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【双寿丸】
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直秀の課題「法治」
直秀、たね、周明が突きつけた課題を、物語の中で、再度燃え上がらせるのが双寿丸だとします。
では、その課題を道長は解決することができるのか?
結論から言うと、無理であることが歴史からわかります。
かつての日本は、律令国家としてスタートを切りましたが、だんだんと崩れてゆき『光る君へ』の平安時代中期の頃にはすでに弛緩しきっていました。
『光る君へ』では、罪を犯した際の判定がかなり曖昧です。だからこそ「追放も死刑も、都から消える末路は同じだ」と直秀は思われ、殺されてしまったともいえます。
道長の政敵といえる伊周と隆家兄弟は、誤って花山院を襲撃する【長徳の変】という大事件を起こしましたが、公卿たちが【陣定】(じんのさだめ)で話し合って決めていました。
明確な法の裁きは確立していない。
曖昧な【人治主義】国家のように思えます。
毎回、徳のある人物が裁くのであれば理想的かもしれませんが、結局は曖昧でしこりが残り易い裁断になっている。
政治の頂点に立つ道長の匙加減一つで裁定が変わってしまうため、伊周ら政敵が処断に納得できていない局面も見られたものでした。
時代がくだり、『鎌倉殿の13人』の舞台でも、この【人治主義】の弊害が出ています。
坂東武者として権力を持った初代執権・北条時政が、土地の裁定を行う場面があり、ここでの時政は、自分に贈賄してきた相手に有利な裁定を下しました。
毎回人の判断で結果が変わるとなると、平安貴族であればせいぜい呪詛をするか、恨みを日記に残す程度で済んだかもしれません。
しかし、鎌倉ではいちいち殺し合いが発生しかねない。
そこで時政の孫である三代執権・北条泰時が『御成敗式目』を制定したことが、ドラマ最終回でも見られた解決策です。
【法治主義】への大きな歩みでした。
平安時代中期、隣国である宋には定番の時代劇ヒーローがいます。
「包青天」とも称される包拯(ほうじょう)です。
道長と同時代を生きた彼は、なぜ有名なのか?というと、清廉潔白な官僚として、悪を裁いたことが顕彰されたため。
性格的には藤原実資タイプと思われます。
彼の名声は後世高まり、世界最古級のリーガルドラマが作られてゆきます。
包青天のお裁きがフィクションで取り上げられるとはどういうことか。中国では【法治主義】が強く、江湖の民衆までもそれに喝采を送ってきたことがわかります。
こうした「包青天もの」が日本で翻案された作品が、江戸時代も半ばを過ぎてからの「大岡越前もの」とされます。
民衆目線で公平公正な裁きをする官僚を褒め称えるようになるまでには、そこまで時間がかかったと言えるのです。
たねの課題「民衆の救済」
『光る君へ』に登場するたねは、疫病で一家揃って全滅という悲惨な境遇の持ち主です。
平安京は水害に弱く、台風でもあればすぐさま鴨川が氾濫。
あふれた水は汚物や死体を押し流し、疫病の蔓延を招きました。
医療が未熟な時代であっても、治水整備で疫病は抑制できますし、いざ発生した場合でも救護施設を作ることで少なからず蔓延は防げます。
では道長はそうしたものを作り上げたか?
息子の藤原頼通は、平等院鳳凰堂を建立し、文化史に名を刻む人物です。
しかし彼らが仏の慈悲で民衆を救いたかったかというと、そうではないでしょう。
道長にせよ、頼通にせよ、仏に願うことは一族の繁栄、自身の栄達、来世も恵まれた環境に生まれ変わることでした。
残された日記を読むと、道長は晩年熱心に仏道修行に励んでいたことがわかりますが、その目的は己自身の極楽往生止まりに思えるのです。
結局、たねは不幸にして亡くなりました。
しかし、生き延びたとしても身寄りのない人物となります。
たねの腕っぷしが強ければ、京都郊外まで落ちてゆき、そこで山賊と合流するという可能性も排除できません。
当時は【女騎】(じょき)という言葉があります。
馬に乗った女という意味であり、性別を問わず、武装し馬にまたがり盗賊となる者は存在しました。
道長は孤児を放置する治安上の危険性を考慮していたのでしょうか?
そうした動きは見えてきません。
この限界にも『鎌倉殿の13人』での最終盤に答えが用意されています。
暮らしの苦しい民衆に心を痛めた北条政子は、大江広元にどうしたらよいのかと尋ねました。
すると広元が「施餓鬼」(せがき)という仏教の行事を名目とし、施しができると献策。
この施餓鬼の場面では、泰時も政子の背後で品を配っていました。
泰時が『御成敗式目』制定に至るまでに、仏教への帰依があったとされます。
平安時代を経て、鎌倉時代の仏教は民衆救済にまで広まっていたことが、ドラマの描写からもわかります。
北条義時の妻である八重は、孤児救済を行なっていました。この事業を政子が引き継いだのです。
戦乱の世の中で暗殺者となってしまったトウは、この孤児たちの指導にあたった。
救済の上でも、治安のためにも、進化しているとわかる描き方です。
政権を担う上での正統性が薄いとされた執権北条氏。
その特徴として【撫民仁政】があげられます。
政権奪取での過程は悪どいところも確かにあったけれど、その結果として民衆の暮らしが向上するというメリットがあった。それが正統性の根拠とされたのです。
こうして振り返ってみると、浮かんでくることがあります。
摂関政治の時代では、まるで政治改革が実現できず、武士の時代になってからようやく進んだことです。
それを踏まえつつ、周明の課題も考えてみましょう。
周明の課題その1「日宋貿易」
『光る君へ』では、藤原為時とまひろの父と娘が越前に赴く「越前編」がありました。
このとき藤原道長は深刻な態度で「宋人に対応せねばなるまい」と語っていたものです。
道長の期待に応えるため、為時とまひろは宋語を駆使して努力を重ねるも、「越前編」は藤原宣孝と結婚するためまひろが京へ戻ることで終わりを告げます。
さて、それでは宋人対応はどうなったのか?
ドラマではまひろの短い結婚生活、道長とのすれちがい、そして道長の朝廷での政治工作が描かれ、すっかり忘れられたように思えます。
そんなドラマの背景で、宋人との問題は片付いていたのか?
結論からいえば、進展がない。
史料を見ますと、その後も「宋人来着」について陣定で協議されたとあります。しかし具体的な対策は何も取られていない。
こうなってくると、道長は越前にまひろがいて、しかも周明という美男の宋人がいたとそれとなく察知したからこそヤキモキしたのかと邪推したくもなります。
しかも、このことが決定的なセキュリティホールとなります。
1126年に【靖康の変】が起き、宋の北部が女真族の金に支配されました。これから先は「南宋」の時代とされます。
領土の北半分を失った南宋にとって、日本から輸入されてくる砂金は欠かせぬものでした。
【日宋貿易】の重要性はかつてないほど高まり、砂金を産出する地域の支配者・奥州藤原氏が栄華の時代を迎えます。
中央で、貿易に目をつけたのは平清盛でした。
神戸に港を築き、貿易を担い、みるみるうちに財貨を蓄え、経済力で勝利を掴んだ過程は『平清盛』や『鎌倉殿の13人』でも描かれています。
それよりもっと前に、道長なり、藤原摂関家の誰かが着目していたら、歴史は変わっていたかもしれません。
しかし結局はそうならなかった。
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