朝倉義景の肖像画

信長に滅ぼされた越前朝倉氏の朝倉義景/wikimedia commons

浅井・朝倉家

相模朝倉氏とは一体どんな存在なのか|信長に滅ぼされなかったもう一つの朝倉氏

2025/02/06

戦国時代の武田氏と言えば?

ほとんどの方が武田信玄の甲斐武田氏を思い浮かべるでしょう。

しかし、その甲斐武田氏から安芸武田氏が生まれ、さらには若狭武田氏など様々な武田氏が出て、それぞれに栄枯盛衰がありますが、こうして一族の勢力を広げたのは何も武田氏だけではありません。

今回、注目したいのは「相模朝倉氏」です。

意外かもしれません。

朝倉氏と言えば、織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の朝倉義景やその高祖父となる朝倉孝景が有名ですよね。

そして戦国時代の朝倉氏は義景の代で滅亡したとも思われがちですよね。

朝倉義景/wikipediaより引用

ところが生き残った一族はいたのです。

いったい相模朝倉氏とは、どんな存在でいつから何処に根ざしていたのか?

まずは枝分かれする前、朝倉氏全体の成り立ちから振り返ってみましょう。

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朝倉氏とは

朝倉氏の起源は日下部氏と言われ、その日下部氏にも複数の起源があるため要はハッキリしません。

主に二つの説があります。

・古代天皇の末裔説

・ニギハヤヒなど神の末裔説

いずれも証明するのは困難ですので、とりあえず「起源は古い」ぐらいの認識でよろしいかと。

ではいつから歴史の表舞台に出始めたのか?

朝倉氏で最も有名なのは、前述の通り、織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏ですよね。

しかし動向がハッキリとわかるのはそれより400年以上前、鎌倉幕府討伐の戦いとなる【元弘の乱】から。

元弘三年(=正慶二年・1333年)4月、足利高氏が丹波篠山で挙兵した際、ときの朝倉氏当主・朝倉広景が斯波(足利)高経に従ったとされるのです。

高経は足利氏の中で尾張守に任じられる家の出身であり、

斯波高経『本朝百将伝』/wikipediaより引用

当時は斯波氏を名乗っていませんでしたが、便宜的に斯波高経(しば たかつね)と呼ばれることもあります。

おそらく当時の朝倉氏も、斯波氏に近い尾張周辺を根拠地にしていたのでしょう。

広景は高経に従って越前に下り、建武四年(1337年)には黒丸城(現・福井県福井市)で新田義貞の軍と戦いました。

この前例から、朝倉氏は南北朝時代を通して北朝方についていたようです。

そして朝倉氏は越前に定着。

応仁の乱の頃に越前守護・斯波氏に下剋上を起こして大名となりました。

当主は朝倉孝景(敏景)でした。

朝倉孝景(第7代当主)/wikipediaより引用

 


枝分かれしていく朝倉氏

朝倉氏は代々子沢山な傾向があり、15世紀終盤には、他家や幕府に仕える人が出ています。

孝景の孫である朝倉秀景が、明応二~七年(1493~1498年)の間、伊勢宗瑞(北条早雲/以下早雲で統一)へ仕えていたフシがあるのです。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用

秀景はときの将軍・足利義政に仕えており、宗瑞もこれ以前の文明十年(1478年)2月には義政に仕えていたため、室町幕府内での元同僚ということになりますね。

なぜ同僚の家に厄介になったのか?

というと、この後の室町幕府と関東事情の余波によるものと思われます。

一方、孝景の孫である朝倉貞景の代では、文亀三年(1503年)4月に同族争いも勃発し、秀景の子である朝倉玄景が出奔、駿河の今川氏親(早雲の甥で義元の父)に仕えたとされます。

これは一族の朝倉教景(朝倉宗滴)が親交のあった連歌師・宗長から早雲のことをよく聞いていたからなのだとか。

いったん整理してみましょう。

・朝倉秀景(孝景の孫)→伊勢宗瑞(北条早雲)に仕える

・朝倉玄景(秀景の子)→今川氏親(早雲の甥)に仕える

北条と今川の結びつきが強いことは有名ですが、それに付随して相模朝倉氏も難しい舵取りを迫られていたなんて、なかなか熱い展開ではないですか。

いよいよ彼らも、本格的な関東の戦乱に巻き込まれていくことになります。

 

関東の一騒動

北条早雲には北川殿という妹がいました。

彼女が、駿河守護である今川義忠(氏親の父・義元の祖父)の正室となり、早雲は京都から駿河へ向かったとされています。

その月日は不明ながら、文明元年(1469年)頃とか。

それからしばらく経った延徳二年(1490年)1月には将軍・足利義政が、翌延徳三年(1491年)4月には伊豆の堀越公方・足利政知が。

重要人物の二人が相次いで亡くなり、将軍位と鎌倉公方・堀越公方の問題が再燃してしまいます。

非常に込み入った事情ではありますが、以下のチャートで簡単に流れだけまとましょう。

①永享の乱・享徳の乱を経て、本来は室町幕府の関東支部だった鎌倉公方がほぼ機能しなくなる

②それを何とかするために下っていったのが足利政知(義政の異母兄)

③しかし、どうにもならず政知は伊豆の堀越に留まり「堀越公方」と呼ばれた

④関東事情が宙ぶらりんのまま将軍と堀越公方が亡くなる

⑤将軍と堀越公方を急いで決めないといけない

ついでにいうと九代将軍で義政の息子・足利義尚も長享三年(1489年)に亡くなっており、しかも彼には男子がいませんでした。

もう完全にカオスですね。

いったんは義政の弟・義視の息子である義材(義稙)が将軍になりますが、その裏で良からぬことを考えていたのが管領の細川政元。

細川政元/wikipediaより引用

細川政元は「政知様の息子さんを将軍に迎えて、その後見として実権を握る!」と考え、政知の生前に話を持ちかけていたのです。

実は政知には、以下のような息子がいました。

・正室生まれで嫡子の茶々丸

・側室である円満院生まれの潤童子

・側室である円満院生まれの清晃

このうち清晃は京都で仏門に入っていましたが、

・潤童子を堀越公方

・清晃を室町幕府の将軍

にしようと考え、茶々丸を廃嫡・幽閉したのです。

「兄弟の下の方を優遇しようとした」パターンであり、もうそれだけでヤバい空気が漂いますね。なぜか当事者たちは全く気付いてないようなのですが。

そして、いざ清晃を将軍にする前に、肝心の政知が死亡し、話はこじれにこじれ……。

茶々丸がとんでもない凶行に及びます。

父が亡くなった直後の延徳三年(1491年)7月、円満院と潤童子を斬って、強引に堀越公方の座を奪い取ったのです。

 


当時の室町幕府

京都では、一応、応仁の乱は終わっていました。

しかし将軍の足利義稙が畿内を掌握しているとはとても言えない状況。

大乱の要因でもあった畠山氏の内紛がまだ続いていたのです。ほんと、いつまで争ってんのか……。

義稙はこれに介入しようとし、自ら兵を率いて河内に出兵したのですが、そこで喜んだのが細川政元です。

明応二年(1493年)4月、政元は義稙の留守中に清晃を将軍にし、還俗させて義遐(のちに義澄と改名)を名乗らせたのでした。

第11代将軍・足利義澄/wikipediaより引用

これが【明応の政変】です。

当然のことながら、義澄は兄と母を殺した茶々丸を排そうとしました。

そこで伊勢氏や駿河守護の今川氏親に茶々丸の討伐を命じると、これを受けて北条早雲も伊豆へ侵攻します。

いわゆる「伊豆討ち入り」。

かつては早雲が自らの野心によって下剋上したとされていましたが、近年では「義澄の命令で行った」というのが定説になっています。

そして、このときの後北条軍の中に、朝倉孝景の弟・慈視院光玖の家臣たちがいて

・北条早雲に仕えた朝倉秀景

・今川氏親に仕えた朝倉玄景

上記の朝倉氏らと共に、東海・関東で根付いていくことになるんですね。

なお、この一件は明応七年(1498年)8月に茶々丸が自害し、伊豆が平定されて終わっています。

 

その後の相模朝倉氏

以降、相模朝倉氏は、後北条氏の家臣として存続し、大永四年(1524年)1月、北条氏綱による江戸城攻めにも参加。

享禄四年(1531年)頃からは、若き玉縄城主・北条為昌の補佐役が相模朝倉氏と血縁のある福島綱成になりました。

これを受けて、相模朝倉氏は綱成や玉縄衆と行動をともにする機会が増えたようで。

例えば

・天文七年(1538年)第一次国府台合戦

・天文十五年(1546年)河越夜戦

などにも参加していたと思われます。

豊臣秀吉による天正十八年(1590年)の【小田原征伐】では、

豊臣秀吉/wikipediaより引用

相模朝倉氏を含めた玉縄衆が小田原城の支城・山中城の守備に送られました。

しかし羽柴秀次・徳川家康などの大軍が攻め寄せたこと、元々、修繕が間に合っていなかったことなどもあって、あえなく落城。

当時の玉縄城主・北条氏勝はいったん玉縄まで戻ったものの、本多忠勝の家臣の縁者だった僧侶に説得され、秀吉軍へ降伏しました。

相模朝倉氏の当主だった朝倉景隆は、この措置に納得できず、浪人した後に出家したようです。

越前朝倉氏の当主・義景とは違い、骨のある人ですよね。

しばらく流浪した朝倉景隆を拾ったのが、結城家に養子入りしたばかりの家康次男・結城秀康でした。

どうやら朝倉景隆が出家した後「犬也」と名乗っていたのが、秀康は気に入ったとか。

景隆が、単に卑下してつけたのだと思いますが、三河武士の忠義を「犬のような」と表現するくらいですから、徳川家出身の秀康にとっては

「忠義者の証ではないか、結構結構」

と思えたのかもしれません。

結城秀康/wikipediaより引用

秀康は家臣たちの前で景隆(当時70代)に馬術を披露させたこともあり、なかなか良い待遇をしてくれていたようです。

この他に相模朝倉氏の本筋とされる朝倉政元が、別ルートで家を存続させています。

後北条氏滅亡の後、政元は豊臣秀次に仕え、秀次事件の後一時的に蟄居。

しばらく後に徳川家康に召し出され、家康の子・徳川頼宣、次いで徳川頼房に仕えたといいます。

政元の息子の代で男系は絶えてしまいますが、女系が結城秀康に仕え、こちらも代々越前で存続したようです。

また、玄景以外にも駿河へ向かった朝倉氏がいました。

貞景の次男・景高が孝景と不和となり、永正年間(1504~1521年)の間に今川氏親のもとへ走り、定着したとされます。

現在の静岡市葵区柿島城山にある「朝倉氏屋敷跡」はこの二人の屋敷だったと伝えられており、地名を取ってこの一族を”柿島朝倉氏”と読んでいるのだとか。

この一族は時代の趨勢に合わせて武田氏や徳川氏に仕え、江戸時代には徳川忠長(三代将軍・徳川家光の弟で後に処断される)の附家老と掛川城主を任されています。

徳川忠長/wikipediaより引用

 

なぜか大人気な駿河

まとめると

・駿河に行き着いた複数の越前朝倉氏の血縁者がいた

・彼らの血縁関係は不明

・宗家である越前朝倉氏よりも血筋を繋げた一族が多い

ということになるでしょうか。

これは想像でしかありませんが、雪に閉ざされる地域にいた朝倉一族にとって、温暖な東海道エリアは気候的にも魅力が強かったのかもしれません。

江戸時代には越前に戻った一族もいるんですけどね。

他にも各地に朝倉を名乗る家や地名があり、越前・相模朝倉氏との関係や起源が気になるところです。

北条早雲も長い間、大河ドラマ化の運動が行われていますので、もし実現したら相模朝倉氏にもスポットライトが当たるかもしれませんね。

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【参考】
志村平治『相模朝倉一族―戦国北条氏を支えた越前浅倉氏の支流 (戎光祥郷土史叢書 02)』(→amazon
小和田哲男『地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史 (だからわかるシリーズ)』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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