天明6年(1784年)――利根川が決壊し、天明の洪水が発生しました。
浅間山噴火による火山灰や、河川に流れ込んだ火砕流が起こしたともされております。
いずれにせよ将軍様のお膝元までもが、天災に襲われてしまった。
江戸の市中では、主だった橋が流され、人も家も濁流に流される大惨事。
そんな中、この男は生き生きとした目で歩いております。
「待たせたな、市中!」
長谷川平蔵宣以です。
颯爽と再登場したあの「カモ平」も、今や不惑を超え、脂の乗り切った有能な幕臣となっていました。
さて、この洪水ですが、そもそも江戸は河川が多く、都市化を進める上では“治水”が大きな課題でした。
秀吉にしても「関東平野の統治は楽ではない」と見込んだからこそ、家康の領地としたといえなくもありません。
『どうする家康』では治水に関する苦労も描かれるのかと期待していましたが、そうした描写はありませんでした。
終わったことを蒸し返しても仕方ないことですが、内政の手腕も見たかったものです。
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大洪水が江戸を襲った
耕書堂では、当時の江戸っ子の防災対策が行われていました。
蔦重は裕福な商家であり、人員も確保できるので随分マシ。
江戸は地震や火事が多く、時代を問わず常に儲けが出るのは、大工はじめとする建築業でした。
それだけ家が台無しになってしまい、建て替える頻度が高かったということです。
幕末の来日外国人は木と紙でできた家屋に驚いたものですが、天災が頻発する江戸ならではの事情がありました。
そのことを踏まえると、東京近郊の不動産に高値がつくってェなァ、あっしにゃ、どうにも異常なことに思えんでさ。
江戸時代は日本の本質が見えてくる――そこを学んでいかねえと歴史を教訓にできねえんじゃねえですか。
さて、雨が降り止み、水は引いたものの、家を失った江戸っ子は多かった。
田沼意次は「お救小屋」の設置を家治に報告しています。

田沼意次/wikipediaより引用
握り飯、ろうそく、塩、飲み水の手配、仮小屋普請も指図したとのことです。
家治は米価はじめとする物価高騰を気にかけています。
米価だけでなく、材木、船賃等の値上げも禁じる触れを出したと、先回りした配慮を報告する意次。とはいえ効果がどれほどあるか、心配な様子です。
「ともかく、市中の暮らしを第一に」
家治はそう力強く言い切り、同時に、よろめいてしまいます。なんでも長雨で風邪でも引いたのか、体が重いそうです。
醍醐作りを知保に勧める大崎
知保も家治を気遣い、大崎に滋養のあるものを贈りたいと相談しています。
大崎は、一瞬考え込むと微笑みながら提案します。
「醍醐(だいご)などはいかがでしょうか?」
醍醐とは、牛乳を加工した菓子です。
そんなものが江戸時代にあるのか?……というと、ないわけではありません。
日本とは中国はじめ海外からの影響を絶えず受け、歴史が成立しております。
醍醐がはじめに伝わったころのロールモデルは、唐でした。唐は遊牧民の影響が強い文化であり、乳製品も広く摂取していたのですね。
しかし、このあと日本では遣唐使も廃止され、仏教が隆盛。
牛乳はおろか卵までもが禁忌とされることになります。
江戸と違って魚も取れない京都では、栄養バランスが崩壊し、平安貴族の寿命は極端に短くなったものでした。『光る君へ』でも夭折する登場人物が多かったものです。
そんな日本の食文化に、なぜ醍醐が再登場するのか?
8代将軍・徳川吉宗は栄養補給の一環として、乳牛飼育を実施し、醍醐も口にするようになりました。
吉宗の孫である家治にとっては、偉大なる祖父への敬愛がこもった菓子となるわけです。
しかし、食の安全という観点からすると……これは後ほど触れましょう。
長屋も洪水に襲われた
耕書堂には北尾政演と唐来三和がやってきて、飯を食いながら馬鹿話をしています。
政演曰く、「姐さんと仲良くしけ込んでましたら、そこに流された船がど〜んと!」とのこと。
川の多い江戸では猪牙舟を浮かべて遊ぶことがあるものです。ありえる笑い話ってなことでしょう。
三和曰く「うちなんか生き別れた女房が流れてきてよ! 俺の顔見たら、ものすごい速さで泳いで逃げやがった!」とのこと。
こうやっておもしろおかしく笑い飛ばすことが、戯作者のセンスってヤツなんでしょうな。
歌麿も蔦重に助けを借りにきています。鳥山石燕の家は平屋で大損害を受けたそうです。幸い人的被害はなかったとか。
吉原は床上に少し水が入った程度で、皆無事でした。
ただ、志水燕十が顔を見せないと心配する蔦重。歌麿はどこかの賭場に入り浸っているだけだろうと軽く返します。
何もないのであれば、名前を出さなくともよい気がしますが、今後どうなるのか……。
蔦重は、深川の新之助の元に行くと歌麿に告げます。と、ていが夫を呼び止め、ふくのためのものを手渡す。
そんな蔦重とていの夫婦を、歌麿はじっと見ております。
今までは、てい相手に何か劣等感や敗北感がかすかにあったようですが、夫婦というものの価値を品定めしているように思えます。
新之助とふくは、長屋の片付けをしていました。比較的被害が少ない長屋には、他の場所からのものや流民も流れこみ、身を寄せ合っています。
「新さん! おふくさんも、ご機嫌どうで有馬の大入道」
そう蔦重が入ってきました。家
にあがると、まず、ていが縫った子ども服をふくに渡しています。夫妻の子である“とよ坊”が気になってならないそうです。
さらに蔦重は、袋に入れた米を「気休めにしかならねえけど」と渡します。驚く新之助。
「新さんにじゃねえよ、おふくさんに。おふくさんが食わねえととよ坊が干上がっちまうだろ」
「ほんに、まぁ、ありがたいよ」
「まこと、かたじけない」
そう礼を言う妻と夫。新さんは武家育ちが抜けてねえな。
ただ、皆に配るほどはないため「お口巾着で」と念押しする蔦重に、「決まり巾着」と新之助も返します。
蔦重はこのあと、新之助に「筆耕」(清書)の仕事も渡しています。
新之助は原稿を見て、往来物ならば今出さずともよいのではないかと不思議がっている。
蔦重は往来物はいつでも出せる、板を作れると言います。そんな契約を結んでましたもんね。流行り廃りがない定番ものを、困窮する新さんに回す蔦重は優しい。
すると、長七という男が、山本町の旦那衆がタダで味噌を下さる、寺で配ると呼びにきました。
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