武田信玄

近年、武田信玄の肖像画として注目されている2枚(左が九品仏浄真寺蔵で右が高野山持明院蔵)/wikipediaより引用

戦国時代

武田信玄 史実の人物像に迫る!父を追放し三方ヶ原後に没した53年の生涯

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駿河侵攻

窮地に立たされた今川氏真も、無策ではありません。

上杉謙信と協力し、武田の背後を脅かすことを模索します。

しかし、越後では上杉謙信の家臣である本庄繁長が、永禄11年(1568年)4月から翌永禄12年(1569年)3月にかけて叛乱を起こします。

しかもこの年はめったにないほどの豪雪で、さしもの謙信も思うように身動きが取れませんでした。

さらに信玄は織田信長に使者を送り、ある策を使います。

将軍の御内書による甲・越和議の和睦斡旋を依頼していたのです。

川中島であれだけ死闘を繰り広げておいて、その数年後に和睦って……と驚かされますよね。

これも戦国の外交なのですね。

信玄を描く物語に奥深さが出るのも、こうした百戦錬磨の作戦を網の目のように張り巡らせているからでしょう。

むろん上杉謙信とて、簡単に首をタテには振れません。

織田信長と足利義昭の度重なる斡旋により、永禄12年(1569年)7月には和睦が成立しています(甲越和与)。

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信長と義昭から働きかけさせるなど、この辺も外交上手な信玄の為せるワザですね。

※ただし長くは続かず、元亀元年(1570年)、この和睦は謙信によって破棄されます

いずれにせよ、背後の驚異がなくなった信玄の、駿河侵攻を阻むものは何もない状態。調略にも長けている信玄は、斜陽の今川家家臣に対して盛んに誘いをかけ、ついに立ち上がるのでした。

永禄11年(1568年)12月――。

信玄からすれば満を持して、氏真にとっては突如、武田の【駿河侵攻が始まります。

あまりの侵攻の猛烈さに、氏真は駿府を捨てて掛川城へと逃走。氏真夫人であり北条氏康の娘にあたる早川殿は、輿すら用意できず、徒足裸足(かちはだし)で逃げ出す羽目になりました。

これが北条氏康と北条氏政の父子を激怒させます。

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北条は、武田との同盟を破棄し、今川に援軍を送りました。

また、北条の進軍に呼応して反抗する今川方の武将もおり、戦線はますます激しさを増してゆきます。

一方、信玄は、徳川家康の協力も得て、両軍で今川領に攻め入りみます。

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遠江を攻めるのは徳川軍の予定。にもかかわらず、武田軍はしばしば遠江にも圧力をかけており、家康は抗議するほどでした。

家康の中には、信玄への不信があったようです。

永禄12年(1569年)5月、今川氏真はついに掛川城を開城し、徳川家康と単独講和を結んでしまいます。

氏真降伏後、家康は遠江を支配することになりました。

 

「死を三年秘すべし」

今川氏の滅亡後、各大名は複雑な同盟関係を締結し、互いを牽制しあいます。

徳川家康は、上杉謙信との同盟を模索。元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政は武田との同盟を復活させます。

その一方で、密かに織田信長へ危機感をもって対処をするようになります。

表面的には友好を装いつつ、信長の敵対勢力に接触をはかるわけです。

さらに信玄は

・足利義昭
浅井長政
朝倉義景
松永久秀
本願寺と一向宗門徒

というように、次々に味方に引き入れ信長包囲網を構築していきます。

こうしてみると、信玄の策略はえげつないな、と改めて感じますね。

元亀3年(1572年)、準備万端整えた信玄は、いよいよ甲府を出陣し徳川領へ向かいます。

徳川は織田との同盟相手。今川攻めでは互いに不信感を抱いた相手でもあります。

武田軍は徳川領を進撃し、ついに両軍は激突しました。

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この戦いで散々に徳川方を討ち破った武田軍は、赤備えで有名な山県昌景が家康の首を討ち取る寸前まで追い込みます。

そして信玄は「徳川に援軍を送ったのは許せない」として、織田に同盟破棄を通達するのでした。

元亀4年(1573年)、信玄は正月早々動き出し、徳川方の野田城を包囲します。

家康は救援のため出馬するも、武田軍とぶつかることはありません。

謙信に出馬を促すものの、雪に閉ざされ動くことのできない上杉軍。

武田軍は野田城を落とすと長篠城へ。

山と川に囲まれた、峻険な場所にあった長篠城

信玄の撒いた反信長の芽は今まさに花を咲かせる勢いです。

各勢力は、信長を相手に敵対行動を開始。

まるで炎が燃え広がるように、織田を苦しめる――はずが、肝心の信玄が、長篠城から動かなくなってしまいます。

重病に倒れたのでした。なんというタイミングでしょうか。

信玄は長年、病苦に苦しめられていました。

常に医者を側に置き、養生に励むも、肺結核とも癌とも推察される病には勝てる術がありません(ちなみに侍医は御宿監物・みしゅくけんもつ)。

一度は回復の兆しをみせたものの、ついに帰国を余儀なくされる信玄。

そして甲府に向かう途中、1573年4月12日に亡くなりました。

享年53。

死を三年間隠すこと。
戦を停止すること。

それを言い残し、武田信玄という巨星は墜ちたのでした。

 

甲陽軍鑑に記された遺言とは?

死の間際、信玄が遺したとされる「三年間隠すこと」はよく知られていると思います。

しかし、そんなことは実際可能だったのでしょうか?

以前から本人も、自らの死は意識していたのでしょう。

信玄は、事前に800枚もの紙を用意し、すべてに花押を記し、諸大名からの書状に対応するように命じたとされます。

花押は原則、本人のサイン。

そこだけ本物を入れておき、各大名に対する返書の文章は右筆などが記したのでしょう。

ご丁寧に「今は病気である」というような内容で記すよう遺言で伝えられたとのことです。

さらに遺言の中には、

勝頼は、あくまで陣代(当主代行)であり、息子の信勝が家督を継承するまで武田の旗も使わせない」

というものもありますが、現実的には当主と認められていたと考える方が自然です。

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織田信長が「勝頼は強い」と認めていたように(強すぎて退けずに長篠で突っ込んだという見方はさておき)、決して無能な人ではありません。

それよりも遺言で面白いのは、死後に上杉謙信との和睦を勧めていたことでしょう。

さすがに織田信長と徳川家康との対峙は避けられぬ――という考えだったようで、信長に対しては攻め込むのではなく防御を固めるように指示しています。

さて、こうした数々の気遣いがありながら、実際のところ信玄の死はすぐさま諸国へ広まっていたようです。

武田家としては、あくまで「病気」というスタンスを貫いておりました。

仮に信玄不在だとしても、この頃にはまだ山県昌景や馬場信春、高坂弾正昌信など歴戦のツワモノたちが残っています。

簡単にどうこうできるワケでもなく、事実、勝頼のもとで、武田家の領土は拡大していくのでした。

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