山崎の戦い

明智光秀(左)と豊臣秀長(右)/wikipediaより引用

明智家

秀吉と光秀が正面から激突「山崎の戦い」勝敗のポイントは本当に天王山だった?

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光秀は小栗栖で土民の襲撃を受け

現代の地図で

【勝竜寺城→坂本城

を確認してみますと。

距離約27km、徒歩で6時間前後ってところですね。

日本在来馬は小型とはいえ最大で時速30~40kmは出せるので、当時の道の状態を勘案しても60~90分ぐらいで着く距離でしょうか。

しかし、少ない手勢を連れた逃亡の最中です。

道程は危険そのもの。

山科の小栗栖(現在の京都市山科区)に入ったところで、光秀は土民の襲撃を受けて負傷します。

そして事ここに至って観念したのでしょう。

切腹の後、家臣の三沢秀次(溝尾茂朝)に介錯をさせ、果てたと考えられています。

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アテにしていた武将にそっぽを向かれ、圧倒的不利な戦に挑み、最後は逃げまどううちに刺されて亡くなった光秀。

【謀反の見込みが甘すぎる】と判断されたのか、あまりの「あっけなさ」ゆえなのか。

その後の光秀は、日本人好みの判官贔屓ほうがんびいきの対象にさえなりませんでした。

彼の「三日天下」における一連の行動はあまりにも物悲しく、個人的には同情を抱かずにはいられません。

大河ドラマ『麒麟がくる』では、この山崎の戦いや光秀の最期は注目されましたが、結果的に描かれませんでしたね。

『麒麟がくる』明智光秀イメージ(絵・小久ヒロ)

 


坂本の炎上で明智勢の命運は尽きる…

なお、山崎の戦いにて光秀勢が敗北したという知らせは、数時間後、明智勢の支配していた安土の地にも届いたようです。

同地を守っていた明智左馬助(明智秀満)は安土から撤収し、本拠である坂本城へと向かいました。

秀満が安土城に火を放ったという言い伝えもあります。

しかし、フロイスによれば火を放ったのは織田信雄と指摘しており、真相は不明です。

また、この際の撤退に関連して、秀満が琵琶湖を渡って坂本へ落ち延びた「明智左馬之助の湖水渡り」という伝説が誕生しました。

「湖水渡り」で知られる明智左馬助(歌川豊宣作)/wikipediaより引用

琵琶湖を渡ったかどうか……はともかく坂本城にたどり着いた秀満は、城内に逃亡者が多いことから籠城戦は不可能であると悟り、光秀の妻子や自分の妻子を殺すと、坂本城に火をはなった後に自刃して果てたと伝わっています。

こうして隆盛を極めた明智家は完全に滅亡。

光秀の首は本能寺で晒されることになりました。

さらに後日17日には、それまで潜伏していた重臣の斎藤利三が捕らえられ、洛中引き回しの上で斬首にされます。

利三と光秀は、見せしめとして亡骸を粟田口に晒された後、24日には二人の首塚が築かれました。

山崎の戦による勝利で、豊臣秀吉は織田家宿老の中で一段と地位を高めることとなり、後の天下統一へと繋がっていくことになります。

清州会議の結果は、実は秀吉の一方的勝利ではないと指摘されますが、

清洲会議
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それでも山崎における秀吉の圧倒的能力は疑うべくもなく、他の諸将も同じようなことを感じたのではないでしょうか。

 


山崎の戦いを描いた記録とは?

最後に【山崎の戦い】やその前後における光秀の動静を描いた記録史料を整理して、記事の締めくくりとさせてください。

まず、秀吉が大村由己(おおむらゆうこ)という僧に書かせた『惟任退治記(謀反記)』という史料に、山崎の戦いをめぐる記載が存在しています。

『天正記』と呼ばれる秀吉の活躍をまとめた軍記物を構成している史料でもあり、織田信長の事蹟を詳しく記し、彼の葬儀までの様子がまとめられています。

同書では光秀の滅亡を「因果応報」と捉えています。

合戦の記述は

即時追崩悉皆敗北

即時に追撃するとことごとくが崩れ(明智方が)敗北した

と簡略に述べられているのが特徴。

ただし、そもそも『天正記』自体が「秀吉アゲ」を目的に記されているという点を見逃すことはできず、史料的な価値には疑問符がつきます。

また、同じく大村由己が記したいくつかの文書にも合戦の記載がみられますが、内容はほぼ同一です。

次に、戦国から江戸の時代に活動し、儒学者として知られた小瀬甫庵が記した『太閤記』という史料にも記述があります。

内容が詳細に描かれている一方で、たとえば13日早朝に天王山の争奪戦があったという記述は堀尾吉晴(甫庵の旧主)の戦功を誇張したもので、他書との喰い違いがみられる点も。

当主の功績を「盛る」というのは史料あるあるなので、読む側もよく心得ておく必要アリです。

大村由己像/photo by TYOME98 wikipediaより引用

また、江戸時代も中盤の元禄期に記された作者不詳の軍記物『明智軍記』の最後は「城州山崎合戦事」で、光秀の心境を中心に述べています。

同書はだいぶ時代を下ってから書かれた軍記物であり史料的価値は高くないですが、光秀本人に着目し、時間的経過を追った詳細な記録であるという一面は無視できないでしょう。

他にも、この記事で何度も名前を挙げてきた光秀の友人・吉田兼見が記した『兼見卿記』には、山崎での鉄砲音を聞いているという事実や、落ち延びていく武士たちの様子などが書かれています。

同書は戦国でも貴重な一次史料であり、公卿という立場にいたことから様々な武将との交流もあったようで、史料価値は高いと見るべきです。

ただし、裏切り者となってしまった光秀との関わりを懸念して、兼見自身の立場を悪化させないように書き直した形跡もみられます。

本能寺の変直後は、何度も顔を合わせ将来を語り合ったことと推測でき、兼見にとってもこの書き直しはさぞかし無念であったことでしょう。

また、合戦に参加した武将の家譜類にも多くの記事が残っています。

しかし、史料という観点では肝心の明智家や光秀自身が後世に多くの文書を残していないため、謎に包まれている箇所も少なくありません。

「敗者の歴史は残らない」

秀吉との差を考えるとその真理には抗えないのでしょう。


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文:とーじん

【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名事典』(→amazon
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』(→amazon

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