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【藤田伝吾】
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山崎から敗走し、光秀と共に散る
なぜ筒井順慶は、これほどまでに揺れ動いていたのか?
というと、光秀との関係を優先したい思いがあった一方、怒涛の勢いで帰京してくる羽柴秀吉軍(豊臣秀吉)の情報を握っていたからだと言われています。
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結局、6月10日の時点で、順慶は「秀吉方につく」という決断を下したようです。
この日に伝吾がふたたび誘いに来たのですが、順慶はこれを断り、起請文を持たせた家臣を秀吉陣営へ派遣しました。
こうして、順慶を味方につけるミッションに失敗した伝吾。
戦以前の働きぶりや両者の関係性を鑑みると、「順慶を味方にし損ねた」というより「あと一歩のところまで順慶の心を動かした」というほうが正確かもしれません。
実際、順慶は出兵要請がありながら山崎の戦いでは傍観者に徹し、後に秀吉から叱責されています。
秀吉の【中国大返し】で戦場へ誘い出された明智軍。
当初は味方に想定していたであろう細川藤孝や筒井順慶が不在のまま【山崎の戦い】に挑みました。
伝吾は光秀本隊に属して戦い、ほどなくして明智軍は敗走へと追い込まれます。
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仮に伝吾が順慶の説得に成功していれば?
光秀は戦場から離脱して逃走を始めました。
伝吾も本隊に属していたこともあって、光秀に付き従っていたようです。
しかし、醍醐・山科のあたりに差し掛かった際、彼は「落ち武者狩り」によって負傷し、それ以上の逃走は叶わなくなりました。
光秀は同じく付き添っていた三沢秀次に介錯を命じると、腹を切って自害します。
この際、伝吾も主君に殉じて自害したと伝わります。
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「歴史にifは禁物」とよく言われます。それでも敢えて考えてみたい。
仮に伝吾が順慶の説得に成功していれば、山崎の戦いに勝つことはできたのでしょうか?
勝利とまでは思えませんが、大和衆が味方になっていればもうマシな「負け方」になったのではないか?
総崩れになるような展開ではなく、睨み合いが続いた後に、毛利や上杉、徳川なども動き……と、ifはいくら考えてもifですね。
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文:とーじん
【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)
田端泰子「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究所)
海音寺潮五郎『明智光秀をめぐる武将列伝』(→amazon)