山崎の戦い

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

明智家

山崎の戦い(明智軍vs羽柴軍)で秀吉が勝てた理由~光秀は何処へ?

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
山崎の戦い
をクリックお願いします。

 

坂本の炎上で明智勢の命運は尽きる…

なお、山崎の戦いにて光秀勢が敗北したという知らせは、数時間後、明智勢の支配していた安土の地にも届いたようです。

同地を守っていた明智左馬助(明智秀満)は安土から撤収し、本拠である坂本城へと向かいました。

秀満が安土城に火を放ったという言い伝えもあります。

安土城炎上
信長亡き後に安土城炎上!放火犯は信雄か、明智か、それとも秀吉か?

続きを見る

が、フロイスによれば火を放ったのは織田信雄と指摘しており、真相は不明です。

織田信雄
愚将とされた織田信雄(信長の次男)は本当にダメ武将か?血筋は現代へ

続きを見る

また、この際の撤退に関連して、秀満が琵琶湖を渡って坂本へ落ち延びた「明智左之助の湖水渡」という伝説が誕生しました。

琵琶湖を渡ったかどうか……はともかく坂本城にたどり着いた秀満は、城内に逃亡者が多いことから籠城戦は不可能であると悟り、光秀の妻子や自分の妻子を殺すと、坂本城に火をはなった後に自刃して果てたと伝わっています。

明智左馬助(明智秀満)
謎多き光秀の側近・明智左馬助(秀満)史実ではどんな人物だった?

続きを見る

こうして隆盛を極めた明智家は完全に滅亡。

光秀の首は本能寺で晒されることになりました。

さらに後日17日には、それまで潜伏していた重臣の斎藤利三が捕らえられ、洛中引き回しの上で斬首にされます。

利三と光秀は、見せしめとして亡骸を粟田口に晒された後、24日には二人の首塚が築かれました。

明智光秀
史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ

続きを見る

斎藤利三
光秀の右腕・斎藤利三が丹波を統治!本能寺後は秀吉に捕縛され娘は……

続きを見る

山崎の戦による勝利で、秀吉は織田家宿老の中で一段と地位を高めることとなり、後の天下統一へと繋がっていくことになります。

清州会議でのヤリトリは、実は秀吉の一方的勝利ではない――そんな見方もありますが、個人的に秀吉の圧倒的能力は疑うべくもなく、他の諸将も同じようなことを感じたのではないでしょうか。

 

山崎の戦いを描いた記録とは?

最後に、【山崎の戦い】やその前後における光秀の動静を描いた記録史料を整理して、記事の締めくくりとさせてください。

まず、秀吉が大村由己(おおむらゆうこ)という僧に書かせた『惟任退治記(謀反記)』という史料に、山崎の戦いをめぐる記載が存在しています。

『天正記』と呼ばれる秀吉の活躍をまとめた軍記物を構成している史料でもあり、織田信長の事蹟を詳しく記し、彼の葬儀までの様子がまとめられています。

同書では光秀の滅亡を「因果応報」と捉えています。

合戦の記述は「即時追崩悉皆敗北(即時に追撃するとことごとくが崩れ、(明智方が)敗北した)」と簡略に述べられているのが特徴。

ただし、そもそも『天正記』自体が「秀吉アゲ」を目的に記されているという点を見逃すことはできず、史料的な価値には疑問符がつきます。

また、同じく大村由己が記したいくつかの文書にも合戦の記載がみられますが、内容はほぼ同一です。

次に、戦国から江戸の時代に活動し、儒学者として知られた小瀬甫庵が記した『太閤記』という史料にも記述があります。

内容が詳細に描かれている一方で、たとえば13日早朝に天王山の争奪戦があったという記述は堀尾吉晴(甫庵の旧主)の戦功を誇張したもので、他書との喰い違いがみられる点も。

当主の功績を「盛る」というのは史料あるあるなので、読む側もよく心得ておく必要アリです。

大村由己像/photo by TYOME98 wikipediaより引用

また、江戸時代も中盤の元禄期に記された作者不詳の軍記物『明智軍記』の最後は「城州山崎合戦事」で、光秀の心境を中心に述べています。

同書はだいぶ時代を下ってから書かれた軍記物であり史料的価値は高くないですが、光秀本人に着目し、時間的経過を追った詳細な記録であるという一面は無視できないでしょう。

他にも、この記事で何度も名前を挙げてきた光秀の友人・吉田兼見が記した『兼見卿記』には、山崎での鉄砲音を聞いているという事実や、落ち延びていく武士たちの様子などが書かれています。

同書は戦国でも貴重な一次史料であり、公卿という立場にいたことから様々な武将との交流もあったようで、史料価値は高いと見るべきです。

ただし、裏切り者となってしまった光秀との関わりを懸念して、兼見自身の立場を悪化させないように書き直した形跡もみられます。

本能寺の変直後は、何度も顔を合わせ将来を語り合ったことと推測でき、兼見にとってもこの書き直しはさぞかし無念であったことでしょう。

また、合戦に参加した武将の家譜類にも多くの記事が残っています。

しかし、史料という観点では肝心の明智家や光秀自身が後世に多くの文書を残していないため、謎に包まれている箇所も少なくありません。

「敗者の歴史は残らない」

秀吉との差を考えるとその真理には抗えないのでしょう。

あわせて読みたい関連記事

明智光秀
史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ

続きを見る

豊臣秀吉
ド派手すぎる豊臣秀吉の逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

織田信長
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ

続きを見る

明智左馬助(明智秀満)
謎多き光秀の側近・明智左馬助(秀満)史実ではどんな人物だった?

続きを見る

斎藤利三
光秀の右腕・斎藤利三が丹波を統治!本能寺後は秀吉に捕縛され娘は……

続きを見る

吉田兼見
光秀と親密だった吉田兼見『兼見卿記』には何が書かれてる?本能寺は?

続きを見る

高山右近
戦国武将でキリシタンの高山右近はなぜマニラに没した?63年の生涯

続きを見る

文:とーじん

【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名事典』(→amazon
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』(→amazon

TOPページへ

 



-明智家
-

×