戦国時代

北条氏に二度滅ぼされた三浦一族の数奇な運命『滅亡から読みとく日本史』

はじめまして。

『滅亡から読みとく日本史 (KAWADE夢文庫)』(→amazon)著者の鷹橋忍と申します。

上記拙著の中では、以下、19の一族滅亡について書かせていただいております。

「蘇我氏」
「松永氏」
「豊臣氏」
奥州藤原氏
「大内氏」
「武田氏」
「扇ガ谷上杉氏」
「朝倉氏」
「長宗我部氏」
「源氏」
「龍造寺氏」
「里見氏」
「平氏」
「鎌倉北条氏」
「三浦氏」
「尼子氏」
「河野氏」
「今川氏」
「後北条氏」

武家や権力者が滅びるとは如何なることなのか?

今回はその中でも多くの反響を頂いた「三浦氏の滅亡」を、拙著よりノーカットで皆さまにお届けします。

よろしければ最後までお楽しみください。

 

【前書き】滅亡には秘められた謎と、滅びの美学がある

壇ノ浦の合戦による「平氏滅亡」、乙巳の変による「蘇我氏滅亡」、小田原征伐での「後北条氏滅亡」など、日本史では、しばしば「○○氏滅亡」という表現が使われる。

だが、その多くは歴史の表舞台から消えたということであり、一族が断絶したという意味ではない。

栄華を極めた一族が、戦い敗れ、あるいは没落し、「盛者必衰の理」を表すがごとく歴史の表舞台を去っていくのは、多くの人々の琴線に触れる。

一族を慕っていた者はもちろんのこと、滅亡前はその一族を嫌っていた者でさえ、滅びた途端に憐れみ、弔い、昔日の栄光を偲ぶのだ。

燃え盛る大坂城で滅びた「豊臣氏」しかり、信長への謀反の果てに滅びた「松永氏」しかり、浄土と黄金の平泉を築いた「奥州藤原氏」しかり、滅びゆく者たちはいつの世も、美しく見えたに違いない。

年表や教科書では「滅亡」のひと言で記されてしまうが、一族が滅びるには、裏切り、陰謀、内部崩壊、時代の流れ――と様々な要因があり、いくつものドラマが存在する。

滅亡のしかたも様々だ。主君と家臣が逆転するという珍しい形で滅びた「龍造寺氏」のような一族もあれば、「今川氏」のように戦国大名としては滅亡しても、高家として存続した一族もある。

「長宗我部氏」は改易されて滅んでも、大坂の陣に再起を懸けた。

一族に滅亡の序曲が鳴り始めたのはいつからなのか。

一族の歴史の幕は、誰の手によって、どのように下ろされたのか。

権勢を誇った一大勢力が消えるとき、その内部では何が起きているのか。

残された者たちはどうなるのか――。

そんな疑問に答えながら、滅亡が後の歴史に与えた影響や、残された謎、見直された史実を解き明かした。滅びの美学に酔いしれて頂ければ幸いである。

なお、「北条氏」などの「氏」は、もともとは名字にではなく、本姓(その家の本来の姓)につけるものだ。

徳川家康なら「源」、織田信長なら「平」、長宗我部元親なら「泰」が本姓であるが、本書では一般になじみのある、織田氏、徳川氏、長宗我部氏のように表記する。

 

海の武士団・三浦一族

三浦氏とは相模国三浦郡を根拠とした豪族だ。「三浦党」とも呼ばれる。

強固な水軍を有する「海の武士団」で、三浦半島を中心に一帯の海上を支配圏内におさえた。

三浦氏といっても、その支配地は三浦半島に留まらず、対岸の房総はもちろんのこと、北は糠部(ぬかのぶ)(岩手県北部から青森県東半部)から、南は筑前(福岡県の一部)まで広っていた。

ゆえに、全国に三浦姓が現存する。

三浦氏は、桓武平氏の流れとされ、『寛政重修諸家譜』では、平為通が三浦郡・衣笠城を築き、初めて「三浦」姓を称したとしている。

だが、いくつかある系図の記述の違いが大きく、発祥など古い時代のことに関しては、はっきりとはわからない。

ほとんどの史料が一致するのは、三浦為継以降である。

特筆すべきは、源氏との結びつきの強さだろう。

先に述べた為継の父親・為通は、前九年の役で、源頼義に従ったとされる。継自身も、後三年の役(本書『奥州藤原氏』の項目参照・1083~1097年)で源義家(八幡太郎)に従い、活躍している。

さらに、為継の子の義継は、源賴朝の父親である源義朝に仕えた。義継の嫡男の義明(よしあき)も、義朝と主従関係を結んだ。

この三浦義明こそが、賴朝を助けて源氏の再興に忠誠を尽くし、命を捨てて、三浦氏の勢力拡大に大きく貢献した雄将である。

 

頼朝に命を捧げ、衣笠城に散った老将・三浦義明

三浦義明は、世襲の官である相模介に任じ、「三浦大介(おおすけ)」を名のっていた。これ以降、三浦氏の嫡流は武家の名誉称号として「三浦介」を称す。

ちなみに「すけ」とは、国司の四等官のひとつだ。かみ(長官)、介(次官)、じょう(判官)、さかん(主典)とあり、介は次官にあたる。相模国支配の重要な地位だ。

義明の娘の一人は源義朝に嫁ぎ、義朝の長男・義平を産んでいる。つまり、頼朝の父・義朝は義明の娘婿で、三浦氏は源氏の嫡流と姻戚で結ばれているのだ。

治承四年(1180年)、伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨に応え、平氏追討の兵を挙げた。当時、八九歳の義明は迷わず応じるも、賴朝は石橋山(神奈川県小田原市)の戦いで敗れてしまう。

三浦氏の居城・衣笠城(横須賀市)も、平氏軍三千余騎が攻め寄せてくるとの報が入った。

三浦一族のなかには、衣笠城を捨てて、より守りやすい怒田城(横須賀市)での籠城を提案した者もいた。だが、義明は「怒田は小城で知られていない。どうせなら、世に聞こえたる衣笠城で討死したい」と真っ向から反対し、一族の者たちを率いて、衣笠城に立て籠もる。

しかし、敵が来襲すると、戦況はたちまち劣勢となった。

落城が目前に迫ったとき、義明は、子の義澄ら一族の者たちに「生き延びて、賴朝に忠誠を尽くすように」と説いて頼朝のもとに赴かせ、自分は「老命を武衛(頼朝)に投げうちて、子孫の勲功に募らん」と城に残り、壮絶に討死したという。(別説あり)

衣笠城を出た義澄ら三浦一族は、海路を使って阿波(千葉)へ向かい、頼朝軍に合流した。

彼らが共に安房へ向かった理由は、三浦氏が三浦半島周辺の制海権を握り、房総半島の一部も支配下に置いていたからだと言われている。なお、義澄は、阿波国の地理に詳しい武士という評価を得ていた。

その後、「国郡案内の者」といわれた義澄の尽力もあり、賴朝は軍勢を立て直し、鎌倉入りを果たす。

頼朝は、三浦一族の忠誠に篤く報いた。義澄は幕府の根拠地・相模国の守護となり、幕府御家人の長老の一人となった。

建久三年(1192年)、頼朝を征夷大将軍に補任する除書が鎌倉に到着した際に、義澄がこれを受け取る大役に選ばれたことからも、その重用ぶりが伝わる。

三浦家嫡流だけではなく、和田義盛、佐原義連ら庶流も、めざましく興隆した。

その栄光の三浦氏が、鎌倉北条氏によって滅ぼされるのは、義澄の嫡男・義村が亡くなってからである。

 

三浦の犬は友をくらうぞ 権謀の人・三浦義村

三浦氏の滅亡は、鎌倉北条氏なくして語れない。

鎌倉時代の三浦宗家は、北条氏との戦い「宝治合戦」で滅亡する。そのせいか、三浦氏と北条氏の間には常に緊張が走り、対立関係にあったと思われがちだ。

しかし、義澄の嫡男・三浦義村は、二代執権・北条義時と協調関係にあり、義村の娘が義時の子・泰時に嫁いで、嫡男・北条時氏(ときうじ)を産んでいる(時氏は二八歳で早逝したため、執権にはなっていない)。

正治元年(1199年)の頼朝の没後、北条氏は執権体制強化のために、幕府草創以来の有力御家人を相ついで誅殺していった。三浦義村の従兄弟で、侍所別当であった和田義村も、北条義時の標的となった。

北条義時は和田義村を挑発し、隆起に追い込む。建保元(1213年)の五月二日~三日にかけて勃発した、「和田合戦」と呼ばれる内乱である。

和田合戦において、三浦義村は初め、同族である和田氏への加担を約束していた。

しかし、三浦義村は直前に北条方に寝返り、和田一族は滅亡した。このときの三浦義村の裏切りは「三浦の犬は友を食うぞ」(『古今著聞集』巻一五)と批判を受ける。

こうして、三浦義村はしたたかな政治手腕を発揮して、三浦氏を繁栄へと導いた。北条氏の勢力もまた、揺るぎないものとなっていく。

その結果、皮肉な現実が訪れる。有力御家人たちを滅ぼしたことにより、北条による執権体制確立の障害は、三浦氏を残すのみとなったのだ。

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