとに彼の能力は重用されているのです。
一体何事か?
鎌倉政権は占いで事を決めていたのか?
もちろん全てがそうではありませんが、当時の占いや風水は怪しげな存在ではなく、キッチリと信じられていました。
ドラマ理解の助けにもなる、その歴史を見てみましょう。
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占いとは思想を背景にした学問
阿野全成の占いは一体何なのか?
胡散臭いように思えるのは、視聴者が現代人であるからということも踏まえてください。
全成は不思議でとぼけた人物ではなく、学問ができるエリートでした。
RPG(ロールプレイングゲーム)という遊びがあります。
元々はゲームブックだったものが、ファミコンの普及でゲームとして爆発的に普及。1980年代以降、日本にも浸透します。
勇者がいて、戦士がいて、僧侶がいて、魔術師がいる。
魔物を倒して目的を達成する。
あの世界観は、火器が普及する前の中世ヨーロッパを基にしています。
もう当たり前すぎて疑問すら湧かなかったかもしれませんが、考えてみたいことがあります。
僧侶はどうして回復系の呪文を使えるのか?
全成の話がなぜRPGになっているのか?
実は大いに関係があります。
RPGの価値観でいえば、全成のジョブは「僧侶」です。パーティメンバーの回復や保護を担う役目を果たしていた。
同じジョブであった栄西は、源実朝が二日酔いに苦しんでいたとき、抹茶を差し出します。しかも、こんな触れ込みで。
「この飲み物があれば、万病が治りますよ」
それが大仰に思えるとすれば、現代人だからでしょう。
学識豊かで、胸のつかえや罪悪感をスッキリさせる教えを説く。そんな僧侶は、中世人にとってはまさしく癒しの存在でした。
全成はそんな人を救う術を持つ人物でもあるのです。
全成は仏僧です。
しかし、その知識や術には、中国由来の道教要素も含まれています。
道教は中国の古来の信仰をまとめたもので、日本にも断片的にその要素が取り入れられています。
『麒麟がくる』では、明智光秀が夢に悩まされていました。
織田信長が月まで届く木に登ってゆく。それを切り倒すというもの。日本では「桂男」の名で知られますが、中国では呉剛(ごごう)という道教神話の人物としてとらえられています。
日本は仏教・神道・儒教が入り混じって思想を形成してきました。そのことを念頭に置いていただければと思います。
易占い:吉凶を占う
阿野全成には風水など、中国由来の知識があります。僧侶として漢籍を学んでいたのでしょう。
まず『易経』(えききょう)は最低限でも読んでいると推察できます。儒教の基礎である五経に入り、当時の教養の中には“占い”が含まれていました。
当時の人々は、漢籍由来の占いについて聞かされると、胡散臭いと思うどころか「へえ、教養がある方なのだな」と関心していたものです。
そんな教養が発揮された占いを、全成はもちろん使い込ませます。
全成が長い棒状のものを持ち、占いの結果を述べる場面がありますよね。
あれは「筮竹」(ぜいちく)です。
現代で占い師といえばタロットカードや水晶玉というイメージですが、かつては筮竹をもち、和服を着た占い師もドラマ等にはよく描かれたものです。
『麒麟がくる』においても、松永久秀が筮竹占いをする場面がありました。
風水:都市建設に欠かせない
鎌倉入りを果たした頼朝は、全成に建築の相談をしています。
方角の吉凶を占わせ、問題がないか確認しているのです。
このとき全成は、風水の知識を駆使して答えていると推察できます。
岡崎義実が頼朝の父・義朝の慰霊を行っており、その場所に御所を建設するよう進言しています。
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これにも思想が関係しています。
祖先と子孫は互いに感応し合うがゆえに、墓や祭祀を行う場所と、住居の関係を考えねばならないとされているのです。
こうした位置関係の思想は、新石器時代には芽生えていたとされ、漢代には確立。
遣隋使以来、日本の都市建設も中国をお手本にします。
頼朝は、鎌倉を京都のようにしたいと口にしております。そうなれば、風水をみる全成は欠かせないものだとわかります。
夢占い:読み解くには知識がいる
夢とは何か?
吉凶のお告げではないか?
体調不良が反映されるのではないか?
こうした夢の解釈も、儒教の経典である『周礼』に登場します。
時刻。天体の運行。陰陽。そうした要素を組み合わせ、吉凶を占う「占夢官」が古代中国にはいたとされます。
ただし、時代が降ると批判されます。
後漢の時代となると、鄭玄は『周礼』の注をつけ、占夢は既に滅亡していると言いました。
後漢のあとの魏晋時代には、もう夢占いは廃れていました。
北条政子には『曽我物語』において「夢買い」伝説があります。
政子の妹が「こんな夢を見た」と政子に話してきたのです。
高い山に登り、着物の袂に日と月を入れる。
そして三つの橘の実がついた杖を頭の上に置いた。
それを聞いた政子は凶兆だと教える。
不安がる妹に、その夢を買い取って姉が身代わりになると政子は言いました。
妹思いの姉という意味ではありません。
究極の吉夢であり、妹が得る幸運をちゃっかり政子が買い取り、妹の運勢を手に入れたということ。
政子の野心を示すための逸話でしょうが、もう少し考えてみたい。
『曽我物語』が成立したころ、鎌倉時代末期には、漢籍由来の知識があり、かつ作者がそれを知っていたことがわかります。
夢占いは、読み解く者の知識が要求されます。
妹にはその知識がなく、姉にはあった。その差異を意識しているところは、中国由来の夢占いの知識があることを示します。
高い山に登ったということ。
中国には「封禅」(ほうぜん)という皇帝の儀式があります。天地に即位を知らせ、泰平を願う儀式です。
中国には山岳信仰があります。
中でも五岳(泰山・衡山・嵩山・崋山・恒山)のうち泰山は神聖なもの。ここで封禅を行うことこそ、帝王の象徴ともいえる儀式です。
と、政子の妹の夢は、泰山での封禅を連想させます。
「たもとに陰陽を司どる日月を入れる」という仕草も、帝王が世を治める象徴といえる。
吉夢も吉夢、天下を取ると示されたようなものです。
また、この夢の内容には別の意味も感じられます。
鎌倉幕府は、河内源氏の源頼朝が初代将軍となりました。それが途絶え、執権北条氏が統治者となった。しかしその正統性はどうしても薄い
その補強として、この夢の話が流布されたと考えれば、整合性はあいます。
夢の売り買いにせよ、北条氏の姉妹で行われていますから、北条氏の正統性強調という役目は果たせるというわけですね。
このように、占いは知識や思想を理解しなければ使いこなせません。
では、その思想体系を見ておきましょう。
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