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【安田国継(天野源右衛門)】
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流浪の武将・勝成とも親交あり
翌日、立花軍が城へ攻めかかると、道中の藪から一人、また一人と、手練らしき武士が出てきました。
襲ってくる様子はないものの素性がわからず、立花軍の人々は困惑して「お前たちは何者か?」と尋ねました。
すると、こう答えました。
「我々は、和泉様の命でここに忍んでおりました。敵の伏兵などがあれば、直ちに知らせるよう仰せつかっていたのです」
和泉は宗茂の舅・立花道雪の代から仕えていたので、主君の性格をよく知った上で、万が一ということがないように斥候を放っていたのでしょう。
これを知った源右衛門は、和泉の深謀遠慮に感じ入ったそうです。
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また、源右衛門はこの一揆における戦いで水野勝成などと連携し、大きな手柄を立てたといわれています。
勝成も一癖も二癖もある猛将で、各地を転々としておりましたから、国継と気が合うところがあったのかもしれません。
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その後、源右衛門は【文禄・慶長の役】の回想録として『天野源右衛門朝鮮軍物語』を書いたとされています。
しかしこれは文体からして江戸時代の成立とみられるため、本人の著作ではないだろうというのが現代の見方。
彼が残したメモや日記などから後世の人が書き起こしたか、あるいは彼が子孫に語った話をどこぞの作家がまとめて本にしたか、おそらくその辺りでしょう。
江戸時代の書物は話が盛られることも珍しくないので、どこまで信用していいものか困るのが悩みどころです。
話としては面白いものも多いのですが。
「どちらか大出世したら片方を召し抱えよう」
立花家を去ると、今度は寺沢広高に仕えて8000石をもらっていたようです。
寺沢広高は尾張出身で、父と共に秀吉に仕えた出世人でした。
永禄六年(1563年)生まれですので、源右衛門とは少し年が離れていますね。
広高は文禄元年(1592年)から、朝鮮の役関係で名護屋城の普請や各地の大名との連絡を担当していたため、このあたりでも国継と何らかの接点があったのかもしれません。
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一説には、彼らは若い頃「どちらかが大出世したら、もう片方を所領の1/10で召し抱えよう」と約束しており、広高がそれを叶えたのだそうです。
いかにも”男の友情”という感じの話ですが……いかにも出来すぎな話でもありますし……。
かくして晩年は、旧知の仲である人のもとで落ち着いた源右衛門も、最期は穏やかならぬものでした。
頬に謎の出来物ができ、しかもどんどん悪化していったため、自ら命を絶ったというのです。
しかもその日が、冒頭で触れたように慶長二年(1597年)6月2日。
本能寺の変からきっかり15年後のことでした。
当時の人々は「信長の祟りだ」と噂していたそうです。
まぁ、そう思いたくもなるような理由と日付ですが、それまでの十五年間何もせず、いきなり出来物を作って自害させるというのも、なんだかまどろっこしい信長さんの祟りですよね。
なお、今なお日本史最大の謎とされている【本能寺の変】の動機――なぜ光秀は信長を討ったのか?――という考察については以下の関連記事をご参照ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
『柳川史話 (1984年)』(→amazon)
安田国継/wikipedia