安田国継(天野源右衛門)

信長に襲いかかる安田国継/wikipediaより引用

明智家

本能寺で信長に一番槍を喰らわせた安田国継 15年後の同日に死を選ぶ

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「当主も跡継ぎもいない家にいたってしょうがない」

そもそも突然の出奔だなんて、あまりにも薄情だと感じますでしょうか?

実は光秀には、後継者となるべき息子や婿養子がいませんでした。

光秀の娘婿とされる人物は何人かいますが、跡継ぎという位置づけにはしていなかったようです。

また、実の息子についても不明。

光慶という男子がいたようですが、彼も生年不詳な上、本能寺の変の際に何をしていたのかが全くわかっていません。

そんな状況でしたので、国継からすると

「当主も跡継ぎもいない家にいたってしょうがない。どこか別の家に仕えて、生計を立てなきゃいかん」

となるわけです。

藤堂高虎に代表されるように、当時は転職上等の戦国時代ですから、割と普通の価値観といえます。

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安田国継も「天野源右衛門」と名を変え、新たな主を探し始めました。

ざっと見てみますと……

などに仕え、いずれもうまくいかなかったようです。

まぁ、彼らと信長の関係からすると、積極的に源右衛門を召し抱えたいとは思わないかもしれません。

比較的、信長と縁が薄い秀長にしても、律儀な性格からして、やはり源右衛門はあまり好ましくない存在でしょう。

また、秀勝の前は、よりにもよって森長可(蘭丸の兄)に仕えていた期間もあったようです。

長可も長可で、一般人には理解しがたい価値観と言動の人物なので、ただ単に気にしなかったのかもしれませんが……。

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西の最強武将・宗茂の下では……

その後、文禄三年(1594)までは立花宗茂に仕えていたようです。

しばらく落ち着いて活動しており、肥後国人一揆や文禄・慶長の役にも参加していました。

その中で、いくつかの逸話が伝わっています。

主君を度々変えていることから、国継自身の性格に問題があったと見る方も多いようですが、そうとも限りません。

天正十五年(1587年)の肥後国人一揆について、こんな話があります。

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このとき、宗茂が自ら二十数名を率いて敵の城付近を偵察しに行こうとしたとき、国継はそれを諌めて、こう言いました。

「それは御大将としては軽率すぎる行動でしょう」

人によっては無礼と感じるような言い回しです。

しかし、宗茂もとんでもないスルースキルの持ち主。

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「この目で敵情を見なければ、上手く攻められまい」とだけ言って、笑いながら引き返したとか。

ちなみにこの偵察、元々は小野鎮幸(通称:和泉)という宗茂の家臣がやる予定でした。

他の人々は「(新参の源右衛門が諫言するくらいなのに)なぜ和泉は御大将をお止めしなかったのだ!」と非難したそうです。すると……。

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