そう問われて、多くの方がイメージするのは合戦で華々しく活躍するような、武勇タイプの人物ですよね。
しかし現実に戦国武将は、内政や外交など、政治的な面も強く求められ、武勇よりも別の一面で才能を発揮した人も少なくありません。
特に織田信長の家臣たちは、信長自身がオールマイティなだけに、一芸に秀でているだけでなく、時に万能タイプも好まれました。
今回は、天正14年(1586年)9月9日に亡くなった滝川一益に注目。
「甲賀出身ゆえに忍者では?」という話があるほど、出自に関しては謎の多い人物でした。
同時に、信長亡き後の【清州会議】では、参列を予定していたほど織田家で力を有した存在です。
そこは後述するとして、まずは一益の生まれから見ていきましょう。
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滝川一益は信長よりも9歳上
滝川一益は大永五年(1525年)生まれといわれています。
信長よりも9歳上で、柴田勝家より3歳下という年代です。
※以下は織田信長の関連記事となります
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信長に仕え始める前のことは不明、仕えるようになった時期もはっきりしていません。
甲賀出身らしいということから、「滝川一益は忍者出身」とする向きもあるようですが……さすがにそれはないでしょうね。
ただし、若い頃から鉄砲の名手として知られており、信長の前で射手としての腕を披露して召し抱えられたという説があります。
また『信長公記』の首巻に登場することや、一益の親戚とされる慈徳院という女性が、信長の嫡男・織田信忠の乳母だったとされていることなどから、比較的早い時期に士官したのは間違いなさそうです。
信長公記首巻で初めて一益の名が出てくるのは、信長が催した盆踊り大会のシーンです。
といっても、ここには「滝川一益の家来衆が餓鬼の仮装をした」ということしか書かれていないので、一益本人がどうしていたのかはよくわかりません。
この盆踊りが何年頃のことなのかも、信長公記にははっきりした記載がありません。
しかし【踊りのような無防備になる場で、新参だったであろう一益の家来が複数人参加していた】ことが、信長の滝川一益に対する信頼を示しているのではないでしょうか。
※このときの盆踊りに着目したのが以下の記事となります
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伊勢侵攻に功あり
滝川一益の名前が史料に頻出するようになるのは、永禄三年(1560年)ごろ。
伊勢や長島の攻略を提案してからです。
信長はこの意見を容れ、滝川一益に攻略の最前線を任せます。
敵を調略したり、城をだまし取ったり。
一益は、さまざまな手段で攻略を進めていきました。こうした手法が【一益忍者説】の根拠となったのかもしれません。
滝川一益は交渉事も得意としており、永禄6年(1563年)には、信長と松平(徳川)家康の間で同盟を結ぶために、連絡役を任されたといわれています。
戦国ファンにはお馴染みの【清洲同盟】です。
ここでも一益が信長からかなり信任されていたことがわかりますね。
永禄10~11年(1567~8年)の織田軍による伊勢攻略では、先鋒の一員となりました。
北畠家の本拠となっていた大河内城を、津田一安と共に受け取り、他に、安濃津城と渋見城の二つも、一益が守備するよう命じられました。
津田一安は信長の親族とされる人で、この頃から滝川一益と連携して事にあたることが多くなっています。
彼も伊勢の支配を受け持ちながら、武田氏相手の交渉を担当していたため、一益とはいろいろと打ち合わせて動いていたのかもしれません。
本拠地の喉元を守備したり遠征に出向いたり
元亀元年(1570年)9月の第一次石山合戦。
滝川一益は現地には行ってはいませんが、あながち無関係ともいえません。
なぜなら、この戦いの最中である同年11月、信長の弟・織田信興が小木江城(愛西市)で長島の一向一揆勢に討たれているのです。
一益は桑名城(桑名市)にとどまり、防衛に備えていました。
このあたりから、滝川一益は
”信長が大きな戦をするときには遠征についていき、そうでないときは尾張や長島の守備”
という動きが基本になっていきます。
というのも1570年から1574年にかけて【長島一向一揆】との争いが熾烈になり、織田家で伊勢方面を担当していた一益はその押さえに置かれたんですね。
伊勢は、当時の織田家本拠地【尾張→美濃】と接する重要な位置にありましたから、非常に大切なところだったのです。
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この難仕事を一益は見事にやってみせました。
特に武田信玄が亡くなってからは織田家の勢いが炸裂する時期でもあり、
といった主要な戦いが各地で行われ、滝川一益も伊勢の防御ばかりでなく、最前線で奮闘しております。
特に、地元の戦い・長島一向一揆では、九鬼嘉隆らと共に水軍として参戦し、海上から文字通り援護射撃。
この功により、信長から長島城と北伊勢8郡のうち5郡を与えられました。
当時複数の郡を任されていた信長の家臣は、
など、一軍クラスの武将ばかりです。
勝家と信盛は織田家の家老ですから当然として、一益は他の三人とともに、実績と信頼でこの立場を手に入れたのでした。
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【長篠の戦い】においては、鉄砲隊の総指揮をとっていました。
最前線で勇猛に戦うよりも、後方からの射撃で敵の兵力を削いでいくことに長けていた、といえるでしょう。
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