大河ドラマ『光る君へ』で伊藤健太郎さんが演じる双寿丸。
彼が、まひろの娘・賢子を賊から救ったとき、視聴者の間であるざわめきが起きました。
「彼は直秀なのか?」
かつてまひろが都の中で知り合い、三郎時代の道長との仲も取り持ってくれながら、最終的には検非違使に殺されてしまった直秀。
己の運動能力を活かして毎日を生き抜き、身分が低くても貴族の姫様とざっくばらんに会話ができる――確かに両者は、非常に似通った存在であり、とても偶然とは思えないキャラクターです。
ならばなぜ、本ドラマの制作陣は、彼らを登場させたのか。
二人にもう一つ共通しているのが「オリジナルキャラクター」、つまり「オリキャラ」ということでしょう。
架空の人物ゆえ、好きなように描くことができる以上、何らかの狙いがあって登場している。絶対的な役割があるからこそ画面の中にいる。
それは一体なんなのか?
最終盤に来て双寿丸にスポットが当たる理由を、これまで登場した重要なオリキャラと共に考察して参りましょう。
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大河ドラマに登場する架空人物とは?
双寿丸に限った話ではなく、歴史書に記録が残っていない人物が大河ドラマに出ると「オリキャラ」「ファンタジー」といった批判が飛び交います。
「大河ドラマなんだから史実の人物だけが出てくるのが当然だろ!」
そう思われるでしょうか?
実は、それもおかしな理屈で、過去の大河ドラマには何度も「オリキャラ」が登場し、主役を務めた作品すらあります。
要は“定番技法”なのです。
海外の歴史ドラマを見渡してみても、似たような状況が広がっています。
例えば、2024年秋からNHK BSで放映された『三国志 秘密の皇帝』は、主役が後漢の最終皇帝である献帝本人ではなく、入れ替わった弟・劉平となります。
生まれたときから皇帝ではなく、司馬家で生きてきた劉平には「等身大の民を思う心がある」という設定のためです。
では、なぜ、こうした人物が出てくるのか?
一般的に歴史の授業などで扱われる「史書」には、権力に近い人物の記録しか残らないという宿命的な欠点があります。
歴史は彼ら権力者だけで作られるものではありません。
為政者も民衆なくして存在できない。
そこでオリキャラにより、歴史の中に埋没した人物の声や目線を描くことで、より深く血の通ったものとして見せるため活用されてきたのです。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、そうした流れの中、極めて意欲的に双寿丸を登場させたと言えるでしょう。
為政者に届けたいかれらの願い
双寿丸に限らず、『光る君へ』に登場する架空の人物は、実にバラエティに富み、魅力的。
そこで彼らから注目しておきたいのですが、本記事では、あくまで貴族と接点が薄い民衆にスポットを当て、藤原為時の家人である乙丸たちや、下級貴族の姫・さわは除外します。
浮かんでくるのは3名の印象的なオリキャラです。
◆直秀(なおひで)
まだ若いまひろと道長と出会う、散楽一座の一員。盗賊としての裏の顔を持ち、逮捕されたあと、検非違使に殺害される。
◆たね
まひろが文字を教えようとした少女。疫病で両親を失い、自身も幼くして亡くなる。
◆周明
対馬の漁民の子だったが、幼くして父に海に捨てられたところを宋人に拾われ、医師見習いとなる。宋商人の朱仁聡と共に越前へ来る。
彼らには、それぞれ重要な問題提起がありました。
◆直秀→法治
検非違使により不当に殺害され、道長はまひろに「直秀のような被害者は出ないようにする」と誓った。
◆たね→民衆救済
まひろがたねを救おうとし、そのせいで倒れたまひろを道長が看病する。
道長は兄・道兼と共に疫病で苦しむ民を救済しようとするが、道兼自身が病で亡くなってしまう。
道長は兄の遺志を継ぐと誓う。
◆周明→日宋貿易と国防
越前守に任命された父・藤原為時とともに、まひろも越前に来た。
そこで周明と接近。
道長は宋人の目的を訝しみ、彼らの思惑を見極めようとする。
序盤から中盤まで、この時代の政治にはいくつも課題があることを、彼らのストーリーは訴えてきました。
主人公まひろの「ソウルメイト」である道長は、その課題に向き合うことができます。
いくつもの幸運が重なり、彼は為政者となったのです。
では、道長は課題に取り組んだのでしょうか?
いいえ、忘却していると思われます。
まひろは越前から戻ると、藤原宣孝の妻となりました。
この宣孝に先立たれたあと、道長はまひろを娘にあたる中宮彰子に出仕させます。
その目的は、亡くなった皇后定子を忘れられず、中宮彰子を寵愛しない一条天皇の心を変えることでした。
そのプロットは面白いとはいえ、気になりませんか。
道長は政治的課題を棚上げし、自らの血を引く天皇を即位させることばかりに尽力しているように見えるのです。
積み残した課題を突きつける双寿丸
道長は、かつて向き合った課題から逃げきるのか。
歴史的に見ればそうなるのでしょう。
史実にしても劇中にしても、鈍感で視界が狭いと思える道長のこと。自分の周囲の人間が幸せになったと満足し、あの有名な望月の歌を詠むのかもしれません。
しかし、まひろは同じように振る舞えるのか?
劇中の彼女は、民衆の目線を見逃せない人物であり、架空の人物にも心をかける、当時の貴族としては変わった性質の持ち主です。
直秀から「都を出て付いてこないか?」と問われれば本気で迷い、たねに文字を教えていたときは、ききょうから「ありえない」と訝しげな顔で見返されていました。
越前においては宋の言葉を習い覚え、周明から「一緒に宋へ行かないか」と誘われると気になるそぶりを見せていました。
執念深さと慈悲深さ、猜疑心と好奇心――複雑な感性と観察眼を持つまひろは、道長よりもずっと敏感です。
物語の執筆や女房としての業務、家族関係に忙殺されつつも、彼らのことを忘れきってしまうことはないでしょう。
そして現れたのが双寿丸です。
彼こそ、かつての課題を再燃させる人物でしょう。
双寿丸が本格的に登場すると、少なからぬ視聴者が「直秀の再来、あるいは生まれ変わりではないか?」とざわつきました。
なんせ本格的な登場シーンが、散楽一座の横を賢子が通りかかった後のことですから、連想するのも無理がない。
この、賢子やまひろと出会った時が双寿丸の「現在」です。
では「過去」はどうか?
顔みせ程度の初登場時、彼は夜の京都の辻を彷徨い歩く謎めいた人物でした。
このシーンでは、内裏の藤壺に盗賊が侵入。双寿丸自身が何者なのか、ハッキリとは判別できないものの、階層としてはそれに近いことがわかります。
当時の都は、浮浪児が多くさまよっていました。
面倒を見る親が大人がいなくなってしまえば、野犬の襲撃や寒さに怯え、物乞いでもするしかなかったのであり、疫病で両親を亡くした少女たねは孤児となりました。
彼女がもしも生き延びていたとすれば、双寿丸のように都をさまようものになっていてもおかしくありません。
双寿丸も親を亡くした孤児という「過去」があるのかもしれません。
あえて「寿」という字を入れた名前からは、せめて幸運に恵まれて欲しいという願いが感じられ、かつ命名者の教養がうかがえます。苦労を重ねたからこそ、そう祈りをこめて名付けられたように思えます。
そんな双寿丸は文字の読み書きができません。
まひろはたねに読み書きを教えようとしました。双寿丸には、まひろの娘である賢子が文字を教えようかと尋ねています。彼にはたねとの共通点も見出せるのです。
では「未来」はどうか?
双寿丸が仕えている平為賢は【刀伊の入寇】で活躍し、名を馳せます。
【刀伊の入寇】は外交への警戒不足があり、朝廷が武者の力を借りねば解決できなかった問題です。
周明に警戒していた道長が、あらかじめ太宰府の防衛強化に取り組んでいれば、違った展開となったでしょう。
双寿丸は、こうして積み残されていた政治的課題を突きつけるために登場したようにも思えてくる。
まさしく運命の人物ではないでしょうか。
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