ほとんどの方が武田信玄の甲斐武田氏を思い浮かべるでしょう。
しかし、その甲斐武田氏から安芸武田氏が生まれ、さらには若狭武田氏など様々な武田氏が出て、それぞれに栄枯盛衰がありますが、こうして一族の勢力を広げたのは何も武田氏だけではありません。
今回、注目したいのは「相模朝倉氏」です。
意外かもしれません。
朝倉氏と言えば、織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の朝倉義景やその高祖父となる朝倉孝景が有名ですよね。
そして戦国時代に朝倉氏は滅亡したとも思われがちですよね。
ところが生き残った一族はいたのです。
いったい相模朝倉氏とは、どんな存在でいつから何処に根ざしていたのか?
まずは枝分かれする前、朝倉氏全体の成り立ちから振り返ってみましょう。
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朝倉氏とは
朝倉氏の起源は日下部氏と言われ、その日下部氏にも複数の起源があるため要はハッキリしません。
主に二つの説があります。
・古代天皇の末裔説
・ニギハヤヒなど神の末裔説
いずれも証明するのは困難ですので、とりあえず「起源は古い」ぐらいの認識でよろしいかと。
ではいつから歴史の表舞台に出始めたのか?
朝倉氏で最も有名なのは、前述の通り、織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏ですよね。
しかし動向がハッキリとわかるのはそれより400年以上前、鎌倉幕府討伐の戦いとなる【元弘の乱】から。
元弘三年(=正慶二年・1333年)4月、足利高氏が丹波篠山で挙兵した際、ときの朝倉氏当主・朝倉広景が斯波(足利)高経に従ったとされるのです。
高経は足利氏の中で尾張守に任じられる家の出身であり、
当時は斯波氏を名乗っていませんでしたが、便宜的に斯波高経(しば たかつね)と呼ばれることもあります。
おそらく当時の朝倉氏も、斯波氏に近い尾張周辺を根拠地にしていたのでしょう。
広景は高経に従って越前に下り、建武四年(1337年)には黒丸城(現・福井県福井市)で新田義貞の軍と戦いました。
この前例から、朝倉氏は南北朝時代を通して北朝方についていたようです。
そして朝倉氏は越前に定着。
応仁の乱の頃に越前守護・斯波氏に下剋上を起こして大名となりました。
当主は朝倉孝景(敏景)でした。
枝分かれしていく朝倉氏
朝倉氏は代々子沢山な傾向があり、15世紀終盤には、他家や幕府に仕える人が出ています。
孝景の孫である朝倉秀景が、明応二~七年(1493~1498年)の間、伊勢宗瑞(北条早雲/以下早雲で統一)へ仕えていたフシがあるのです。
秀景はときの将軍・足利義政に仕えており、宗瑞もこれ以前の文明十年(1478年)2月には義政に仕えていたため、室町幕府内での元同僚ということになりますね。
なぜ同僚の家に厄介になったのか?
というと、この後の室町幕府と関東事情の余波によるものと思われます。
一方、孝景の孫である朝倉貞景の代では、文亀三年(1503年)4月に同族争いも勃発し、秀景の子である朝倉玄景が出奔、駿河の今川氏親(早雲の甥で義元の父)に仕えたとされます。
これは一族の朝倉教景(朝倉宗滴)が親交のあった連歌師・宗長から早雲のことをよく聞いていたからなのだとか。
いったん整理してみましょう。
・朝倉秀景(孝景の孫)→伊勢宗瑞(北条早雲)に仕える
・朝倉玄景(秀景の子)→今川氏親(早雲の甥)に仕える
北条と今川の結びつきが強いことは有名ですが、それに付随して相模朝倉氏も難しい舵取りを迫られていたなんて、なかなか熱い展開ではないですか。
いよいよ彼らも、本格的な関東の戦乱に巻き込まれていくことになります。
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