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【双寿丸】
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周明の課題その2「国防」
周明の突きつけた課題として「国防」もあります。
彼のように国境を超えて生きる人は【マージナルマン】と呼ばれます。日本史では村井章介先生がこの概念から歴史を見直しています。
前述の通り「越前編」では道長が疑心暗鬼気味に、宋人による侵攻の可能性を危惧していました。
これは認識に齟齬があります。
中華王朝は【朝貢貿易】を目指しており、他国への侵攻はあまりしません。ましてや日本を攻めようということはまずありません。
日本側が大敗し、国家整備の必要性を痛感させられた【白村江の戦い】にせよ、戦場となったのは朝鮮半島です。日本は朝鮮半島の政治に軍事介入し、返り討ちにされたのでした。
当時の朝廷が警戒すべき勢力は、宋ではなく、その宋を南遷に追い込むことになる女真族です。
実際、女真族が【刀伊の入寇】を引き起こしています。
しかしこの【刀伊の入寇】対応をみていると、朝廷は国防意識が極めて低かった。
『光る君へ』の時代に起きた異国の襲撃「刀伊の入寇」で見える貴族政治の限界
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【女真族】が何者なのか――その把握も曖昧で戦略も明確といえず、祈祷に頼りきるという有り様。軍事的な備えはまるでできていません。
「さがな者」(乱暴者)の異名を持つ、異色の貴族・藤原隆家が太宰府にいたことは、かなりの幸運でした。
もしも藤原行成が太宰府に着任していたときに、同様の襲撃があったら、果たしてどうなっていたか。
隆家がこのとき太宰府にいたのは、眼病治療を宋人の医者に頼むためであり、朝廷の人事とは何の関係もありません。
道長が隆家の武力を見込んだわけでもなく、単なる偶然だったわけです。
そんな隆家の指揮下のもとで戦うのが、双寿丸の殿である平為賢。
外敵の侵攻に対抗し、見事な武勇を見せたにもかかわらず、平為賢は不明点が多い人物です。
彼が謎めいているというより、それほど武功のある人物を重要視しなかった朝廷の姿勢に問題があるのでしょう。
平為賢のルーツは常陸国にあります。武装して襲撃を退けることができれば、彼のような武士は移動が自由にできたということ。
双寿丸のような武者が大勢付き従っており、食事の場は争奪が起きるほどだということもドラマで説明されていました。
そんな武装集団、危険じゃありませんか?
行政側はほとんど認識していない様子であり、外敵の侵入を防ぐどころか、都においていつ危険な集団に変わるかもしれない。
つまり双寿丸という武士は、将来爆発する内憂外患があることを示す存在といえます。
最終盤、答え合わせを担う人物
大河ドラマは一年を通し、歴史を生きた人物の軌跡を追う独自性の強いコンテンツです。
一国一城の主人となるような、ハッピーエンド型のパターンもあります。『どうする家康』が典型例でしょう。
その一方で、バッドエンド型のパターンもあります。
しかし、そこで主人公の生きた軌跡が新しい時代の扉を開いたことを示すのであれば、苦さの中に甘さも残る終幕となります。
たとえば『平清盛』の場合、平家が滅亡する【壇ノ浦の戦い】で物語は終わります。
しかし清盛の始めた武士の世、日宋貿易はのちの世にも続きます。平氏を倒し、武士の世を盤石とした源頼朝がナレーションを務めることで、こうした終わり方を迎えているといえます。
架空人物がその役割を果たしたのが『麒麟がくる』の駒でした。
物語初回に登場した駒は、主人公の光秀に「戦のない世になれば、麒麟がくる」と語ります。
麒麟とは泰平の世の象徴であり、戦災孤児である駒が到来を願うものそのものといえる。
史実の明智光秀は【本能寺の変】のあと、あえなく敗死を遂げます。しかし『麒麟がくる』のラストでは晴れやかに微笑む光秀の姿を、駒が目にしているのです。
あれは光秀が生存していたというよりも、麒麟という泰平の世を示す象徴として現れたように思えました。
最終盤、光秀は主人である織田信長ではなく、徳川家康の中に泰平を守る精神性を見出すようになります。
実際、家康は林羅山を重用し、劇中で光秀が信奉していた朱子学を日本に浸透させました。
泰平の世をもたらす思想として朱子学を掲げ、その象徴である「麒麟」をタイトルに入れたドラマとして、ハッピーエンドといえる終わり方。
『麒麟がくる』の駒は、朱子学の理念を「麒麟」の概念で語る、いわば目的の擬人化でした。
『光る君へ』の直秀、たね、周明たちも、課題を擬人化してきたことはここまで書いてきた通りです。
望月にかかる暗雲
『麒麟がくる』の駒は、主人公の願いが叶うであろう未来を示しています。
では『光る君へ』での双寿丸はどうか?
彼は積み残した課題を突きつけ、さらには「時代は変わる」と示す可能性のある挑発的な人物といえます。
そして彼の場合、主役のまひろではなく、まひろのソウルメイトである道長の政治に対してそうするといえる。
『光る君へ』の序盤で、まひろは道長に課題を突きつけました。
直秀のような存在を生み出さない、理想的な為政者になり、政治改革をすべきだと迫ったのです。
その答えは、双寿丸が暗示しているといえる。
直秀の生まれかわりのような彼が、国家防衛を担い成し遂げたとき、道長は何を思うのか?
鈍感さを発揮して望月の歌を詠むにせよ、それを知ったまひろは素直に受け止められるのか?
こう考えてくると、双寿丸とは、まるで望月にかかる暗雲のようにも思えてきます。
これほど重大で難易度の高い人物をどう描きるのか?
『光る君へ』は、最終回まで目が離せない作品になりそうです。
「歴史総合」時代の歴史ドラマに向けて
双寿丸たちは、2024年の大河ドラマらしい人物といえました。
2024年秋には、映画『11人の賊軍』が公開。江戸から明治へ時代が変わる中、歴史の狭間に消えていった人物の目線から描いた歴史劇です。
この前の年である2023年に話題を攫った歴史劇は、織田信長という日本史上最も有名な人物がモチーフとなった『レジェンド&バタフライ』と『首』でした。
織田信長から「オリキャラ」視点の映画へ、時代劇も変わりつつあると思えます。
為政者や英雄だけではなく、民衆目線での歴史の解読は、19世紀の思想界であるカール・マルクスにより提唱された【唯物史観】が有名です。
マルクスの思想と結び付けられた結果、どうしてもイデオロギーとして解読されてしまう弊害があります。そのため、社会主義の衰退とともに時代錯誤的なものであるという批判もつきまといます。
しかし、歴史を見る目とはそう単純なことではありません。
民衆目線での歴史の読み解きは、マルクスのような西洋だけの見方ではなく、東洋にもあります。
中国に由来するものとして【江湖】(こうこ)という言葉があります。
エンタメのジャンルである【武侠】と結び付けられ、超人的パワーのある侠客が暴れるワールド設定のように誤認されます。
そうではなく、「官によらない民衆が生きる世界」という意味です。【江湖】からの歴史の読み解きとは、民衆の目線に立って為政者を判断するという意味になります。
そして2020年代ともなると、【ブラック・ライヴズ・マター運動】による歴史の見直しも加速してゆきます。
世界各地で、奴隷貿易等、黒人を搾取していた人物の顕彰が見直されてゆきます。これは人種間の見方にとどまらず、権力と搾取の関係性を踏まえた上で歴史を見直すことにもつながってゆきます。
為政者だけでない。かれらが使役した民衆の目線から、地べたから見上げるように歴史を見直す必要性が論じられるようになったのです。
2022年から高校の教科となった「歴史総合」は、近現代を中心に展開する歴史科目です。
近現代とは、民衆が力を得ていく過程でもありました。この科目を学ぶうえでも民衆目線での歴史の問い直しは重要な課題なのです。
日本の冠たる歴史ドラマである大河ドラマも、民衆目線からの歴史見直しは重要な課題となります。
2020年代、「オリキャラ」はますます重要となります。
「オリキャラ」が出てくるだけで大河ドラマを「ファンタジー」呼ばわりすることも、もはや時代遅れだと言えます。
それが大河ドラマでも映画でも証明されたのが2024年といえるのでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
野口実『増補改訂 中世東国武士団の研究』(→amazon)
他