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【斎藤利三】
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事前に調略されていた斎藤家はもろくも崩れ(稲葉山城の戦い)、龍興は美濃からの敗走を余儀なくされました。
龍興の失脚により没落した斎藤家を見限った稲葉一鉄(稲葉貞通)は、これ以後、信長の配下として仕えます。
このときの内応について利三が関与していたかどうかは不明ですが、少なくとも稲葉氏の離反に伴い、主と共に織田家へと離反したのは確実でしょう。
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信長の配下になる前の斎藤時代に利三が妻を娶っていたことは確実で、その素性は道三の娘とか、良通の娘とか、あるいは姪とか様々な説が混在します。
実は、生まれてきた子供が後に江戸幕府でかなり重要な役割を担うことになるのですが、詳細は後述するとして先へ進めましょう。
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光秀に仕えてからは信頼を獲得して大活躍
前述のとおり、良質な史料に利三の名が登場するのは元亀元年(1570年)のこと。
浅井・朝倉の裏切りに遭った信長が越前から撤退する最中、警護を命じられています。
この時はまだ稲葉良通の配下にあったようで、彼の与力という立場は変わっていなかったと考えられます。
しかし、その後まもなくして利三は良通のもとを離れ、光秀に仕えるように。
鞍替えの詳細な史料が残されておりませんが、一説では光秀が利三の能力を見込んでヘッドハンティングしたという見方もあります。
仮にこれが事実であるとすれば、親戚関係にあったとはいえ利三の能力は高く評価されていたと考えられるでしょう。
『当代記』という史料では彼のことを「信長勘当の者」と表記しており、鞍替えの際に何かしらのトラブルを起こし信長を激怒させた可能性が指摘されています。
ただし、天正8年(1580年)ごろには、信長に重用されていた茶人・津田宗及に関係した茶会に利三が出席していることから、この時期までには信長の許しを得ていたと見るべきです。
いずれにせよ利三は、光秀から非常に重用されました。
処遇を見ると明智秀満ら筆頭家臣のそれと似通った扱いを受けているのです。
やはり優秀な人物であったのでしょう。
各地の合戦と並行しながら丹波を攻略
詳細は不明ながら光秀が関わった主要な合戦にはほとんど従軍していたと見なされており、例えば丹波国攻略などにも貢献したはずです。
丹波周辺は国人たちが割拠する攻略の難しい地域と目されており、厳しい戦いを強いられました。
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しかも、雑賀攻めや本願寺攻略など、織田家の合戦と並行しながら、丹波国のみならず丹後国の平定も見事に成し遂げ、信長から感状を受け取っています。
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明智光秀は計34万石を所有する一大勢力に成長。
手に入れた丹波の地には重臣らが配置されました。
利三も1万石を与えられ、黒井城城主と氷上郡(現在の兵庫県付近)の統治を命じられます。
このように、急成長していく光秀の勢力拡大に伴う恩恵にあずかる形で、利三もまた織田家臣団の中で力を握っていくようになります。
しかし、主君である光秀のクーデターにより、彼もまた運命を急転させます。
利三は、織田家と長宗我部家(四国)との狭間に立たされてしまい、その動向は【本能寺の変】にも影響しているかもしれないのです……。
滅びゆく光秀に忠を尽くし
天正8年(1580年)ころになると、それまで同盟を結んでいた四国の長宗我部家と織田家の関係が悪化。
両者は敵対するようになり、天正9年(1581年)には信長の支援を得た三好氏や十河氏らが長宗我部家へ攻め込みます。
さらに天正10年(1582年)2月には、信長の三男・織田信孝を総大将とした四国攻略軍が編成され、長宗我部家当主だった長宗我部元親は危機感を募らせました。
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元親は、親戚関係にあった斎藤利三へ書状を送り、信長へ恭順する用意があることを示唆します。
光秀や利三としても、織田家による長宗我部攻撃は避けたいところでした。
元はと言えば、信長は四国のことを「切り取り次第(好きなように分捕りなはれや)」と元親に約束していたのです。
それが突然、約束を反故にし、
「領土は土佐と阿波(南部)だけにして伊予と讃岐は返還せよ」
という強硬な姿勢になったのですから、長宗我部としては憤懣やるかたないところ。
信長と敵対するべきか否か?
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