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【光秀の母・お牧の方】
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信長の判断で殺害された?
お牧の方の生涯は不明ながら『総見記』という史料に有名なエピソードが一つ掲載されております。
それは明智光秀が丹波の攻略を織田信長に命じられ、八上城を攻撃していた際のこと。
波多野秀治ら波多野三兄弟が籠る八上城を開城させるため、光秀は次のように提案しました。
「開城してくれれば三兄弟の身の安全は保証しよう。私の意思を証明するために、母(お牧の方)を人質にする」
この言葉を信用した三兄弟は程なくして投降します。
しかし、光秀の意思とは裏腹に、信長は安土で彼らの処刑を命じるのです。
約束を違えられたことに激怒した波多野遺臣らは即座にお牧の方を殺害。最後の抵抗として城外に繰り出し、ことごとく討ち死にした――。
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自身の母を人質にしているということは、当然信長の耳にも入っていたハズ。
にもかかわらず無慈悲な処刑を敢行した信長を恨み、光秀が【本能寺の変】を引き起こした一因になったと「怨恨説」の裏付けとして説明されることも多い出来事です。
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内容だけを読めば「やっぱり信長は冷酷な魔王だったのか……光秀かわいそう……」と同情したくなりますし、本能寺の変の動機としては十分なようにも思えます。
しかし、そもそも論として「このエピソードは本当なのか?」という点を検証しなければなりません。
そもそも人質を出す必要はあったのか?
結論から申し上げます。
「お牧の方が人質に出され、信長の意向が原因で殺害された」というエピソードは【創作の可能性が極めて高い】と考えられています。
根拠を見ていきましょう。
まず「母を人質に出さなければならない状況」ですが。
それは背景に「なんとか開城させなければならない事情があった」ということに繋がるはずです。
つまり、光秀が【八上城(やかみじょう)の攻略に手間取っていた】という証拠があれば、母を人質に出すしかなかった心情も説明できます。
しかし、当時発給された光秀関連の書状や『信長公記』の記述を見る限り、光秀が八上城の攻略に苦しんでいた様子が全く見えてこないのです。
確かに波多野三兄弟は比較的長く籠城していたものの、光秀に兵糧攻めされており、それを打開できる策はなく、いわゆる「ジリ貧」状態に陥っておりました。
これには光秀サイドも楽観的な見方をしており、周辺勢力の間でも「丹波攻めは順調に進んでいるらしい」という風評が流れるほどです。
わざわざ母親を人質に出さなければならない理由は見当たりません。
信長研究で高名な専門家たちも辛辣
また「母が人質になるという条件で開城した」という波多野氏側の態度も、当時の実像とは大きくかけ離れたものです。
光秀による兵糧攻めで城内は餓死者が続出。
それでも波多野秀治は徹底抗戦の構えを崩しません。
城から逃げようとする者があれば容赦なく切り捨て、かといって降伏勧告にも応じず、支城が陥落しても戦い続けていたのです。
これだけ強固な意志を有していた秀治が、果たして敵将の母が人質になるという理由で降伏に応じるでしょうか?
極めつけは、このエピソードが記載されている『総見記』という史料自体、歴史学的にはかなり価値の低い代物である点が挙げられます。
なんせ本能寺の変勃発から100年以上が経過して誕生した史料であり、脚色や創作が加えられているだけでなく、非常に誤りが多いと手厳しく批判されているのです。
やはり創作の可能性が高い同エピソード。
信長研究で高名な専門家たちの意見も辛辣で、ご著書の中で触れられております。
谷口克広氏「事実でないことははっきりしている。研究家にしても1950年以降は、この話を変の動機として採用する者はいない」
渡邊大門氏「まったくの創作であり、史実とは認めない」
もはや【完全否定】で結論づけられているんですね……。
万が一、新史料などが見つかれば話は変わってきますが、現状ではその可能性は低そうです。
★
・唯一伝わる人質の逸話すら創作
・そもそも光秀の母かすら定かではない
まるで雲を掴むような存在のお牧の方。
大河ドラマ『麒麟がくる』がキッカケで、何か新しい史料でも見つかることを待つしかなさそうですが、今の所これといった発見は報じられておりません。
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文:とーじん
絵:小久ヒロ
【参考文献】
『国史大辞典』
谷口克広『検証 本能寺の変(吉川弘文館)』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)