大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、源実朝が北条泰時へ「恋の和歌」を送ったことが話題となりました。
なぜ三谷氏はあのような描写を持ってきたのか?
実朝は男色だったのか?
個人の性的指向については、他人がどうこう踏み込む問題ではないものの、ドラマで描かれた以上「史実はどうだったのか?」という点は気になるところでしょう。
1192年9月17日(建久3年8月9日)は源実朝が生まれた日。
当時の実朝を取り巻く状況と併せて、振り返ってみましょう。
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実朝の結婚
源実朝の兄・源頼家には、比企一族の娘・若狭局との間に一幡という男児がおりました。
次の鎌倉殿となれば、外戚として比企能員が北条にとって代わり、権勢を振るうことができる――そんな政治的争いから、北条時政は強引に比企能員を殺し、幼い曾孫もろとも比企一族を滅ぼしました。
いわゆる【比企氏の乱】です。
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時政にとっては、こうした失敗を繰り返さないことが重要。
ゆえに実朝がまだ誰かを寵愛する前に、鎌倉の御家人ではなく、京都から正室を迎えることにしました。
後鳥羽院はこの要求に乗じ、いとこにあたる坊門信清の娘を正室に選びます。
父の源頼朝、兄の源頼家は恋愛を経て結婚しました。
叔父の北条義時も姫の前(比奈)に艶書を送り続け、夫婦として結ばれている。
自分だけが己の意思とは無関係に婚礼を決められ、実朝自身が戸惑っても不思議はありません。
彼はそんな現実を受け容れられたのか?
というと、結婚後の夫婦仲は悪くなかったとされます。
実朝は他に寵愛する女性はおらず、父や兄のような問題は起きていません。
しかし、二人の間には問題がありました。
子が授からなかったのです。
源氏将軍断絶は決まっていた
結論から申しますと、鎌倉幕府は初代・頼朝から数えて三代目の実朝で断絶します。
甥の公暁に討たれると、藤原氏から将軍を迎え、以降、実質的な権力者は執権の北条氏となりました。
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こうした断絶は、実朝の暗殺により突然訪れたように思えます。それは確かでしょう。
しかし、建保4年(1216年)の時点で、実朝にはその予感がありました。
このころ北条義時は、実朝の官位昇進の速さに危機感を抱いていました。大将までの昇進を望んでいることを耳にすると、もはや放置はできない。
なぜなら官位が上がりすぎれば鎌倉殿の権限が強力なものとなり、自分たちの意見が通じにくくなるからです。
義時はそこで、思いを同じくする大江広元に相談し、諫めてもらうように話し合いました。
談義を受け、広元は実朝に対してこう伝えます。
「子孫繁栄を願うのであれば、今の官職は辞し、征夷大将軍として年齢を重ねるべきではありませんか? それから大将となられてもよろしいかと」
「諫言としてその通りだとは思う。しかし、源氏の嫡流はもはや私の代までのことで、子孫が継ぐことはあるまい。だからこそ官位をあげたいのだ」
あたかも未来を予感するような、あるいは自身の代で終わらせるという意思があってのことか。
いずれにせよ広元は何も言えずに引き下がるしかありません。
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その二年後の建保6年(1218年)、北条政子が上洛をしました。
名目は熊野神社詣でありながら、目的はそれだけにあらず。卿二位と称されていた藤原兼子と何度も面会を果たしているのです。
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都では、このときの兼子は以下のように提案したと噂になっています。
「このまま男子がいないようであれば、いっそ後鳥羽院の皇子を下向させ、将軍としてはいかがでしょう?」
異常事態でした。
あらためて振り返ってみれば、まだ三十歳にもならぬ青年将軍・実朝が「子孫はできない」と悟ったように語り、家臣は何も言えない。母である政子も知っていたのかもしれません。
実朝が男子に恵まれなかったこと。
源氏の血を引く男子は公暁はじめ複数いたにも関わらず、京都から将軍を迎えようとしたこと。
こうした要素が歴史を変えてゆきますが、ここで考えたいのは
「なぜ実朝に男子ができなかったか?」
「なぜ本人ですらそれを認めていたか?」
ということです。
世継ぎができない理由は?
実朝に子ができない理由については、確たる資料がなく、特定はできません。
ただ、他の例から推察はできます。
肉体的な困難や性的指向など。
実朝の場合、従来から精神的な不安定さを強調される傾向はありました。
万葉調の歌を詠む歌人としては天才的である反面、エキセントリックで政治判断ができず、そのため北条氏の傀儡に過ぎなかった――そんな人物像が定着していました。
『吾妻鏡』以来、バイアスのかかった像といえます。
しかし、こうした見方は是正されつつあります。
例えば、実朝が望んだ宋への渡来計画を考えてみましょう。
この計画は無謀だとして、北条義時と大江広元は止めようとしていました。
陳和卿から「実朝の前世は中国の高僧である」という荒唐無稽な話を信じ、無謀な渡海計画を進めようとしている。
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芸術的感性はあっても夢想ばかりしている。
まるで暗君として知られる北宋の徽宗をなぞったような像です。
一方、『鎌倉殿の13人』では、描き方はそうではありませんでした。
暗愚というより繊細かつ人の話にも耳を傾け、学習能力を備えている。
源頼家像もそうでした。
足りないところはあるけれども彼なりに努力をした。その結果、苛烈な権力闘争に負けた悲劇的な像として描かれました。
実朝についても近年の研究が反映されていて、政治力や判断力のある青年政治家として描かれています。
そして改めて考えたいこと。
性的指向と、意思薄弱といったマイナス要素を結びつける描写は、もはやドラマにおいては差別的であり禁忌です。
従来のように実朝の精神に異常性があるから世継ぎができないと誘導することは差別につながりかねません。
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